夜の十一時頃。

結衣はすでに晩ご飯も風呂も終わらせ、寝巻き姿、自室で例大祭に関する資料を眺めていた。

自発的に、ではない。

ついさっき方、恋時にどっさりと託されたものだ。
当日の流れや注意点が、一通りさらったところ、一から十まで書き出してあるらしい。

「なんか今、受験生みたいだなぁ」

お茶を口にして、ぼやく。

今日のこの詰め込みようは、まるで試験の一月前だ。

大学受験をしていないだけに気持ちまでは分からないが、手をつけていない分野を前にしたときの、気の遠くなる感覚は近しい物があるだろう。

ペンを握ったはいいが、二、三と親指のうえで回転させるだけ。
結衣が思いっきり目を滑らせていたところ、

「大変やっ!! 偉いことが起きとるで!!」

先に大声と足音がして、それを追うように、ハチが部屋へと飛び入ってきた。
犬の姿、前足をかいて必死に訴えることには、

「……あの森から、化け妖の匂いがするで」
「えっ! 嘘!」

結衣は、すぐに立ち上がっていた。
ばさりと資料が床へと落ちる。が、気にしてはいられない。

「ほんまの話や。それもあの匂い、嗅いだことがある。いつか、結衣が来たばっかりの頃に侵入してきた妖や。結衣を襲ったのがおったやろ」
「……嘘、あの時の」

途端、遠いいつかの記憶が朧げによみがえってくる。
結衣を襲わんと和室に貼り付いていた、あの黒々しいなにか。後から、あぁいうものを総称して、化け妖というのだと知った。

イメージができていなかったから、どんな身体をしていたか、なんの妖だったかは定かではない。

けれど、もしそれが、あの小屋にいたのだとしたら、父が封じたこととも時系列的な辻褄が合う。

考えて、鳥肌が脳天まで駆け抜けた。

「ちょっと、伯人くん呼んでくる! すぐにお祓いしなきゃ!」

結衣は、ノブに手をかける。
が、体重が前にうつらない。見れば、ハチがローソックスのくるぶし部分を噛んでいる。

「なによ、急がなきゃいけないんだけど」
「それがな結衣。恋時はんが、おらんみたいなんや」

「……どういうこと?」
「そのまんまの意味や。居間におったときに化け妖の匂いがしたから、ついでやと思って、和室に声かけに行ったんやけどな。部屋、空っぽになっとったで。……もしかしたら消えてもうたんかもしらん」

 はたと一瞬、頭が真っ白になった。

 まさか、そんなはずはない。ついさっき、例大祭の資料をもらったばかりだ。

戯言だと一度は思うのだが、このところの彼には、引っかかりを覚えてもいた。昼のやたら早口の講義や、この大量の資料たちが、それを助長する。

不吉な予感が走った。

ラグがあったのはそこまで、結衣はもう動き出していた。

ハチが、すぐに後をついてくる。彼が信用ならないわけではないが、この目で見ないことには納得できないし、したくもなかった。

和室のボロ扉を無理に開け放つ。

すると、たしかにほとんどのものが消えていた。わずかばかりあった私物もなく、もぬけの殻だ。

窓が開け放ちにされ、夏の夜風がさしこんでいるのが虚しい。彼のいた形跡はといえば唯一、それは、ひらひらと揺れる。

「……ノート」
「これ、恋時はんが最近ずっと書いとったやつやな」

結衣は迷わず手に取り、開く。

そこに書きおかれていたのは、経営の仕方だとか、企画の立案方法だとか。全て、結衣に語りかけるかのような形で記されていた。

最後のページにたどり着く。


そこには、


『さようなら、結衣さん。例大祭うまくいくとよいですね』

別れの言葉。

そうとしか取れない文章が、したためられていた。もう、めくれるページはない。

結衣は、一文字一文字を何度も見返し、覗き込んだまま動けなくなる。


そこでやっと、理解できてしまった。

このために、彼はこのところ篭り切りになったり、やたらとノウハウを教え込まんとしていたのだ。

自分がいなくなることを、恋時は分かっていた。

そのうえで、このノートや資料を残したわけだ。
結衣たちだけでも八羽神社がやっていけるように、と。

「消えるならそうって言ってよ。お別れの挨拶もできないなんて……!」

ぶわりと、色んな想いがこみ上げてくる。
それが目を潤ませたところで、少し腑に落ちないことに気付いた。

彼が、未央に憑いていた文車妖妃が消えるときのように、生気を失っているようには見えなかった点だ。

ふと、熱くなった顔を上げる。

「……外に行ったのかも」
「え? でも、匂いは残ってへんで?」

「窓開いてるからね、風にさらわれたんだ。前と同じだよ、ハチ」

そこまでこれば、行き先は、だいたい分かった。
 恋時はあくまで、一人でどうにかしようというつもりだったらしい。結衣はポケットの中の根付けに触れる。させてなるものかと、強く握り締めた。

「お供するで、結衣。だんだん匂いもきつなってきとるしな」
「じゃあ急ぐよ、ハチ」
「よう言うで。僕のが断然速いんやから。区間新記録は伊達やないで」

お祓い用具一色の詰まったかばんは、玄関のポールハンガーにかけていた。

結衣をそれを引っ掴んで、頭をくぐらす。
玄関で靴を突っかけ、途中でかかとを納めながら、神社の境内を突っ切った。

フェンスが鳴るのもきにせず、二十間近の淑女ということも忘れ、乗り越える。その先、


鎮守の森の中へと入った。

酷く妖しい匂いが、木々の香りを縫って鼻につく。その匂いはまたたくまに強烈になっていき、直感が危険を告げてくるまでになっていた。

「こっちや! 結衣、はやく!」

ハチの導いてくれた先は、やはりあの小屋の前だった。なにやら、ほんのりと光に包まれて、あたりの草木が白ぼけるほどには目に痛い。

そこに、恋時の姿を見つけた。

よかった、まだそこにいる。
意図せず、頬が綻んだ。

しかし、結衣がまさに声をかけようとした時だった。暗闇がその濃度を増す。すっかり光を飲み込むと、

「ち、ちょっと! 待って!」

彼は小屋の中へ引き摺り込まれていって、閉まる。

唖然としていたら、中から音が一切しなくなった。

まるで最初からなにごとも起きなかったかのように、風が通り抜けるだけとなった。