「なんとなく、憑いている化け妖の怨念が分かりましたよ」

帰りの電車に乗り込むなり、恋時が言った。
結衣はその声にはっとして、遠ざかっていくホームから視線を外す。

「ハチくんが心配ですか?」
「……まぁ少しね。このまま帰ってこなかったりしたらどうしよう、って。ないと思うんだけどさ」

「大丈夫ですよ。妖ですからね。普通の犬ならともかく、自分の住処を忘れることはないと思いますよ。それくらい知ってらっしゃるのでは?」

もちろん、基礎知識だ。
妖の基本的な知能は、動物よりよっぽど高い。

ハチが実は結衣より前から八羽神社に住み着いているのも知っている。

けれど、初めて息子をお使いに出す母親のように、そわそわとする。

結局、ハチには単独での尾行を続けてもらうことにしていた。
任せきりは可哀想だと、しばらく影から見守っていたのだが、途中で思い直した。

怠け者のハチが珍しくやる気を見せているのだ。下手に介入して、水を差すのはもったいない。

「ごめん、それでなんだっけ?」

気を取り直して、再度尋ねる。恋時は、お安い御用だ、と人差し指を立てた。

「憑いてる妖のことです。たぶん、恋愛に執着がある妖なのでしょうね。それも叶わずに終わった話が好きらしい」
「恋愛に執着があるって言うのはわかるけど、なんで失恋……?」

化け妖が特別な反応を見せていたのは、和歌の授業時、それも恋い慕う歌を取り扱っている時だけだった。

そこから恋愛関連だとは絞れても、失恋には限定できない。

「額田王の和歌ですよ。あれは、恋人の天武天皇に会えない悲しみを詠んだものなんです。小野小町の方は、夢でしか会いにこない恋人に対する恨みを歌にしたもの。どちらも性質が似ているでしょう?」
「……そうだったの」

結衣の根付けから生まれたくせに、所持者より博識とはこれいかに。教授の話を聞いておけば良かったと思うが、後の祭りである。

「つまり、竹谷さんに憑いた理由も同じようなものが考えられますね。彼女がなにか届かない想いを抱え込んでいる、だとか」
「でも、そうは見えなかったよね、さっきの二人を見てると。むしろ順調そうだったけど?」

未央は先輩のことを「別に好きではない」と評していた。けれど今日の二人を見れば、その発言が照れ隠しに思えるような空気感だった。

「えぇ。ですからもしかすると、化け妖が彼女を取り込めていないのは、そのせいなのかもしれません。簡単に言うと、幸せオーラが化け妖の悪の力に優っているんですよ。今のまま取り憑かれていては、すんなり結ばれることはないでしょうが」

それだけで、いかにも巨大な妖力を持っている妖を抑え込めるものか。

少し腑に落ちきらなかったが、恋心のなせる業というなら、結衣にはそうと思うほかない。彼氏はもちろんのこと、まともに誰かに恋心を抱いたことも、生まれてこの方経験していなかった。

「先輩さんも昔、妖に憑かれていた、っていうのは関係あるのかな」
「さぁ? それは、ハチくんの報告を待ちましょう。少しずつ進めばいいですよ。
 竹谷さんは、いわばコップになみなみ注がれた水です。下手に刺激をしなければ、こぼれない。彼女が幸せでいる限り、化け妖が暴れ出すことはないですから」

ならば、ひとまず小休止といったところか。

結衣は肩の力を抜いて、揺れる車窓の景色に目を移した。


最寄りである彦根駅に到着したのは、六時頃だった。
ホームに降りると、夕日に照らしあげられる彦根城の桜が視界に飛び込んでくる。綺麗だと思ったのはほんの束の間、結衣は鞄からエコバッグを取り出した。

