父は、一日滞在してから、京都へ戻るという話になった。
深夜残業からのお祓いというハードスケジュールは、不惑の身体には堪えるものがあったらしい。
社務所兼自宅に帰るなり、父は和室に布団を敷いて眠りだした。
「そこは、伯人くんのスペースなのに」
場所を追われた形の恋時は、テレビ前のソファになんとなく落ち着けなさそうに座っている。
結衣は、その手前のローテーブルにティーカップを置いた。自分の分にちょっと口をつけ、彼の隣で膝を三角に折る。
「お気遣いありがとうございます。この匂い、ショウガですか?」
「さすが、よく分かるね。ジンジャーティだよ。疲労回復の効果があるんだ。……お粗末でごめんね、神様なのに」
「そこは気にしないでください。言葉遣いも呼び名も、これまで通りで結構ですから」
呼び方は、相手の印象にも影響を与える。
今さら変えるとなれば、また馴染むまでに時間が掛かりそうだから、そう言ってくれるのはありがたかった。
結衣は、ふうとわざとらしく息をつく。
「心臓に悪かったよ、和室が空っぽになってた時」
「……あぁするしかなくて、すいません」
「もうやめてよね、あぁいうの。ちゃんと言ってからにして」
敵わないな、と恋時は苦笑する。
砂糖も入れていないのに、実に甘そうな顔になって、カップを回していた。
「この際ですから先に謝っておきます。結衣さんの根付けを隠したのも、俺です。カモフラージュになるかと思いまして。……恥ずかしながら、まさか見つけられているとは気づきませんでしたが」
「それは事情があったから仕方ないけど」
思わず尖ってしまった唇を、結衣は意識して引っ込める。
これではいけない。
結衣だって、言いたいのはなにも愚痴だけじゃない。
「……とにかくさ、ありがとうね。化け妖のこと苦手なのに、昔も今回も私を守ってくれて」
「当たり前のことをしたまでですよ。昔の結衣さんを守ったのは、未来の宮司でいらっしゃったからです。それに、泣いている小さな子を放っておくなど、神の立場ではできません。結衣さんの身の上を知ってもいましたから。優しく、強い子だと感心していました」
「ちょっと褒めすぎだよ」
「いえ、むしろ足りないくらいですよ。あれからもう何年も経ちました。ずっと上から見ていましたが、結衣さんは全く変わっていない。今も、優しくて強くいらっしゃる。
そんな結衣さんを守るためなら、怖い、苦手などと言ってられません。昔も今も……、いや今の方が強く、そう思っております」
なんて慈悲に満ちた神様なのだろう。
結衣は、そのありがたさに目を細める。
薄ぼけた襖が視界に入った。
そういえば、あれを破ったのは、結衣を襲った化け妖。つまり黒の猫又のはずだ。
「ねぇ、あの桜の花びら。伯人くんが貼ってくれたの?」
「……やはり覚えていらっしゃらなかったですか。たぶん、化け妖の衝撃が大きすぎたんですね。そうですよ、そもそも結衣さんがどうにかこれで補修してくれないか、と気に入りだったかばんごと、くれたんです」
「それってもしかして、春に破れたトートバッグ?」
「えぇ、ちょうどいい色味でしょう? せっかくいただいたものですから、あぁして手入れをして使わせていただいていました」
「……そうだったの。物ってめぐるんだね」
いまやその布は、恋時のテーブルクロス。アイテム自体が、結衣たちの記憶を残しているかのようで、少し感慨深い気持ちになる。
つまり、恋時と結衣の縁は、そうしてずっと昔から繋がっていたわけだ。二十年近い時が経とうとも、とうとう切れずに今の今まで。
「そういう意味では、お金と同じかもしれませんね。天下の回り物と言いますから」
「一気に台無しだよ……!」
でもおかげで、腹の底から笑うことができた。