「結衣、どうするんや。なんか、いよいよほんまにやばいで。毛が立って、しゃあない感覚や」
「分かってるよ! とにかく……」

 こうなったらもう、父との約束どうのは言ってられない。

結衣は、それでも少しのためらいを覚えつつ、扉を引く。鍵が掛けられていたようだったので、肩からタックルを決めた。

期待どおりに一度で戸は壊れ、夜の山にメリメリ砕ける音が響く。
体勢を立て直して中を見てみると、大きすぎる黒目が二つ、こちらを伺っていた。

「化け妖……!」

対峙すると、肌が教えてくる。
自分でさえ朧げにしか取り出せなかった過去が否応なしに引っ張り出される。

ハチが話していた通り、それは昔、結衣を襲った個体にちがいなかった。

視線でやり込められていたら、月明かりで、ぼんやりと見える。

恋時の和服の首筋に、忍び近づいた化け妖は身体をくぐめ、中へと侵入したのだ。

「どういうことや、恋時はんに憑いとるで!?」

妖が妖につくなんて、結衣も初めて見た。

衝撃的なことだったが、なんにしても、できることは限られている。

ハチはもう理解してくれたようだ。結衣は持ってきたカバンを漁る。走り出す彼の口めがけ、フリスビーかのごとく、青竹に紙垂にと次々投げていった。

「……伯人くんを返して」

最後に掴んだのは、大弊だ。

恋時の身体は、全くその場から動く気配を見せなかった。ただ、獣の猛るような声を垂れ流し続ける。

ただまだ、完全に乗っ取られてはいない。

「結衣、置き終わったで!!」

ハチの知らせとともに、結衣は木串を左右に振る。

「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神──」

いつもの祓詞を、瞑目して念じていった。これで穢れが布に乗り移り、妖へと戻る。はずだったのだが。
振っても振っても、化け妖の様子はなに一つ変わらない。

「な、なんで……!?」

焦る気持ちが、力を阻んでいるのかもしれない。
そう思って深呼吸してみるが、それもだめ。

こんな時にはいつも手を握って助けてくれた恋時は、目の前で項垂れていた。

神楽鈴と合わせてみたり、手探りを繰り返す。


そんな時だ。
恋時が──いや、その身体を使役した化け妖が、ゆらりと腰を折りながら立ち上がった。五色の帯がはらりと落ちるが、気にもしない。

乱雑に裾をたくしあげ、硬く結ぶ。その妖気は、二匹の妖を同時に祓った時をも凌ぐ勢いだった。

細い血管の端から、恐れが心臓まで集まってくる。

「は、伯人くん?」

なんて言っても、声は届かない。目が上にひん剥かれて、白く濁っていた。

やられる。
そう思ったら、尻餅をついてしまった。

隙は化け妖の大好物だ。その骨張った腕が結衣の首に掴みかからんとする。

『……ケケケ、ケケ』

邪悪な声であった。

否応なしに、埋めたはずの幼い頃の恐怖が抉り返される。目を瞑ってしまった、その時だった。
恋時はその状態で、氷像と化した。まるでゾンビ映画のごとく。

振り返ると、真っ白な顔の真っ赤な唇が緩んでいる。

「間一髪ね、間に合ってよかったわ」
「雪子! どうしてきたの」

「ワンコが呼びにきたのよ。一旦でも止めるなら、凍らすしかないってね。でも、まさかこんなやばいのが出てくるなんて。あの白ニャンコめ」
「なにか喋ったの、猫又」

「そうね。今問いただしたら、あっさり。この化け妖を封印から解きたかったんだって。
 そのために、心の隙がある人探しては、妖力集めまわってたらしいわよ。
 山で倒れてたのは、この化け妖にほとんどの力を与えたからみたい」

「……それってさ。今になって喋ったのは、もう復活したって分かったからだよね」
「そうとしか言えないわね。このありさまじゃあ」

雪子は、尋常ならざる格好の恋時を、冷たい目で見やる。
それから、結衣に告げた。

「たぶん、持って明け方までよ。夏に氷は溶けるし、うちは日光浴びられないから。これが溶けたら、すぐにでも身体に入られる。それまでに、どうにかしなさい。八羽神社の宮司なんでしょ」
「……う、うん!」

そうだ、まどろんでいる場合ではない。

手押しで勢いつけて、どうにか立ち上がる。
が、高かった敷居に躓いた。転けたところで、ふんわりした雪に顔が埋もれる。

「もう。結衣ってば、どんくさいわね。そんなに焦っても仕方ないでしょ。なにか方法思いついてるの」

雪子が助けてくれたらしい。

結衣は赤らむ顔を、悔しさに滲ませて振る。しかし雪山の下にあるものを見つけて、思うままに、それを掻き出した。

濡れて滲んでいるが、その札は尻合わせのカエデの葉。

「……ちょっと行ってくる!」

結衣は、転がり滑りつつも大股で斜面を駆け降りる。

短くなる呼吸と戦いながら、やってきたのは隣の寺の門前だ。
さっきの札と全く同じ、カエデの葉の紋が掲げてあった。

「ごめんくださいっ!! 誰かっ!!」

もう夜も遅い。
不礼は承知で、結衣は寺社での住宅にあたる庫裏のチャイムを鳴らす。

「どうしたんだよ、こんな時間に焦って。ってか、どうしたそのボロボロの格好は。葉っぱ纏って歩くなよ、お前は小学生か」

出てきたのは、生臭坊主。
ではなくて、幼馴染の薄川飛鳥だった。

寝巻き姿で、風呂上がりなのか前髪をタオルで巻き上げている。郵便配達員なら飛び上がっていたかもしれない。

だが、彼の見た目なんかより、よっぽど恐ろしいものがすぐ背後の山にいた。

「薄川! 親御さんは?」
「今日はいねぇよ。出張だな、宗派の集会があるんだってよ。泊まりで東京の方に行ってるけど、それがどうかしたのか」

「じゃあ、薄川でいい。ちょっと来てっ」
「でいい、ってなんだよ。って、おい!」

結衣が無理に引っ張ると、彼は仕方なさそうに、サンダルを引っかける。
急かしても、その足取りはのろかった。

「どうしたんだよ、まじで。また変なのが出たか?」

仕方なく、結衣は一通りのことを話す。

本当はあまり伝えたくなかった。

彼には一度、恋時のことで忠言を受けている。その疑惑が現実になったかのように思われるのは、避けたい道だった。

「なるほど。それで、うちにきたわけか」
「ごめん。伯人くんのこと助けようなんて、薄川にとったらおかしいよね」

「…………別に」
「へ、おかしいって思わないの。前は疑ってたじゃん」

「そりゃ、やっぱり胡散臭いとは思うけど? 八雲が疑ったうえで信じたってなら、それ以上のことは言わないよ、俺は」

八雲はまた、首を傾け、肩口を爪で引っ掻く。

なんて優しいのだろう、と思った。
大学で女子から好かれているというのもあながち嘘ではないのかもしれない。

お世辞の一つ使えなさそうな、分かりやすい善人だ。

「ありがと、薄川」
「お礼の先払いか? まだなんにもしてないし、できるかもわかんねぇからな」