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「お金がない……」
まるで亡霊のようにそう呟いてから、八雲結衣は、はっと目を開けた。
正座の姿勢、少し乱れていた袴装束を正す。
場所は、滋賀県彦根市、城下町の一角にある八羽神社(はちわじんじゃ)境内の本堂。
ついさっき、朝の礼拝を行い終えたところだ。
神道において「朝拝(ちょうはい)」と呼ばれるこのお参りは、一日の始まりであり、心身を清める行為にあたる。
だが、頭の中はといえば、まだ淀んだままだった。
この際、空っぽにするつもりで冴えた空気を肺に含む。その甲斐なく
「お金がない……」
数秒後、結衣はこう繰り返していた。
一神社を預かる宮司としては大変情けない話だが、実際問題それは、無視できるべくもなく差し迫った課題だったのだ。
そもそも、至るところの神社で閑古鳥が鳴き、宮司らはみな経営に苦慮する時代である。
調べたところによれば、高名な神社でさえ、神事だけでは維持費を賄いきれず、動画配信やら土地貸しやら、資金集めに奔走しているそう。
高校在学中から代理として実質的に宮司をつとめ、神職養成所に通ったのち、父親から正式に職を受け継いで、早一年。
前代の頃から、
「壊れかけの寂れ神社」「妖怪出るらしいよ、あそこ」
などと不本意な噂をされてきた八羽神社にお金がないのは、当然のことだった。
出雲大社と同じ「大国主様」をお祀りしていて縁結びのご利益があることなど、誰も知らない。
それに、誠に遺憾ながら、その悪評は的を得ていた。
「失礼しました」
御神体である鏡に一礼し、結衣は本堂を後にする。
長い廊下を渡った先が、社務所兼自宅の平屋だ。
身体が、芯から震えるような寒さだった。隙間風がびゅうびゅう音を立てている。外は桜が咲く春うららかな季節だというのに、入り込んでくる風はまるで冬将軍だ。
さらに悪いことには、
「……また雨漏り。この間直したばっかなのに」
ぴちゃんぴちゃん、水滴が床を叩きつけていた。
季節の変わり目だけあって、天気が不安定だ。
祈祷中に、通り雨があったらしい。
結衣はすぐに雑巾、受け皿がわりのバケツを洗面所から持ってくる。
これくらいは日常茶飯事のことだったから、用意は万全だった。
びゅうびゅう、ぴちゃんぴちゃんは、もはや生活の効果音だ。
ひどい時などは、境内にある摂末社が強風で半分壊れかけたこともある。その時は、見様見真似の組み木で対処を施した。
この間、信仰してくれる人の代表である氏子総代のご老人はやってくるやいなや、
「ごめんね、中々もうお金も集まらなくて」
結衣にこう頭を下げたが、むしろ申し訳なかったくらいだ。
要するに、八羽神社は本当にボロかった。
その境内のすぐ外に『鎮守の森』という厳しい名前の鬱蒼とした森林があるのだから、怖がられるのも無理はない。さらに加えるならば──。
ミシミシと背後から嫌な音が鳴った。
「こら、ハチ! あんまり走り回らないでよ、床抜けたらどうするの」
結衣は、屈んだ姿勢、振り向きざまに注意をする。
駆けてきたのは、焦げ茶色の巻毛が立派な、犬のハチだ。結衣より前から、ここに住み着いている。名前は、神社の名称と、かの有名な忠犬から頂いてきた。
わしゃわしゃと頭を撫でると、魅惑の手触りだ。
彼は彼で、心地よさそうに目を細め、喉を鳴らす。
こうしていれば少しヤンチャな芝犬といった風なのだが、
「だってお腹空いたしな! いい匂いがずっとしとったしなぁ。結衣、朝ご飯まだ?」
「ほんと鼻が効くんだから。もう用意してあるよ」
「まぁ僕にかかればこないなもんや。醤油の匂い嗅がせたら誰にも負けん」
ハチは、表情豊かに、かつ流暢に、近江弁を喋れてしまったりする。いらない特技を持っていたりする。
そして極め付けには、
「で、今日の朝ごはんは? 僕、牛肉がいいなぁ。丑年やし」
瞬く間に人型に変わることもできるのだ。
見る間に制服姿の少年となり、二足で立ち上がったハチがよだれを拭う。
ごわっとややボリュームのある髪に、夏祭りのスーパーボールほどに丸く煌びやかな目が、可愛さを前面に押し出してきていた。変化しても、残ったままの耳や尻尾がまたあざとい。
お茶の間の前の婦人ならウインク一つで落として、牛ステーキくらいならご馳走してもらえそうだ。
だが、人型となった彼は、普通の人には見えない。彼の声も、耳には届かない。犬の状態で喋る言葉も、他人には吠え声に聞こえる。
なぜならば、妖だから。
噂というのは不思議である。姿を見ることはないはずなのに、見事に当たっているのだ。
八羽神社には、本当に妖怪がいる。
「干支にかこつけて、贅沢なもの要求しないの。でも、楽しみにしてて。今日は新しい料理作ったから」
物心ついた頃から十九歳となった今まで、結衣には常に彼らが見えていた。
大人になるうち、それが特殊な体質であることは理解して、人前ではどうにか見ない素振りをして来たのだけど、いるものはいる。
一口に「妖怪」といっても、彼らの生態は個体によって様々だ。一般的なイメージのように、全てが禍々しい形をしているわけではない。
類型化はできても、全く同じ個体がいないのは大きな特徴の一つである。
生活の仕方はそれぞれに異なり、中には、人の世界に溶け込むように生活を営んでいるモノもいる。
感情であったり、社会の作るイメージだったり、年月の経過であったり。彼らが生まれてくる理由も、同じく幅広い。
中には、恐ろしく強い思念から誕生する妖もいて、彼らは時に人の世へ災いをもたらすこともあるから困るのだけれど。
結衣にしてみれば、余計な『仕事』は少ない方がいい。
「ねぇ。ハチは、どんな理由で妖になったんだろうね」
「ほんなん知らんわ、気づけばこの身体やったし、さらに知らんうちにここにおったしなぁ。あ! やけど、僕も、ご飯食いそびれたら、結衣を呪うかもしれん!」
「……たぶん思念から生まれたんじゃない、ってことは分かったよ。まぁその方がいいんだけどね、呪われても困る」
「そうやなぁ、それは僕も思うで。人を呪うとか罪に走るとか趣味やないし。飯食うだけが生きがいっていうか」
「食い意地の張りすぎもどうかと思うけどね。ねぇ。私もすぐ行くから、ご飯とおかず、お皿に盛っといてくれる?」
ハチは、食い気味に頷いた。
それを見てから結衣も立ち上がる。廊下の先すぐにある、自室へと下がった。
いったん袴を脱ぎ、私服へと着替える。コンセプトは「ザ・普通」、シャツとスカートのシンプルなコーデだ。
神社で育ってきたとはいえ、まだまだ普段着の方がいくらも落ち着く。
宮司に就ける位としては一番低い「権正階(ごんせいかい)」という階位にいる結衣の衣装は、浅葱色の袴と決められていた。
淡い色味だけに、いつ何時汚してしまうかも分からないから怖かった。
心まで軽くなって、結衣は足早に居間へと向かう。
用意されていたのは、二セットのみの朝餉だった。
「雪子(ゆきこ)は、今日も出てこなかったかぁ」
雪子とは、屋敷に住む雪女の妖のことだ。
