三
小屋の状況は、八羽神社を出発した時と、大きく変わってはいなかった。
二時間以上前に見たのと同じ体勢のまま、恋時は凍りついている。
「何度も動き出そうとするから、もう大変よ」
とは壁にもたれかかった雪子だ。天井を見上げる顔には疲れが窺える。
かなり苦慮して、どうにか押し留めているらしい。
「雪子、ありがとうな。もう大丈夫だから」
父が彼女に、ねぎらいの言葉をかける。
「久しぶりね、元当主さん。ちゃんと娘のことは見てなさいよ」
「そう言うなって~。人間にも色々あるんだから」
「へぇ色々ねぇ。どうせ京女にたぶらかされたりしてるんでしょ」
「してねぇっての! 娘の前でやめてくれよぉ、風評被害シビアなんだから~」
どうにか雪子の冷たい態度を懐柔しようと、髭を触りつつ、へらへら笑って身体をくねらせていた。
こんな調子で大丈夫かよ、とは妖の見えない薄川。
四十頃の親父が、壁に向かってパントマイムしているようにでも見えているのだろう。
「たぶん大丈夫だよ、お父さんなら」
「散々拒んでたくせに、やけに信頼してるんだな?」
「まぁ自分のお祓いと比べられる分よく分かるんだよ」
妖相手には強く出られない父だが、こと化け妖と対すれば話は別だ。
雪子との話合いは、0対10で決着をみたらしい。
彼女に顎で使われるがままに、
「はいはい、分かったよ。じゃあ悪いけど、念のため、外を見張っておいてくれるかな、雪子」
父は京都から持参していた鞄を探り、大弊を取り出した。
結衣の持っているものより、紙垂の枚数が多い。
榊の木を使っているのは、父の勤める神社流なのだろう。
「全く、ひどい化け妖に膨れ上がったもんだ。誰がやったんだ、これ」
改めて恋時を見やると、仕方なさそうに大幣を肩に掛けた。
結衣は代表して答える。
「メスの白い猫又だよ。理由はわからないけど、この化け妖をどうにか復活させようとしてたみたい」
「なるほどねぇ。こいつも、隅におけないなぁ。十年以上にわたって慕ってくれるメスがいるなんて」
「……えっ。ということは、この化け妖も猫又なの?」
「あぁそうだったはずだ。もっとも、今は原型もないみたいだけど」
さっきまで腑抜け切っていた父の眼光が、鋭く尖る。大弊の穂先を、垂れた恋時の首上にかざした。
軽く揺すりながら、祓詞を誦する。
結衣が行うものと、全く同じ台詞、テンポの癖も近しい。
だというのに、音の重さも違えば、肌に染みる入る感覚も結衣のものとは異なっていた。
それは性別の違いなんてものではない。踏んできた場数や、精神の差が如実に感じられる。
結衣も小さく祈りを捧げていたら、凍りついていた恋時の身体が、拙く動き始めた。
獣が獲物を前にしたような唸り声が再び、壊れかけの小屋を満たす。
それでも、祓詞は、いっさいリズムを乱されることなく読み上げられ続けた。
そして、
「す、すごいよ、お父さん! 本当に引き剥がれたっ!」
「そう褒めるなよ~、調子に乗ったらまた雪子にどやされるんだから」
恋時の襟元から、それは怨嗟の声を燻らせながら、這いずり出てきた。
真っ黒かつ、肥大し切った身体が床一面に広がる。
募り集まった恨み辛みの集合体は、結衣の心胆を寒がらせた。
『……いつかのお祓い師だな!?』
聞き取りにくい濁った声で、化け妖が吠える。
三角形の黄色い目はより鋭角に、長い尻尾はゆらりと立ち上がる。
「そうだ、君には謝らなければいけないと思ってたんだ。あの頃は、俺の力が足りないばかりに、祓いきれなくて悪かったね」
「今もお前一人に負けるほど、弱ってはおらん!!」
化け妖は咆哮と共に、その影を伸ばした。
が、父はいかにも平気そうに神楽鈴へと持ち替える。
軽く鳴らしたと思ったら、結衣の名前を呼んだ。
「一緒にお祓いしてもらってもいい? いかんせん、一人では手に負えないから、こうして何年もここに封印していたんだ」
「……でも私、今は力が使えなくて」
「ははは、さっきまではそうだろうね。でも、今ならきっと使えるさ。なんせ、もう化け妖は引き剥がしたからね。ほら、急ぐよ」
「う、うん」
言われるままに、結衣はとりあえず神楽鈴を握る。
まだ、車の中で父が言っていた話は、半信半疑だった。
言われてみれば、とも、そんなわけないともどちらにも思う。
けれど、それもこれも、祝詞を唱えれば真偽ははっきりする話だ。
昔、実習に連れていってもらった時同様に、父と呼吸を合わせる。
それから、
「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか──」
穢れを灌ぐ願いを込め、一音一音を読み上げていった。
『やめろ、ただの妖に戻る気など毛頭ない!! 人間の飼い猫など、もうこりごりだ!』
化け妖は苦しげに首元の紐を引きちぎらんと、暴れる。涼やかな音が鳴ったのでよく見れば、首輪には青の鈴がついていた。
結衣の祈祷も、少しではあるが効果を発揮しているようだった。
「じゃあ本当に……」
お祓いは、神職に就く人間が、神様の力をお借りして行う儀式である。
その力が、恋時の解放とともに戻ってきた。
要するにそれは、
「伯人くんが神様だったんだ…………」
ということ。
父が、車で言った通りだった。