頼もしい味方ができて、結衣は本日二度目、鎮守の森へと入る。
小屋を見た薄川は、言葉を失っていた。
恋時の両腕をだらんと垂らした姿に、外へと後ずさる。
「情けなっ。やっぱり受けね。恋時が攻めの方がしっくりくるわ」
との雪子の発言は、幸い聞こえていない。
化け妖の規格を超えたオーラも感じとらず、異様な光景と漂う本格的な雰囲気にだけ、呑まれている。
夏らしいサンダルが踏みしめているのは、できたての新雪と破けた戸板という、あべこべ状態だ。
彼は生足を木屑で傷つけぬよう、スマホのライトで地面を照らす。
「たしかに、うちの護符だ。それも、最近のやつしかねぇ。あの、カンザシとかいう妖が使ってたのと同じだ」
「……えっ、そうなの? うちのお札もあったんだけど、古いやつだけだったよ」
「へぇ。でも、間違いなく、これは最近のやつもある。見たところ、紙も新しいし。どっかの妖が、カンザシの真似でもして取って行ったのかもな」
ちっ、と薄川は舌を打つ。
「ばれねぇからって、好き勝手使ってくれやがって」
それが確かなら、白の猫又がわざと貼ったのだろうか。
とすれば、もしかすると今日のタイミングで剥がれるよう、他の妖と謀ったのかもしれない。
なにせ、薄川の父親も家を空けている日だ。
出張というからには前々から決まっていたのだろう。
お祓いの類を行えるのは結衣のみ。それも、どういうわけか使えないときている。たぶん白猫又には、この状況まで見通せていたのだ。
「どうしよ。あのまま伯人くんを留めておけるのも、朝までなのに」
まだ日付も回る前とはいえ、手をこまねくだけならば、夜明けまでの時間はないのと変わらない。
「留められなくなったらどうなるんだ」
「この化け妖、昔私を襲ったやつなんだよ。こんなところに封印してたくらいだから、お父さんでも祓いきれなかったんだ。たぶんとんでもない妖力をしてる。逃がしたら家が壊されたり人が襲われたり、とにかく結構な被害が出ると思う。伯人くんに取り憑いたりしたら、もしかしたらこのまま──」
「その先は言わなくていいよ、だいたいわかったから。そりゃまずいな。……じゃあ、もう急ぐしかないな」
「えっと?」
「本当に分からないのかよ」
しょうがない奴、とため息をつかれる。
冷気が垂れ込めていて、白く曇った。
「八雲の父親だよ。頼るならもうそこしかないだろ。俺の親父は東京だから、無理。でも京都なら、まだ近いだろ」
「……それは。たしかにそうかもだけど」
結衣は言葉尻を曖昧に切り上げる。
その選択肢は、浮かばなかったわけではなかった。鎮守の森は、辛うじて境内の外にあたる。他の神様の力を借りることもできるわけだ。
ただはじめから、自動的に斜線を引いていた。
「前も言ったろ、俺。お互いにぎくしゃくして、どうしようもない親子には見えなかった、って。変な意地張ってんなよ」
「別に、そんなつもりじゃないよ。私は、……宮司だから。この神社で起きたことは私がどうにかしなきゃと思って」
「それを変な意地って言うんだよ。それとも、こんなときに助けを求められないほどの関係なのか」
結衣は、はっと目をみはる。心の柔らかい部分を、鉤爪で引っ掻かかれるような一言だった。
「どうせ、普通に親と生きてきた人にはわからないよ」
声が荒らぎかける。
ポケットの根付けを内布ごと強く握りしめて、唇を引き絞った。
「じゃあ質問を変える」
薄川はそれに全く取り合うことなく、顔を小屋の内側へ向けた。
「じゃあ、あの妖を放って置けるのか。八雲はそれでいいの」
「……そんなわけないじゃん」
「そうだろ。親に頼るか、あいつを見捨てるか、二択だと思うけど」
まるでそれ以外の答えを許さぬかのような、厳しい声音だった。
テストで出たならば、夏休みの宿題をサボっていようが、簡単な問題だ。答えも既に分かっている。ただ回答欄にペンが向かわない。
結衣は、さっきからずっと同じ姿勢の恋時の姿を見た。
とろんとした白目を、直視できなかった。いつもの笑顔がそこにないのが悔しくて、喉が詰まる。
この半年間、結衣は彼からどれだけのものをもらったことか。
成果、勇気、思い出、挙げればキリがない。勝手に、頭の中に映像がフラッシュバックする。
気づけば結衣の頬には、もう涙が伝っていた。
それがシャツの裡、心臓まで届いて、気持ちが確固たるものへ変わっていく。
このままお別れなんて、絶対にしたくない。してはいけない。
ずっと目指してきた例大祭だって、成功するもしないも、彼と一緒でなかったら意味がない。
「……頼れるものなら頼りたいよ」
必死で絞り出したわりには、か弱い声となってしまった。紛れてしまってもおかしくはなかったけれど、薄川は拾い上げてくれていた。
「なら、そうすればいいじゃん」
「でも、こんな時間に来てもらうなんて、ひどい迷惑だろうし」
「ま。深く考えずに、とりあえず電話してみろよ」
「…………分かった」
おずおずと、結衣はスマホを引っ張り出す。
両手でがっちり握りながら出るのを待つのだが、コール音が何度も鳴るだけ。留守番電話に切り替わってしまった。
「出ないみたいだな」
「もしかしたら、まだ神社の方にいるのかも。携帯とか持ってないんだよ、あの人。超アナログ派で、パソコンとか触ったこともないから」
「あっそ。じゃあ行くしかないな」
雑に手首が掴まれる。
身を翻した薄川は、ざくざくと山肌を下りはじめた。