「どうせまた少女漫画でも読んでるんや。ハマったら長いからなぁ、今回はなにに影響されるんやろう……。それより、僕もう食べるで? ほな、いただきまーす」
まだ聞きたいことがあったのだが、ハチはもう箸を伸ばしていた。メインとして用意した卵とじ丼を一口含んで、頬を赤くする。
「なんや、めっちゃ美味いやん! これ、親子丼ってやつ!? 最高やな」
どうやら騙されてくれたらしい。したり顔で、結衣は人差し指を振る。
「ううん。高野豆腐の卵とじ丼。でも、乾物を硬めに戻してあるから、食感は肉に近いと思う。どうかな、このアイデア!」
「な、なんやて……。肉じゃないんか!? そんなん詐欺や! ぬか喜びさせんでくれや」
「しっかり騙されてるんだから文句言わないの」
すまし顔で言い返しつつ、結衣も席につく。手を合わせて、一口含んだ。
味は、本物と大差なかった。
ジューシーさには欠けるが、出汁を吸っている分、こちらの方が瑞々しい。
歯を入れると、優しい旨みが舌を蕩かした。
お金のなさから、コスパはもっとも重視している項目だが、この完成度を保てるならば我ながら誇らしい。
「……悔しいわ、僕。ちゃんと美味いのが悔しい!」
なんだかんだ言いつつも、ハチの箸が止まることはなかった。椅子の背では、尻尾も機嫌良さそうに揺れている。
たわいのない話をしながら、二人して食べ進めていく。
と言っても、側からみれば結衣一人しか映っていないそうなのだから、おかしい。
茶碗などはハチの手に触れると消え、離れれば再び見えるようになるそうだ。とすれば二膳を前にしている結衣は、とんだ大食らいに思われるのだろう。
全くもって変な現象だ。
だが、これこそが結衣にとっての日常だった。平然と妖に接し、節約ご飯の並ぶ食卓を一緒に囲む。
父が京都の神社へ奉仕に出て以来、毎日がこの繰り返しだ。
強いてなにか変わったことといえば、最近新たに妙な妖が仲間に加わったことくらいだろうか。
つと、隣の和室から物音がした。どうやら、その彼がそこにいるらしい。
「ほんと好きだね、その場所。ちょっと開けるよ」
結衣は立ち上がって、襖を慎重に引く。
もう年代物で、建てつけが悪かった。破れもしているのだが、ハート型にも桜の花びらにもみえる布で補修し、いまだ現役続行中だ。
不穏な音とともに戸が開くと、焼けた畳が目に飛び込んでくる。ぞわり、と背筋に緊張が走った。
やっぱりこの部屋は苦手だ。
そう思っていたら、
「おはようございます、結衣さん」
部屋の古臭さとはまるで無縁の、爽やかな挨拶が飛んできた。
彼はあぐらをかき、なにやら胸元には参考書を手にしていた。横文字が並んでいて結衣はタイトルさえ読む気にもならないが、朝から熱心な物である。
「今日も食べないの?」
答えを分かりつつも、結衣は問いかける。
長く艶やかな銀色の髪を揺らして、彼は首を縦に振った。
「えぇ、遠慮します。俺は、別に食べずとも死にませんから」
常に緩やかな微笑みをたたえるその顔は世にも美しく、不覚にもどきりとする。
朱に染まった虹彩に、黒の瞳孔はその二重を際立たせていた。
妖相手だが、その姿は全く人と変わらないのだ。
名前は、恋路(こいじ)伯人(はくと)というらしい。
語りたがらないので詳しい生い立ちは聞いていないが、その起源は想定がついていた。
和服の帯が五色の組紐で出来ていたり、手提げを持っていたり。その特徴は、結衣の持っていた白ウサギの根付けにそっくりだったのだ。
元々は、八羽神社で売っているお守りの一種だった。
白ウサギが、背中に大袋を背負ったデザインだ。
ウサギなのは、かの有名な「因幡の白ウサギ」の神話が由来。手提げ袋は、主祭神である大国主(おおくにぬし)様が背負っていたことにあやかっていた。
大国主様が助けたウサギが、その神様の荷物を背負っているのもおかしな話だが、そんなはちゃめちゃな融合こそ現代らしい感覚なのだろう。
実際その見た目の愛らしさは、結衣の子ども心を引きつけた。
幼い頃に父から貰って以来、肌身離さず持ち歩いていたのだが、ある日忽然となくなった。
それが二週間前ほど。そのすぐ後に、恋時が現れた。
どういうわけで化けたのか定かではないが、この美丈夫はたぶん、結衣の根付けに違いない。ウサギっぽさこそないけれど。
「そうだ、結衣さん。食べ終わったら社務所にきてもらってもいいかな? 一件、縁結びお祓いの依頼が来てるんです」
「うん、分かった。すぐ行くようにする」
「別に急がなくてもいいですよ。人間にとったら、朝ごはんは大切な時間でしょう?」
「……あー、ありがとうね」
無欲かつ働きもので、完璧な気遣いまでこなす。そのスペックの高さは、売価五百円の根付けから生まれたとは思えないほどだ。
また、彼はかなり力を持った妖らしく人の姿のまま具現化することもできる。
そのせいか、この間などは、「素敵な旦那さんですね」なんて、郵便配達員にあらぬ勘違いをされた。
その時のことを思い出したら顔が熱くなってきて、風を浴びんと、その場で首を振る。
「結衣、食べんなら、僕残り食うてもえぇ?」
「食べるから!」
そうだ、朝ごはんの途中だった。
「僕、ご飯食べたら眠くなるんやって~」
「うちはお金も人手も足りないんだから。働かないでご飯食べられると思ったら大間違いだよ」
「分かっとるけどやなぁ……」
食後の皿洗いは、ハチの担当と決まっていた。
ご飯以外に関しては酷く意欲に欠ける彼を叱咤してから、結衣は再び袴衣装に身を包む。
サラリーマンにとってのスーツと同じ、仕事着である。気を引き締め直して向かったのは、恋時の待つ社務所だ。
「早かったですね」
なにやらパソコンでタイピングをしつつ、いつものごとく儚げな笑顔で、彼は結衣の方へ振り返る。
和服姿の妖と、電子機器。何度見ても、実にアンマッチな絵だ。
「えっと、縁結びお祓いの依頼がきてるんだよね?」
「そう。それも、初めてホームページを通して申し込みがありました。作った甲斐があったってやつかもしれません」
「ホームページ効果、本当にあったの……。すごいよ、伯人くん」
お世辞ではなく、褒め言葉が漏れる。
画面を見ると、細部までよく作り込まれた八羽神社の公式サイトが表示されていた。見やすいだけでなく、写真などの掲示も工夫されている。
これは、彼が一から作り上げたものだ。
「まだ一件の申し込みしかないですから。大した話じゃありませんよ。しっかりお祓いの効果も訴求したから、もう少し来るかと思ったくらいで」
「ううん、すごいことだって。一週間でできるクオリティじゃないもん。そもそもネットに強い妖なんて他にいないと思うし」
結衣は、ついヒートアップしてしまう。
これでも、スマホに、SNSに一通り使いこなす若者ではある。人様を雇うお金などあるわけもなく、自らウェブ制作に手を出そうとしたことはあったが、必要な知識や技量の多さに挫折してしまった。
だからこそ、その凄さは身に染みて分かった。
恋時は、照れたようにこめかみを掻く。
「と、とにかく、成果を出さないと始まりませんから。この依頼でようやく一歩め。大事ですよ、今日の依頼は。初めての口コミがもらえるかもしれません」
