一
そこは、どちらにせよ踏み入らないわけにはいかなかった場所だった。
夏休みの宿題に似ているかもしれない。
期限があって、放置すればするだけ後が苦しくなる。
一月ならまだマシな方だ。今回は十年以上、見て見ぬふりをしてきた。
そのツケの集大成ともいえる鬱蒼とした森を、結衣はしかめ面で見上げる。
「ここに、あの猫又が来てるんだよね」
たしか、そう木霊が証言していた。けれど不思議なことに今は、山鳴りもせず、化け妖の匂いも全くしない。鎮守の森からは、むわっと夏の草いきれが立ちのぼるのみだ。
その確たる証拠に、恋時もピンピンとしている。
「結衣さん、やっぱり俺だけで行きますよ。家で金庫の見張りでもしていてください」
「そうはいかないよ。もう金庫は家の奥にしまったし。雪子とハチも見てくれてるもの」
結衣は、錆びついた外周フェンスにくくられた南京錠を外す。
少し、後ろめたい気持ちが心に影を作った。
今この瞬間、結衣は父との長年の約束を破ったことになる。
それを意識しないよう、あえて足音を鳴らして、中へと踏み入っていく。
「妖じゃなくて、猪とか狸とかが出そうな雰囲気だね」
「それならば、俺がどうにでもしますよ」
「化け妖だけが怖いんだ……? それも不思議だけど」
「生来ですよ。まがまがしいものは得意ではないのです」
会話をしつつも、注意は怠らない。
まるで人の侵入を阻むかのような道なき急斜面を、どこへゆくのかも分からず、まずは上ってゆく。
やみくもに草木をかき分けていたら、屋根のようなものが目に入った。
小さな掘っ立て小屋があるらしい。
盛りを迎えた広葉樹が林立する中に、埋もれるように建っている。
「あんな建物あったんだね、知らなかったよ。とりあえず、あそこ行ってみてもいいかな?」
返事はなかった。
不思議に思って恋時を見れば、むっつりとした顔で足袋を見つめている。
いつも笑顔の彼には、全く似合っていなかった。
どうせ他にアテがあるわけじゃない。
結衣は、先々と小屋まで続く最後の崖を上りきる。
玄関前にはなんと、妖が一匹行き倒れていた。
「……伯人くん、あの猫又!」
それも間違いなく、春に見たものと同じ個体、白い身体を晒している。
首元に結ばれているのも、同じ水色の鈴だ。
この地面に垂れた二本のしっぽに、結衣が作った結界は壊された。だがあの時のけたたましさは、見る影もない。
「力を蓄えてた、って木霊が言ってたよね」
「……結衣さん、むやみに近づかないほうがいいですよ」
「でも今は化け妖じゃないみたいだし」
「やっぱり甘いですね、あなたは」
そうは言われても放ってはおけない。結衣は、迷わず猫又を抱え上げる。
恋時はといえば、腕を組んで鬼の形相をしていた。その先にあるのは、件の小屋だ。はっと目に飛び込んだものに、結衣はつい一歩引き下がる。
「……なにこれ」
大量のお札が、扉に目張りされていたのだ。とくに、扉の隙間は入念に塞がれている。
異常。
そうとしか形容できない外見だった。
恐る恐るお札に目をやれば、何種類かあるようだ。けれど、その大半は、
「うちの昔使ってたお札だよ、これ……。ほら、鈴蘭の花!」
神社コンの際、特別仕様として拝借したデザイン。元々は、父の頃に使っていた柄だ。
「この札、お父さんが貼ったのかな……。というか、ここまでしておいて、なにもないわけないよね」
ただの魔除けというレベルは明らかに超えていた。
間違いなく、この小屋の中には、なにかが封じられている。そうとしか思えない佇まいだ。そんな建物の前に、件の猫又が倒れていた。
二つの事実が、結衣の頭の中で勝手に結びつきはじめる。
気にならないわけがなかった。
結衣は常々「この山には入るな」と、父に言いつけられてきた。その理由が、この建物なのだとしたら、話はさらに連鎖する。
小屋の鍵は、持っていなかった。
だが、蹴破るのは簡単にできそうなほど、劣化が進んでいる。
唾を飲み、無理に身体を前へと進める結衣。恋時が、袴装束の袖を引いた。
「結衣さん、ここはそうっとしておきましょう」
その眉間には、まだ険しいシワが刻まれている。
笑顔は山道で空になるまで落としてきたらしい。
「……伯人くんはなにか知ってるの」
「いえ、そういうわけでは。でも、少なくとも今は、化け妖の匂いはいたしません。
なにもなく済んでいるものを、わざわざ開ける必要がないのではないか、と」
綺麗に一本筋が通った意見だった。
いわば、パンドラの箱のようなもの。わざわざ触れにいっても、痛い目を見るだけといえば、確かだった。
「そうだね……」
結衣は、大人しく引き下がる。
内心、理由を見つけてくれたことに、少しほっとしていた。
この扉を壊すことは今度こそ、父を裏切ることになる。そんな思いが、胸に押し寄せていた。
社務所兼自宅へと戻る。
猫又は、一向に目を覚ます気配がなかった。
夏の熱気にやられてか、ひどく体温が高い。妖としての存在が消えるか消えないか、その瀬戸際に瀕しているのかもしれない。
恋時の手を借りて、身体に保冷剤を巻くなどの応急処置を施す。
居間で座布団に寝かせていたところ、
「その白ニャンコ、熱中症? なら、うちに任せなさい。部屋で引き取るわよ」
雪子がこう申し出てくれた。
「雪子、この猫又には聞きたいことがたくさんあるの」
「分かってるわよ。最近の色々はこのニャンコの仕業って言うんでしょう? 意識が戻ったら、ちゃんと聞き出しとくわ」
雪女らしく、その瞳が青に凍てつく。
普段こそ、ただの腐女子だけれど、そもそも雪女は力の強い妖だ。
自分が聴取を受けるわけでもないのに、結衣の背筋にも、ぞっと寒気が走った。
一応、やりすぎないように、とだけ釘を刺しておいた。