二
夜の十一時頃。
結衣はすでに晩ご飯も風呂も終わらせ、寝巻き姿、自室で例大祭に関する資料を眺めていた。
自発的に、ではない。
ついさっき方、恋時にどっさりと託されたものだ。
当日の流れや注意点が、一通りさらったところ、一から十まで書き出してあるらしい。
「なんか今、受験生みたいだなぁ」
お茶を口にして、ぼやく。
今日のこの詰め込みようは、まるで試験の一月前だ。
大学受験をしていないだけに気持ちまでは分からないが、手をつけていない分野を前にしたときの、気の遠くなる感覚は近しい物があるだろう。
ペンを握ったはいいが、二、三と親指のうえで回転させるだけ。
結衣が思いっきり目を滑らせていたところ、
「大変やっ!! 偉いことが起きとるで!!」
先に大声と足音がして、それを追うように、ハチが部屋へと飛び入ってきた。
犬の姿、前足をかいて必死に訴えることには、
「……あの森から、化け妖の匂いがするで」
「えっ! 嘘!」
結衣は、すぐに立ち上がっていた。
ばさりと資料が床へと落ちる。が、気にしてはいられない。
「ほんまの話や。それもあの匂い、嗅いだことがある。いつか、結衣が来たばっかりの頃に侵入してきた妖や。結衣を襲ったのがおったやろ」
「……嘘、あの時の」
途端、遠いいつかの記憶が朧げによみがえってくる。
結衣を襲わんと和室に貼り付いていた、あの黒々しいなにか。後から、あぁいうものを総称して、化け妖というのだと知った。
イメージができていなかったから、どんな身体をしていたか、なんの妖だったかは定かではない。
けれど、もしそれが、あの小屋にいたのだとしたら、父が封じたこととも時系列的な辻褄が合う。
考えて、鳥肌が脳天まで駆け抜けた。
「ちょっと、伯人くん呼んでくる! すぐにお祓いしなきゃ!」
結衣は、ノブに手をかける。
が、体重が前にうつらない。見れば、ハチがローソックスのくるぶし部分を噛んでいる。
「なによ、急がなきゃいけないんだけど」
「それがな結衣。恋時はんが、おらんみたいなんや」
「……どういうこと?」
「そのまんまの意味や。居間におったときに化け妖の匂いがしたから、ついでやと思って、和室に声かけに行ったんやけどな。部屋、空っぽになっとったで。……もしかしたら消えてもうたんかもしらん」
はたと一瞬、頭が真っ白になった。
まさか、そんなはずはない。ついさっき、例大祭の資料をもらったばかりだ。
戯言だと一度は思うのだが、このところの彼には、引っかかりを覚えてもいた。昼のやたら早口の講義や、この大量の資料たちが、それを助長する。
不吉な予感が走った。
ラグがあったのはそこまで、結衣はもう動き出していた。
ハチが、すぐに後をついてくる。彼が信用ならないわけではないが、この目で見ないことには納得できないし、したくもなかった。
和室のボロ扉を無理に開け放つ。
すると、たしかにほとんどのものが消えていた。わずかばかりあった私物もなく、もぬけの殻だ。
窓が開け放ちにされ、夏の夜風がさしこんでいるのが虚しい。彼のいた形跡はといえば唯一、それは、ひらひらと揺れる。
「……ノート」
「これ、恋時はんが最近ずっと書いとったやつやな」
結衣は迷わず手に取り、開く。
そこに書きおかれていたのは、経営の仕方だとか、企画の立案方法だとか。全て、結衣に語りかけるかのような形で記されていた。
最後のページにたどり着く。
そこには、
『さようなら、結衣さん。例大祭うまくいくとよいですね』
別れの言葉。
そうとしか取れない文章が、したためられていた。もう、めくれるページはない。
結衣は、一文字一文字を何度も見返し、覗き込んだまま動けなくなる。
そこでやっと、理解できてしまった。
このために、彼はこのところ篭り切りになったり、やたらとノウハウを教え込まんとしていたのだ。
自分がいなくなることを、恋時は分かっていた。
そのうえで、このノートや資料を残したわけだ。
結衣たちだけでも八羽神社がやっていけるように、と。
「消えるならそうって言ってよ。お別れの挨拶もできないなんて……!」
ぶわりと、色んな想いがこみ上げてくる。
それが目を潤ませたところで、少し腑に落ちないことに気付いた。
彼が、未央に憑いていた文車妖妃が消えるときのように、生気を失っているようには見えなかった点だ。
ふと、熱くなった顔を上げる。
「……外に行ったのかも」
「え? でも、匂いは残ってへんで?」
「窓開いてるからね、風にさらわれたんだ。前と同じだよ、ハチ」
そこまでこれば、行き先は、だいたい分かった。
恋時はあくまで、一人でどうにかしようというつもりだったらしい。結衣はポケットの中の根付けに触れる。させてなるものかと、強く握り締めた。
「お供するで、結衣。だんだん匂いもきつなってきとるしな」
「じゃあ急ぐよ、ハチ」
「よう言うで。僕のが断然速いんやから。区間新記録は伊達やないで」
お祓い用具一色の詰まったかばんは、玄関のポールハンガーにかけていた。
結衣をそれを引っ掴んで、頭をくぐらす。
玄関で靴を突っかけ、途中でかかとを納めながら、神社の境内を突っ切った。
フェンスが鳴るのもきにせず、二十間近の淑女ということも忘れ、乗り越える。その先、
鎮守の森の中へと入った。
酷く妖しい匂いが、木々の香りを縫って鼻につく。その匂いはまたたくまに強烈になっていき、直感が危険を告げてくるまでになっていた。
「こっちや! 結衣、はやく!」
ハチの導いてくれた先は、やはりあの小屋の前だった。なにやら、ほんのりと光に包まれて、あたりの草木が白ぼけるほどには目に痛い。
そこに、恋時の姿を見つけた。
よかった、まだそこにいる。
意図せず、頬が綻んだ。
しかし、結衣がまさに声をかけようとした時だった。暗闇がその濃度を増す。すっかり光を飲み込むと、
「ち、ちょっと! 待って!」
彼は小屋の中へ引き摺り込まれていって、閉まる。
唖然としていたら、中から音が一切しなくなった。
まるで最初からなにごとも起きなかったかのように、風が通り抜けるだけとなった。