「……口コミ! すごくいい響きだね」
「そう、『縁結びに役立った』みたいな噂が広まったら参拝客も少しは増えるでしょうから。万が一SNSでバズったりなんかしてくれれば……」
都合のいい未来だけを頭に思い浮かべて、結衣はほくほくした気持ちになる。
「メインの収入は、もちろんお祓いなどの神事でしょう。でも、相乗効果も期待できます。人がこれば、少額でもお金が落ちますからね。そうなれば、今度はそのお金でグッズ制作。それから」
恋時は、稼ぎ時だと言わんばかり、目を血走らせていた。
元々が赤いだけに、恐ろしい執着を感じる。
基本的に慎ましやかな彼だが、商魂だけは人一倍たくましい。貧困に対する結衣の恨み辛みが、根付けの妖たる彼に乗り移ったのかもしれない。
どうにかして、八羽神社の収入を増やそうとしてくれるのだ。
「少し落ち着いてよ。そんなにたくさん稼いでどうするの。なにか欲しいものでもある?」
「別に、俺はお金で買えるものはなにもいりませんよ。でも、結衣さんにとってはあって困るものじゃないのでは?」
「そうなんだけどさ」
結衣自身、別にお金にこだわりがあるわけではない。巨万の富を得るなんて途方のない夢はみず、安定した普通の暮らしを欲している。
お金絡みの願望があるとするなら、
「そこまで稼げなくてもいいの。でも、九月末の例大祭は、お金をかけて、ちゃんとやりたいな」
「例大祭、ですか。まぁ神社にとっては、建立記念の一大イベントですからね。これを催せるかどうかは、神社にしてみれば大事な話になりますか」
「うん、大切。去年、一昨年はなんとか開催できたけど、人が来なくて小さい規模になっちゃった。今年こそ盛大にやりたいんだ」
そうすれば、神社を潰さないのは当然として、父を安心させることもできる。一人前の宮司として、跡取り娘として認めて貰えるはずだ。
その前に、ボロボロの境内をどうにかせねばならないが。課題は山積みである。
「きっと大丈夫です。なにせ、結衣さんはよくできたお祓い師ですから」
まるで何年も付き合ってきた友人のような調子で、恋時が言う。
その耳障りのいい声が、結衣の心に小さな火を灯した。
「頑張るよ。これでも私、八羽神社の宮司だからね!」
袂に手を差し入れる。
覚悟を決めるときに、忍び持った根付けを握るのは長年の癖になっていた。
しかし、どこにもない。
当たり前だ、その根付けは目の前の彼へと化けているのだから。
かわりに拳を固める。
意気揚々と、参拝客受付のシャッターを開けたところ、
「ごめんください、『縁結びに効くお祓い』を予約していた竹谷(たけたに)未央(みお)と言うものなんですけど」
そこには、もう依頼人が立っていた。
大学生くらい、結衣と同じ年頃の若い女性だった。
腕に、脚に、露出の多い服装をしている。
やや使い古したような赤のストールだけが、少し浮いて見えた。
「というか、めちゃくちゃ格好いいし、可愛いですね、お二人とも!」
つと目が合って、結衣は思わずたじろぐ。隣で、恋時は目を泳がせていた。
「どうかされましたか、お二人とも?」
弾けるような声に、クリーム色の髪。
明るさ全開の見た目とは裏腹に、彼女はおぞましい妖気を放っていた。
会話に夢中で気づけなかったが、どうやらかなり厄介な妖が取り憑いているようだ。
二
『化け妖(ばけあやかし)』。
そう、見える側の人間からは呼ばれている。
妖の中には、なにがしか強すぎたり、歪んだ感情から成るものもいる。そういった妖は、強引にでも願いを叶えるために凶悪化する場合があるのだ。
化け妖の悪行は、幅広い。心に隙や陰りのある人に取り憑いてその生気を奪ったり、奪った力で悪戯を働いたり、はたまた身体を乗っ取ってみたり。
身の回りで不可思議なことが連続する場合は、彼らのしわざであることも多い。
よく聞く、慢性的な肩凝りなどはその軽い症状の典型例だ。それがエスカレートしていくと、ニュースなどで取り扱われるような不可解な事件につながることもある。
そして彼らが取り憑いたままでは、他の縁は結ばれにくくなる。恋愛も、友人も、家族も、だ。
そこで『お祓い』が必要となってくる。
結衣が八羽神社の宮司として行う仕事の中では、もっともウェートが高いものだ。地鎮祭などの式典やイベント等の開催も、「お祓いの儀式を行う」という意味で広く括れば、その一部に含まれる。
「竹谷さん。完全に、化け妖が憑いてたよね」
「……そうですね。かなりの匂いがしました」
「うん、大物って感じだった。普通の人なら、もうとっくに変な行動に走っててもおかしくないくらいだよ」
恋時と二人、拝殿で受け入れの準備を整えながら口々に言う。
拝殿とは、参拝客に対しての祈祷などを行う本堂前の空間だ。
その入り口となる門には、しめ縄が吊るしてあり、階段を下った両脇では狛犬が睨みをきかせている。
神聖なものには事欠かない空間である。
なのだけれど、化け妖独特のどろりとした匂いは、内側まで入り込んできていた。
依頼人の竹谷未央は、離れの社務所に通しているのに、だ。
「まぁでも、こっちには結衣さんがいますから。天下一のお祓い師が」
「……ただ妖が見えるだけだよ。化け妖になって、人に取り憑いてたら、姿までは見えないし」
「それで十分すごいんですよ。結衣さんのお父様も、妖が見えるからと、京都の大神社にスカウトされたんでしょう? それに、八羽神社はそのおかげで、神社本庁からも一目置かれているとか」
「ちょっと自由が認められてるだけだよ。だからって別に補助金が出てるわけでもないし」
通常、神道におけるお祓いとは神前での祈祷など儀式的なものをさす。
神様のお力を借りることで、霊験あらたかな空間を作りだすのだ。
そこへ浸ってもらうことで、参拝客の心からひずみを消し、化け妖が自然と去るのを待つという寸法である。
これならば神職につくものは誰にでもできるのだが……。
結衣が行うものは、それとは大きく異なっていた。
「直接的に化け妖へお祓いを行い、妖の姿に戻してやることで、穢れを祓う。人間の厄払いと縁結びのサポートをしたうえで、妖サイドのケアもできるんだから、見えるお祓い師は貴重なんですよ」
「もう、持ち上げすぎ。私にできることなんて、それだけでしょ。他に超能力が使えるわけでもないんだから」
そう、ただ単に肌感覚で化け妖の存在を察知し、お祓いによって妖に戻してやることだけだ。
場合によっては、お札などに力を移すこともできるが、結局のところ可能なのは、化け妖に働きかけることのみ。
それも一定以上の力を持った化け妖を、人から引きずり出すには、まず妖側に姿を覗かせてもらう必要がある。そうでなければ、お祓いの効果はないに等しい。
たまに建物の修繕くらいできないかと思うが、ファンタジー世界の魔法みたく、うまいようにはできていない。
むしろ見える人間は、それだけで化け妖の類に襲われやすいため、早めに対処しなければ、今度は自分の身に危険が降りかかる、というデメリットの方が大きいくらいだ。
「あ。おだてたって、なんにもあげられないよ」