風情を楽しむのもいいが、帰ったらすぐにご飯の支度をしなければならない時間だ。

「スーパー寄って行ってもいいかな? 駅前で特売やってるみたいなんだ」
「ふふっ、まさに、花より団子ですね。ハチくんのためですか?」

「うん、それもあるかな。頑張ったらご褒美貰えるって覚えてもらわないとね」

今日こそは、本物の鶏肉を食べさせてあげようかな。奮発して、モモ肉、いやムネでもいいか……。

頭の中で家計とのせめぎ合いをしながら、改札に切符を通さんとする。

と、まさにその時だ。外から猛然と中へ駆け込んでくる、小さななにかがいた。それは人波をすばしっこく切り抜けると、

「な、なに!?」

結衣めがけて一直線に飛び込んでくる。

避けきれそうにもなく、受け止めんと腕を開いた。しかし衝撃は思いのほか大きく、後ろへよろめいてしまう。

「大丈夫ですか、結衣さん」

恋時が、腕を受け皿にして背中を支えてくれていた。

「あ、ありがとう、伯人くん」

見上げると、鼻と鼻が触れ合う距離に、彼の顔がある。

何度見ても、芸術的なほどに精巧な作りだ。その三日月のような瞳に捉えられれば、刹那的に、時間のことを忘れそうになる。

胸の鼓動が一度大きく跳ねて、反射的に結衣は彼の身体から起き上がった。

場を濁すように、自分が捕まえたなにかを見る。
薄茶色の厚みある毛並みは、よく知った感触だった。
「……ハチ!! どうしたの。ここまで走ってきたの!?」
「ほ、ほうや、全力やで。電車よりは早く着く思ってな。それより結衣、恋時はん。大変なんや! えっと、とにかく大変でな──」

舌を垂れ、合間で息を切らす彼を、結衣は物陰へと連れていく。

周囲が、なにごとかとざわついていた。よく考えれば、本物の忠犬ハチかのようなシーンだ。関心を集めるのも無理はない。

駅員に注意されないためにも、人のなりへと変わってもらう。

姿を消させてから、事情を聞く。

「さっき僕がつけていった男おるやない? 竹谷はんのお相手さんや。あいつ、二股かけとった。……それも、竹谷はんの友達の女の子とな」

結衣の瞳孔はピンで留められたかのように、開いたままになる。

自分の耳を疑わざるを得なかった。

「あの先輩が、竹谷はんにあげとったバターサンドあったやろ。あれ、その子が地元の土産として、先輩に渡しとったものやったんや」
「お土産? たしか友達の女の子の出身地は北海道だったよね。春休みには帰省したって話をしてたような」

改めて思えばバターサンドは、有名なご当地土産の一つだ。

友達の女の子は心を込めて送ったのだろうお土産。
それを別の人を口説くために使っていたと思えば、虫唾が走る。

「授業中に会ってた理由も分かったで。チャイムの後、竹谷はんと入れ替わるように、友達の女の子が来たからなぁ」
「……あ。じゃあわざわざ授業中に会ってたのは、早く好きな人に会いたいからじゃなくて、二股現場を目撃されないための先輩さんの策略ってこと?」

ハチがそのまま認める。恋時は苦そうに下唇を噛んで、

「なるほど……。化け妖に憑かれるのも全く不思議がないほど、腐った魂だ」
こう吐き捨てた。

端正な表情を、まるで鬼のような形相に歪めている。初めて見る側面に、結衣は少しおののいた。

だが、彼に恐れを抱いている場合ではない。

「それで、ハチ。急いできたってことは、まだなにか起こったってことだよね?」
「そやねん、それが……。その先輩と友達はんが、夜に学校内の花見に行くって話をしててな。先輩の方は渋ってたんやが、友達はんがどうしても、って」

「……たしか、竹谷さんもいくって話じゃ」

 それも、サークルの友人に極秘のサプライズを仕掛けるという話だった。情報が漏れる可能性を考えると、二人には、伝えていない可能性が高い。

「つまり、このままだと鉢合わせる?」

口にするのが恐れ多いことのように、こくりとハチは首肯した。

恋時が言うに、未央は「なみなみと水を注がれたコップ」とのことだった。

二股をかけられていたことが、刺激でなくて、なにだろう。もはやテーブルをひっくり返されるのに近い。

「結衣さん。急げば、まだ化け妖が竹谷さんの体を乗っ取る前に対処できるかもしれません」
「……急いで戻ろう!」

階上のプラットホームから、ちょうど電車の到着を告げるメロディが鳴り響いていた。
結衣と恋時は、すぐさま踵を返す。


「ハチは神社で休んでてよ。無理しちゃいけないから」


改札の外へ出ていなくてよかった。
料金面でも、時間の面でも。