「別に求めてないですよ。事実を言っただけですから」
恋時は、すぐに溶ける粉砂糖のよう、うっすらした笑みを浮かべる。
そういえば、と気になることがあった。これまでは、あまりに自然に手伝ってくれるから、聞けていなかったことだ。
「伯人くんは、化け妖になったりしないの? ……その、どういう風に生まれてきたのか、分からないし」
「すいません、生い立ちの話はちょっと。でも、俺が化けることはありませんよ」
彼は、自信満々に言い切る。
あまりに揺らぎがなく、竹を割ったような声だった。そこに理屈は一切ないのに、本当にそうなのだろう、と思わせる力がある。
「そっか、ならいいんだけどね。化け妖になったら大変だし」
「お気遣いはありがたいですが、いらぬ心配ですよ。それより結衣さん、これを」
彼が結衣に手渡したのは、大幣。白木の棒の先に麻の束を括り付けたお祓い道具の一つだ。
念のため、普段の外出時にも持ち歩いている愛用品である。
「…………じゃあ俺は竹谷さん呼んできますね」
「あ、うん。お願い。……ねぇ、大丈夫?」
「……余裕ですよ。化け妖くらいなんてことありません。ないはずです、はは……」
声を震わせながら、恋時は辿々しく扉の方へ歩きだす。
あ、右へ左へよたよたしている。
飄々とクールに見せて、彼は化け妖が怖いらしいのだ。
自分も妖のくせに。要はびびりである。
その様を見る限り、化け妖になることは本当になさそうだ。
ちなみに結衣はといえば、昔こそ恐ろしくてたまらなかったが、正直もう慣れっこだった。
低級な化け妖程度なら、横でご飯だって食べられると思う。
父と一緒にお祓いの実習へ出たのを含めれば、もう五年近く相手にしてきている。
座布団を敷き、お茶を煎れて待つ。二人が来るタイミングは、濃くなってきた妖気で分かった。
恋時が結衣の隣に回る。未央と対面に座る形で、まずは自己紹介を交わした。
「竹谷さん。今回はどういった理由で、ご依頼いただいたんですか?」
次に、話を伺うことにする。
人や妖によりけりだが、会話するだけで気が晴れ、お祓いが完了してしまう場合も結構あるのだ。
未央は眉間にシワを寄せる。
とても重大な悩み事を打ち明けるかのように、口を開いた。
「それがですね。……実は、大学の友達が、みんな彼氏作っちゃったんですよ」
「……へ? それは、なんというか……はぁ」
わざわざお金を払って縁結びにくるにしては、微妙な理由だ。
反応に困っていると、彼女は続ける。
「あたし、関東から関西に去年出てきて、春から大学二年生になりました。一年目は努力努力で周りに馴染むことができたんですけど……。
女子って、彼氏ができたらみんなそっちを優先しちゃう。もちろんその気持ちは分かるんですよ? って宮司さん何歳? 歳近いなら分かるんじゃない?」
「えっと、ま、まぁクラスに何人かそういう子はいたような……?」
「でしょ! まさにそれなの。このままじゃ一人になっちゃうと思って」
未央は熱く語り、上半身を迫り出す。
結衣は、遠慮がちに身体をのけぞらせた。
かなり押し込みの強いタイプのようだ。
神社に依頼をくれるくらいには悩みがあるとはいえ、化け妖に心を乗っ取られ、塞ぎ込んでいる風には見えない。
「だから、あたしも彼氏作らなきゃなと。ちょうど入ってるイベントサークルの先輩にアピールされてたりもするので」
「あれ、もう候補の方がいらっしゃるんですね? それじゃあ今回は、その方との縁結びを祈願したいってことですか」
「えっと、その辺はまだアバウトで。別にすごい好きってわけでは正直ないので、他の人でもいいんですけど。でも好きとか嫌いって時間が経てば分からなくなるし……」
消え入るように言ってから、未央はにかっと奥歯までを見せた。
「恋愛感情を抜きにしたら、先輩はいい人なので。だから、一回付き合うのもいいかなって最近思い始めて。たとえば…………会うと、いつもお菓子くれたりするんですよ!」
それは高評価すべきポイントなのだろうか。なんだか大阪のおばちゃんみたいだ。知り合いならば無差別に配っていそう。
思いはすれど、相槌だけを打つ。
「だからこの間、はじめて先輩からのデートのお誘いを受けたんです。でも、それがどうしてもうまくいかなくて」
「……というと?」
「あたしが待ち合わせ時間を間違えたり、向こうが迷子になったり、とにかくなぜかうまくいかないんです。二回目も、三回目も、そんなことが起きて。だから、もしかしたら呪われてるのかと思って、こうしてお祓いにきてみました!」
ぱっと一瞬にして広がる笑みは、単純な思考かつ無自覚を示している。
まぐれだろうけれど、大正解だ。
見えるサイドの人なら、近づくだけで気圧されるほどの大物が、彼女の背後には憑いている。
恋時などは、慄きっぱなしだ。さっきからまるで、剥製の置物かのように固まっている。
乱れのない笑みは崩れていないようだが、よく見れば頬は少し引きつっていた。普段のトーク力は高い彼だが、今は使い物にならなそうだ。
ふと気になって、結衣は尋ねる。
「八羽神社を選んでくれたのはどうして?」
「ネットで色々見てたら、費用の安さとか、効果の高さとか、一番伝わってきたんです! 地域最安、最上級かつお手軽なお祓いだって謳われてましたよねっ!」
……あまりに誇大しすぎではなかろうか。
電車広告もびっくりの強気な書きぶりだ。
結衣は、置物化していた彼にじっとりした視線を送る。
「な、なにのことやらさっぱり分かりませんね」
恋時は、額に汗を浮かべていた。外れた音程の口笛が、堂内に響く。
安かろう悪かろうではない自負こそあれ、お手軽だなんて口が裂けても言えない。今回はとくに。
話はすらすらと聞き出せたのに、化け妖は姿を見せることさえなかった。今、お祓いの儀をやったところで、のれんに腕押し。仮初の効果もないだろう。
「それで、これからお祓いしてくれるんですよね! 楽しみだなぁ」
未央は、ぱぱっと済ませてもらえる気満々という風だった。
コンビニ感覚なのかもしれない。
どうしたものか。結衣は眉間にシワを寄せて考えを巡らせる。
思いつきで、できるだけ声を詰めた。
「……大変言いにくいのですが、結構大仕事になると言いますか。未央さんの場合、このままではお祓いをしても、あまり効果がないんです」
「えっ、それはつまり……」
「たぶん、その、お察しの通りです」
「じゃあ本当になにか憑いてるってことですか!? どんなのが!?」
未央は、口を半開きにしたまま、何度も瞬きをする。
憑依されている事実を伝えるとき、ほとんどの人は信じてくれない。
だが、彼女はすっかりその気になっていた。
「怖いっ! 怖いけど、ちょっと会ってみたいかも! 私、文学部で歴史を専攻してて、そもそも妖怪に興味があって研究したかったりして──」
青ざめてみたり、赤くなってみたり、感情の波がしけた海のよう。
このままでは未央に振り回されるがままに脱線し続けて、航路を見失いかねない。とにかく、と結衣は強引に話を締めにかかる。
「一日でいいので、竹谷さんの学校生活を覗かせていただけたりしませんか? それで、どうにかお祓いの糸口を探ってみますので!」
少々省きすぎたみたい。
未央は髪を左肩に落として、きょとんと首を捻る。
「そんなことがお祓いに繋がるんですか?」
「はい、とっても。お祓いをするためには、どんな形であれ、竹谷さんの身体から、少しでも妖が姿を見せる状態まで持っていく必要があるんです。
憑かれるのには、理由があるはずです。それを日常生活の中から見つけられれば、妖を引きずり出すきっかけになります。とまぁ、そんな感じなんですけど……」
うまい説明は毎度、関門だ。
「えっと、とにかく極力、迷惑はかけないので!」
こうなりゃ無理を通すしかない。結衣は、両手をついて頭を下げる。反則技に等しい強引さだが、しょうがない。
訳は分かってなさそうだったが、未央は了承してくれた。
三
ちょうど、彦根城の桜が満開を迎えたのと日付が重なった。
依頼があってから数日後。春麗らかな温かい空気のなか、結衣は、市外にある大学構内へと来ていた。
依頼人・竹谷未央の通う学校だ。
その敷地は相応に広く、ビルのような校舎がいくつも立ち並ぶ。
コンビニや、本屋、食堂なども点在していて、グラウンドや中庭まである。
校内だけで生活できそうなほど、施設は充実していた。
マンモス大学というわけではないが、生徒の数も相応に多い。
普段人気の全くない神社で過ごしている身からすれば、
「……ここにいる人たちがみんな神社に来てくれたらいいのに。若者のパワースポットとかってバズったりしてくれたら素敵じゃない?」
こう桜色の妄想を展開せざるを得なかった。
食堂内の席に腰を落ち着け、出入りする人の流れを眺める。そこからすぐの注文コーナーには、行列ができていた。ごくまれにではあるが、妖が混じっていたりもする。
「いっぺんにこの量が来たら、床が抜けると思いますよ」
横に座っていた恋時が、陰りのない笑みで言った。悪意は一切ないのだろうが、皮肉たっぷりに聞こえる。
「そ、そんなの、うちだけじゃないでしょ」
「と言いますとたとえば?」
「……えっと。隣の横野寺だって、これだけ来たら床の一つや二つ」
結衣は苦し紛れに反論するのだが、カチャカチャという軽い音が、断続的に割って入った。
音が鳴る方を、ちらりと見る。
「卵、ふわふわや! それに、中のケチャップライスにちゃんとチキンが入っとる!」
そんな視線はお構いなし。
大皿を抱え込んで、無我夢中にオムライスを掻き込んでいるのは、犬の妖であるハチだ。
はじめは外出すると告げても、ものぐさな様子の彼だった。けれど学食があると伝えるや、飛んで跳ねてついて来た。
「……悪かったわね、豆腐で代用して」
「悪いとは言うてへんで? あれはあれで味があったけど、やっぱし本家も食べたうえでのアレンジやがな」
「安かったから食べるのはいいけど、本題忘れないでよ。あくまで竹谷さんのお祓いをするために来てるんだから」
結衣は、口元に手をかざす。
人間の姿になっているハチは、普通には見えない。公然と喋ってしまえば、さらに変な注目を集めるに違いなかった。
さらに、というのは既に視線を感じているから言う。
「……本当目立つよね、伯人くんがいると」
「ん? 俺の格好おかしいですかね? ちゃんと洋服も着て、髪も黒く短く見せているのですが……。この手提げが桃色だからでしょうか。お気に入りなのですが」
「うちに来た時からそれ持ってたよね」
少し縫った跡の残るトートバッグだ。
不思議なことに、根付けのウサギが持っていたものは白い袋とは、色が違う。
けれど、なんとなしに、懐かしい心地にさせられるのは、そのくたびれ具合のせいだろうか。
「たしかにちょっと乙女っぽいけど、そういう話じゃないと思う」
ではどういうことかといえば、見目麗しすぎた。野原に一輪挿しの白薔薇、とでも言おうか。
見た目だけならば、服も髪も目の色なんてものまで、自在に変えられるらしい。
結衣は、
「文学部で、街歩きサークルにいそうな大学三年生。普段の友達は五人くらい」
と詳細なリクエストをして、彼もネットを駆使してそれに応えてくれたのだが、そもそもの潜在的な魅力が違った。
巷の大学生では発しえないような色香が、むんむん漂っている。
と、途端に彼の肩がいかりあがった。
近くの席に、未央がやってきたからだ。
サイドテールに髪型を変えたようだが、前と同じ赤のストールを巻いていたからすぐに分かった。
女子二人で、テーブルを挟む。
「わー、未央のうどん美味しそう!」
「そっちの生姜焼きもこってりしてて良さそうだけど?」
ランチを取りながら、賑やかしい会話が展開されていく。
自分と同年代なのが、疑わしくなるほどだった。荷物も服装も、結衣なりに大学生らしくを心がけたのに、なにかが違う。
彼女たちは、大学生特有のきらきらオーラに溢れていた。
それと同時に、背中の化け妖は禍々しくもあるのだけど。
前よりも一層、妖しさが増しているように思う。
「友達とも仲良さそうに見えるのに。どうして化け妖なんて憑いちゃったんだろ」
「そうですね。でも、見えるだけの話で言うなら、周りから見た俺と結衣さんは番そのものでしょうね」
「……な、なにを言ってるの! それに番って言い方! 動物みたいに言わないの!」
「あぁカップルって言うんでしたっけ? アベック? ……あ、夫婦でしたっけ」
恋時ときたら、笑顔でなにを言い出すのか。
表情が一ミリも変わらないので、まるで思考が読めなかった。
「怖い顔しないでくださいよ、結衣さん。ま、要は見かけはあてにならないってことです」
結衣はため息ひとつで諦めて、再び未央たちを見る。
昼休みから放課後までは好きに観察してくれていい。本人には、そう許可を得ていた。
放課後は、校内で開かれるお花見でサークルの友人に極秘サプライズを仕掛ける予定だから、避けてほしいとのこと。
イベントサークルらしい行事なのかもしれない。
「関西のうどんって、関東のより味があっさりしてるんだよね」
「あ、分かる。あと札幌のは麺にもう少しコシがあるのさ! 春休みに帰った時食べたけど、もう全然違う!」
「へぇ帰省した時に。いいなぁ私もう一年帰ってないよ」
東京出身の未央と、北海道出身らしい彼女の友人。
互いの地元トークが盛り上がるのをうっすらと耳に入れていたら、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
授業への参加も、未央には許可されていた。
出席は取らないのか、バレたらどうしよう。
そんな逡巡をしつつ赤いストールを目印に、後ろをついていく。
教室は、食堂とは別の塔にあった。
メイン校舎の裏手にある、人気のほとんどない寂れた塔やらを経由して辿り着く。
そしてすぐ、結衣は自分の杞憂を知った。
大部屋に、数えきれないほどの生徒が集まっている。
これでは、部外者が一人、妖が数体紛れ込んだところで分かるまい。
昼休み明けすぐの授業は、「和歌に学ぶ日本文学」というタイトルのものだった。
今日の講義は、恋愛に関するものを取り扱うようだ。
高校とは別物ほどに違う授業形式に戸惑いつつも、結衣は未央の様子を眺める。
なんのことはない。
手が時たまスマホに伸びるくらいで、ただ黙々と受講しているだけだった。
すでに、それなりの圧を放ってはいるが、特に代わり映えしない。
そう思いかけた矢先のことだった。
『君待つと 吾が恋をれば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く』
ホワイトボードにこんな一首が書きつけられるや、背筋がぞわりとそばだった。
「これは、天武天皇の妃、額田王の詠んだ歌です。風の揺れるような、ほんの少しの気配にも、つい想い人を浮かべてしまう。というような意味があります」
詠まれた背景など、教授により詳細な解説がなされるのだが集中できない。
化け妖の姿こそ見えないが、唸るような妖力が肌に迫ってきていた。
背筋を汗が流れていき、結衣は乾いた喉を唾で潤した。
教室全体の空気が淀んで、不安定に揺らいでいる。
一段ギアをあげたかのようだったが、当の未央は、変わらずノートを取るだけだった。
平気そうに肘をつき、頭をもたげ、またスマホをちらりと見る。
周りの目があった。
声を出せる空気でもなく、
『もしかして妖にかなりの耐性でもあるのかな、未央さん』
結衣は、配布されたプリントの裏にこう書いて、恋時の前に置く。
ペンを握るところまではいった彼だったが、
「次の歌は、小野小町の歌です。『夢路には足も休めず通へども うつつにひとめ見しことはあらず』、というもので」
再び、妖気が肌をひりつかせる。
恋時は恐ろしさのあまりか、すっかり動かなくなっていた。
肩を揺すると、なされるままに前後する。あ、ペンが落ちた。
意見こそ聞けなかったが、参考にはなった。
少なくとも、化け妖がなにかに反応して、その威力を大幅に増しているのは間違いなさそうだ。
四限、五限と授業は続く。その後は、同じような現象は起きなかった。
大きな事件もなく、結果として、他の生徒と同じように授業へ臨む。
単に、興味深い話が多かった。
「本日は、平安時代から現代に至るまでの妖怪の起源について、取り扱っていきます」
中でも五限の民俗学講義は、内容が結衣にとって身近なものだけにことさらだった。
老衰した動物の姿を怪異に見間違えた。
元々神だったものが信仰の薄れから妖となった。などなど。
彼らの存在が見えるだけに、その由来に、さまざまな解釈がされているのが面白かった。若い教授の熱弁に聞き入っていたら、
「なに、伯人くん? どうしたの」
ノートを押さえていた手首を、掴まれていた。
彼は無言のまま立ち上がる。恋時の反対の腕には、人の姿で、だれるハチが抱えられていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
恋時が歩き出すので、結衣は、慌てて掛けカバンに文房具を入れ込む。
扉を出るときには、教授からは冷ややかな視線が注がれた。恋時はまるで毛布でくるむかのよう、柔らかい笑みと会釈でそれをいなす。
少し廊下を歩いてから、結衣の肩を叩いた。
「結衣さん、集中しすぎですよ。竹谷さんが外へ出て行ったのお気づきでしたか?」
「えっ、全然気づかなかった。なにか用事でもあったのかな」
「分かりません。でも大丈夫、まだすぐに追いつけますよ。ほら、角のところ」
恋時が指差す先には、毛羽立った赤いストールだ。やや早足で、後をついていく。
「にしても、うちの宮司は腕は立つけど、抜けてますね。ふふ」
「だ、だって面白い話してたんだもの」
「興味を持つのはいいことです。まだお若いですから。大学生に憧れでも生まれましたか?」
正直に言えば、少しは。
学問も私生活も、自由を謳歌している同年代の女子たちと、自分を比べてしまわなくもなかった。
結衣は、立場も家庭環境もなにも、彼女らとは大きく異なる。いい意味でも悪い意味でも、特別な存在であることは、自分でも分かっていた。
だからこそ、いわゆる普通への憧れはある。できるだけ、他人の目から見たときには普通だと思われたい。そうも考える。
けれど、結衣はゆるゆる首を振った。
「私にはこの仕事しかないからね。それに、この仕事好きだよ。なにせ私、八羽神社の宮司だからね。お祓いは天職だよ」
「殊勝なことを言ってくれますね、うちの宮司は」
話しつつも、結衣は未央から目を切らなかった。
やがて彼女が足を止めたのは、学生たちが集うラウンジだ。
席を取ると、左右に首を振りスマホを弄る。手鏡で髪を整え、にっこり笑ったり、真顔になったり。
その姿は、少し挙動不審に見えた。
果たしてそのわけは、音が拾えなくともわかった。
「あれが噂の先輩さんかな」
「おぉ、彼が。格好いい方でいらっしゃいますね。あーいうのが今どきってものですか、次回の参考にします」
「……あ、大学生になりきれてなかったこと、引きずってたんだね」
未央と先輩の二人は頭を寄せ合い、親しげに話し込み始める。
噂に聞いていたとおり、お菓子が手渡されていた。目を凝らすと、バターサンドのようだ。豊潤な香りが空調に乗って、結衣の鼻腔を掠めた。
懇々と、仲良さげに食べ始める。
授業中から何度か携帯を見ていたのは、彼との連絡を取っていたのかもしれない。
「ほんと、なんで憑いてるのか分からなくなってきたよ。授業抜け出してまで会いたいなんて、幸せそのものじゃない?」
それも、たしか未央は妖怪の話に興味を示していたから、民俗学の授業は受けたかったはずだ。
それでも、彼との逢瀬を優先したことになる。
「俺も同感ですよ。とりあえず、今日は帰りましょうか。情報のいくらかは集まったし、ここで覗いているのも忍びない。たしか、夜は友人たちと花見に行くといっていましたし。そこまではお邪魔できませんから」
結衣は静かに頷く。
その場を立ち去ろうとしたその時、
「あの男、妖がおった痕の匂いがするで」
眠りこけていたはずのハチが口を開いた。大きなあくびとともに。
「ほんまに微かにするんや。バターサンドの匂いのが強烈やけど、ほんのりや。僕みたいな犬やないと分からん程度やな」
まぶたを擦りながら言われると、説得力に欠ける。酔った勢いで、投資をそそのかしてくる迷惑おじさんかのようだ。
けれど、ご飯にも妖の探知にも、彼の鼻はたしかだ。
「ハチくん、それは昔、あの男に妖が憑いていたってことです?」
恋時が、顔二つ分は背の低いハチに目線を合わせるため、膝を折って問う。
「その通りや。どんな妖かまでは分からんけどな」
「さすがですね、ハチくんは。俺たちではわかりませんでした」
ねぇそうでしょう、と恋時に同意を求められて、結衣はとりあえず相槌を打つ。
ハチの真剣な表情は、満更でもない腑抜け顔に溶けていった。
「まぁな、僕くらいになると、寝起きでも絶好調や。あ、バターの香りで起きたんは秘密な?」
「じゃあ俺と結衣さんは先に帰っているから、その調子で、あの男を少し尾けてもらえません? 君にしかできないことですから」
「任せなはれ、恋時はん。余裕やで、しかし」
ハチは誇らしげな勇み足で、二人のもとへ歩み寄っていく。それを見送ってから
「さて、帰りましょうか。情報の整理でもいたしましょう」
「……もしかして、さっきのはハチを使うためのお世辞!?」
「ふふ、ハーフ&ハーフといったところですね。俺は商売上手なので」
ピザを想起してしまう言葉選びとともに、くくっと笑いこぼす恋時。
華やかな笑顔の裏には、打算もあるのかもしれない。
四
「なんとなく、憑いている化け妖の怨念が分かりましたよ」
帰りの電車に乗り込むなり、恋時が言った。
結衣はその声にはっとして、遠ざかっていくホームから視線を外す。
「ハチくんが心配ですか?」
「……まぁ少しね。このまま帰ってこなかったりしたらどうしよう、って。ないと思うんだけどさ」
「大丈夫ですよ。妖ですからね。普通の犬ならともかく、自分の住処を忘れることはないと思いますよ。それくらい知ってらっしゃるのでは?」
もちろん、基礎知識だ。
妖の基本的な知能は、動物よりよっぽど高い。
ハチが実は結衣より前から八羽神社に住み着いているのも知っている。
けれど、初めて息子をお使いに出す母親のように、そわそわとする。
結局、ハチには単独での尾行を続けてもらうことにしていた。
任せきりは可哀想だと、しばらく影から見守っていたのだが、途中で思い直した。
怠け者のハチが珍しくやる気を見せているのだ。下手に介入して、水を差すのはもったいない。
「ごめん、それでなんだっけ?」
気を取り直して、再度尋ねる。恋時は、お安い御用だ、と人差し指を立てた。
「憑いてる妖のことです。たぶん、恋愛に執着がある妖なのでしょうね。それも叶わずに終わった話が好きらしい」
「恋愛に執着があるって言うのはわかるけど、なんで失恋……?」
化け妖が特別な反応を見せていたのは、和歌の授業時、それも恋い慕う歌を取り扱っている時だけだった。
そこから恋愛関連だとは絞れても、失恋には限定できない。
「額田王の和歌ですよ。あれは、恋人の天武天皇に会えない悲しみを詠んだものなんです。小野小町の方は、夢でしか会いにこない恋人に対する恨みを歌にしたもの。どちらも性質が似ているでしょう?」
「……そうだったの」
結衣の根付けから生まれたくせに、所持者より博識とはこれいかに。教授の話を聞いておけば良かったと思うが、後の祭りである。
「つまり、竹谷さんに憑いた理由も同じようなものが考えられますね。彼女がなにか届かない想いを抱え込んでいる、だとか」
「でも、そうは見えなかったよね、さっきの二人を見てると。むしろ順調そうだったけど?」
未央は先輩のことを「別に好きではない」と評していた。けれど今日の二人を見れば、その発言が照れ隠しに思えるような空気感だった。
「えぇ。ですからもしかすると、化け妖が彼女を取り込めていないのは、そのせいなのかもしれません。簡単に言うと、幸せオーラが化け妖の悪の力に優っているんですよ。今のまま取り憑かれていては、すんなり結ばれることはないでしょうが」
それだけで、いかにも巨大な妖力を持っている妖を抑え込めるものか。
少し腑に落ちきらなかったが、恋心のなせる業というなら、結衣にはそうと思うほかない。彼氏はもちろんのこと、まともに誰かに恋心を抱いたことも、生まれてこの方経験していなかった。
「先輩さんも昔、妖に憑かれていた、っていうのは関係あるのかな」
「さぁ? それは、ハチくんの報告を待ちましょう。少しずつ進めばいいですよ。
竹谷さんは、いわばコップになみなみ注がれた水です。下手に刺激をしなければ、こぼれない。彼女が幸せでいる限り、化け妖が暴れ出すことはないですから」
ならば、ひとまず小休止といったところか。
結衣は肩の力を抜いて、揺れる車窓の景色に目を移した。
最寄りである彦根駅に到着したのは、六時頃だった。
ホームに降りると、夕日に照らしあげられる彦根城の桜が視界に飛び込んでくる。綺麗だと思ったのはほんの束の間、結衣は鞄からエコバッグを取り出した。
風情を楽しむのもいいが、帰ったらすぐにご飯の支度をしなければならない時間だ。
「スーパー寄って行ってもいいかな? 駅前で特売やってるみたいなんだ」
「ふふっ、まさに、花より団子ですね。ハチくんのためですか?」
「うん、それもあるかな。頑張ったらご褒美貰えるって覚えてもらわないとね」
今日こそは、本物の鶏肉を食べさせてあげようかな。奮発して、モモ肉、いやムネでもいいか……。
頭の中で家計とのせめぎ合いをしながら、改札に切符を通さんとする。
と、まさにその時だ。外から猛然と中へ駆け込んでくる、小さななにかがいた。それは人波をすばしっこく切り抜けると、
「な、なに!?」
結衣めがけて一直線に飛び込んでくる。
避けきれそうにもなく、受け止めんと腕を開いた。しかし衝撃は思いのほか大きく、後ろへよろめいてしまう。
「大丈夫ですか、結衣さん」
恋時が、腕を受け皿にして背中を支えてくれていた。
「あ、ありがとう、伯人くん」
見上げると、鼻と鼻が触れ合う距離に、彼の顔がある。
何度見ても、芸術的なほどに精巧な作りだ。その三日月のような瞳に捉えられれば、刹那的に、時間のことを忘れそうになる。
胸の鼓動が一度大きく跳ねて、反射的に結衣は彼の身体から起き上がった。
場を濁すように、自分が捕まえたなにかを見る。
薄茶色の厚みある毛並みは、よく知った感触だった。
「……ハチ!! どうしたの。ここまで走ってきたの!?」
「ほ、ほうや、全力やで。電車よりは早く着く思ってな。それより結衣、恋時はん。大変なんや! えっと、とにかく大変でな──」
舌を垂れ、合間で息を切らす彼を、結衣は物陰へと連れていく。
周囲が、なにごとかとざわついていた。よく考えれば、本物の忠犬ハチかのようなシーンだ。関心を集めるのも無理はない。
駅員に注意されないためにも、人のなりへと変わってもらう。
姿を消させてから、事情を聞く。
「さっき僕がつけていった男おるやない? 竹谷はんのお相手さんや。あいつ、二股かけとった。……それも、竹谷はんの友達の女の子とな」
結衣の瞳孔はピンで留められたかのように、開いたままになる。
自分の耳を疑わざるを得なかった。
「あの先輩が、竹谷はんにあげとったバターサンドあったやろ。あれ、その子が地元の土産として、先輩に渡しとったものやったんや」
「お土産? たしか友達の女の子の出身地は北海道だったよね。春休みには帰省したって話をしてたような」
改めて思えばバターサンドは、有名なご当地土産の一つだ。
友達の女の子は心を込めて送ったのだろうお土産。
それを別の人を口説くために使っていたと思えば、虫唾が走る。
「授業中に会ってた理由も分かったで。チャイムの後、竹谷はんと入れ替わるように、友達の女の子が来たからなぁ」
「……あ。じゃあわざわざ授業中に会ってたのは、早く好きな人に会いたいからじゃなくて、二股現場を目撃されないための先輩さんの策略ってこと?」
ハチがそのまま認める。恋時は苦そうに下唇を噛んで、
「なるほど……。化け妖に憑かれるのも全く不思議がないほど、腐った魂だ」
こう吐き捨てた。
端正な表情を、まるで鬼のような形相に歪めている。初めて見る側面に、結衣は少しおののいた。
だが、彼に恐れを抱いている場合ではない。
「それで、ハチ。急いできたってことは、まだなにか起こったってことだよね?」
「そやねん、それが……。その先輩と友達はんが、夜に学校内の花見に行くって話をしててな。先輩の方は渋ってたんやが、友達はんがどうしても、って」
「……たしか、竹谷さんもいくって話じゃ」
それも、サークルの友人に極秘のサプライズを仕掛けるという話だった。情報が漏れる可能性を考えると、二人には、伝えていない可能性が高い。
「つまり、このままだと鉢合わせる?」
口にするのが恐れ多いことのように、こくりとハチは首肯した。
恋時が言うに、未央は「なみなみと水を注がれたコップ」とのことだった。
二股をかけられていたことが、刺激でなくて、なにだろう。もはやテーブルをひっくり返されるのに近い。
「結衣さん。急げば、まだ化け妖が竹谷さんの体を乗っ取る前に対処できるかもしれません」
「……急いで戻ろう!」
階上のプラットホームから、ちょうど電車の到着を告げるメロディが鳴り響いていた。
結衣と恋時は、すぐさま踵を返す。
「ハチは神社で休んでてよ。無理しちゃいけないから」
改札の外へ出ていなくてよかった。
料金面でも、時間の面でも。
五
結果から言えば、間に合わなかった。
ほんの紙一重の差だった。
結衣たちが飛び込んだときには、ちょうど未央と先輩、友達が対面しているところだった。
「……先輩、どうして」
未央の漏らした声が、すぐに花見の喧騒へと紛れていく。
虚ろに淀んだ目をしていた。
もしかすると呟いていることさえ、彼女の意識には、のぼっていないかもしれない。
「私に対してデートに誘ってくれたりしてたのは、なんだったんですか。いつから私たちに二股かけようとしてたんですか」
未央の友達は、本当に事情を知らなかったのだろう。
事態に理解が追いつかないようで、ただ呆然と突っ立っていた。
先輩はといえば、その子と握った手を離して、背中の後ろへ隠す。
「いやぁなんのことか分からないな。未央ちゃん、どうしたんだい?」
もう手のつけられないところまで来ていることにさえ、気付いていないようだ。
もしくは知った上で道化を演じているのかもしれない。
未央は前髪で目元を陰らせたまま、黙り込む。
桜の花びらが一枚散るのが異様に遅く思えた。長い時間をかけてから、
「……帰れ、帰れ、帰れ。か、え、れ」
「み、未央ちゃん?」
「帰れ……、お前なんてヨウブンにするのも願い下げなんだ。一度お前の身体には入ったが、腐りすぎて、あの人に捧げるには到底純度が足りない……。カエレ。サモナクバ」
化け妖が、その黒く濁った身体を未央の首元から覗かせる。
風船が破裂したかのごとく、妖気が一気に漏れ、未央の身体を包み込んだ。結衣はとっさに、先輩と未央の間へと割って入った。
恐れていたことが、起きようとしているのもかもしれなかった。
化け妖が姿を見せたのはいいが、およそ最悪の形だ。
このまま未央の身体が完全に乗っ取られてしまうにせよ、外へ出てくるにせよ、だ。
発せられる妖気からして、化け妖は既にかなりの力を溜め込んでいる。
そうなれば、被害は彼女のみに留まらない。
まして、花見のために、まるで呑気な人垣ができている。サークルの方々は、もうへべれけ状態だ。
「みなさん、すぐにここを離れ──」
結衣は避難勧告をせんとするのだが、途中で言葉を止めた。
未央が、コンクリートタイルへ膝から崩れ込んだのだ。
垂れ流されていた妖気も、なりを潜めている。
「落ち着いたの? それとも、なに?」
「…………結衣さん、まずは、ここではない場所へ移りましょう。どちらにしても、竹谷さんから化け妖は剥がれていません」
恋時は、やはり恐怖を拭い切れてはいないのか、ぎこちなくも彼女を自分の背中へと乗せる。
そこへ伸びてきた先輩の手を、結衣ははたき落としていた。
むやみに傷つけておいて、都合の良い時だけ心配など、お門違いも甚だしい。
「人の気持ちを弄ばないでください」
しっかり睨みをきかせて、目で動きを殺した。一瞬白けた花見会場を、そそくさと後にして走る。
「結衣さん。先にお祓いの準備をしていてもらってもいいですか?」
恋時は、未央の体重分だろう。
結衣に少し遅れをとっていた。
後方から、校舎の間を指差す。その先には、昼間に通りがかった築古の建物があった。
「あそこなら空き教室もありそうだね。えっと、じゃあ適当なところに入ってるね」
「えぇ。大丈夫です、適当で。俺、結衣さんの居場所ならどこにいても、分かりますから」
「こんな時に冗談はやめてよ!」
結衣は叫びつつ、暗い路地を縫って、先を急いだ。
息が上がるが、休んでいる暇はなかった。
建物に飛び込み、手頃な部屋を見つけたのは、やっと三階にある大部屋だった。
なるたけ余計なものがない空間が必要だった。
見つけにくいところになってしまったが、しょうがない。
結衣はピッチを上げて、お祓いへの準備を進める。必要なものは、全て携帯していた。まず神楽鈴や大幣といった道具類を、部屋の真ん中に据える。
次に、それを囲むように、小さな青竹にくくった白い紙垂を、四角形のうち三つの角へ配置した。
「……ほんと不思議だな、改めて思えば」
四つが揃うことにより、化け妖に対してのみ効果のある結界が、できあがるようになっているのだ。
本来のお祓いは、神社内の空間で実施するからこそ、効果がある。
この結界を作ることにより、その内側を一時的に神社と同じ、神聖な空間にすることができた。
「結衣さん、遅くなって申し訳ありません」
準備が整ったのとほぼ同時、恋時が部屋へ現れる。
「……ううん。むしろ早かったね?」
本当に、居場所を見抜く特殊能力があるのかもしれない。
疑問は浮かんだが、化け妖の放つ威圧感の前にすぐ立ち消えた。
恋時が、未央を教室の中心にある長机へ横たえる。
結衣は、最後の一角に紙垂を置いて、結界を閉じた。
気を失ったままの未央の背中からは、化け妖の姿が少し覗いていた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐(いざなぎ)の大神(おほかみ)──」
結衣は、大幣で触れつつ祓詞を唱えていく。
名前の通り、お祓いの効果がある言葉だ。大幣と合わさることで、化け妖を紙垂へと引きつけ、人から切り離す際に有効な手となるのだ。
「──清めたまえともうすことを、きこしめせと。かしこみ、かしこみ、もうす」
そして、読み終えたまさにその時だった。
彼女の背中に、太く歪んだ赤黒い線が走った。
どうやら、引きずり出すことはできたらしい。
さらに細い亀裂ができる。その内側から、地中でうねり続けたマグマのように、真っ黒なそれは噴き出した。
夢現の境が乱れ入り、有耶無耶となる。そんな瞬間だ。
さて化け妖とのご対面となったのだが、
「に、二体入ってたんだ」
「…………なるほど。それで妖力が大きかったわけですね」
形の違う頭が二つ、ただし渾然一体となった一つの胴体を共有していた。