「……神よ、これのどこが罰なのだ。ほ、本当にいいのですか」
思わぬ牡丹餅。
木霊も、しどろもどろしている。唯一、神の意を得たりとばかり、恋時だけは
「酔狂なお方ですね」と笑う。
「はっは、そうじゃろ? いやぁ、あまりに誰も来ないからの。たとえ妙な妖でも、ここへ来てくれたことが嬉しかったのじゃよ、わしは。
それに、結衣や伯人を連れてきたのも、理由はどうあれ木霊の妖じゃ。ここは、粋に計らってやるのが、世を見守るものの器よ」
徳利だけに、なんて寒いギャグを言って、邪神は自分でケラケラ笑う。
恋時の笑顔に冷ややかなものが一筋差し込んだのを結衣は見逃さなかった。
「おほん。ただのう、今のわしにはここを離れては力を発揮できぬ。
そこでじゃ。この者たちが代理を務めてくれれば、申請を受け入れられよう。
木霊の妖よ。罰というのは、二人にもう一度しっかりと詫び、協力をお願いすることじゃ。どうかの?」
「……かたじけない」
綿毛のような身体から絞り出すように、木霊が言う。
続いて結衣たちの方を向いて、
「すまなかった。どうにかお力添えをいただきたい……!」
それぞれに二度三度と頭を下げた。
「今日はよく歩きますね。足の方はまだ大丈夫ですか?」
「うん。普段から宮司のお仕事って、動いてばっかりだしね。それじゃあいこっか、木霊」
「……かたじけない」
「そればっかりじゃん」
木霊が、結衣の後ろを風に若干流されながら浮遊する。
鞄を開けて、入る? と問えば、すっぽりと収まった。
「死者に会うためには、朝日が昇るまでに入る必要があるからの。少し急いだほうがよいぞ」
忠告とともに、作法や場所をよく確かめてから、洞窟を後にする。
鳥居の前で、金庫を一度置いた上で、結衣はしっかりと礼をした。
「また詣りにくるのじゃぞ。今度は酒を持って。シャケじゃないからの」
最後まで寒かったけれど、心はほっこりとした。
いつかお酒と料理を持って行こうと誓う。
まだ外はほの暗かった。
ただしスマホを見てみると、もう四時を回っていた。夜明けがすぐそこまで迫っている。
霊仙山は本来、彦根駅から電車で十分ほど離れたところに登山口があった。
けれど、この札があれば、芹川の河川敷を少し上ったところにある大岩の上からでも入れると、邪神は言っていた。
「この度は大変世話になった」
目的地に着くや、木霊は結衣の鞄から岩辺に降り立つ。
「代わりと言ってはなんだが、最後に一つ礼がしたい。……というのも今回、我に情報を流し、唆してきた妖のことだ」
「話してくれる気になったの?」
「あぁ、我が奴のことを話さなかったのは、奴が持つ強大な力を恐れてのこと。
だが、自分の保身のために、恩人に不義理を働くわけにもいかないからな。奴は──」
ついに、八羽神社を狙わせた妖の名前が明かされる。
結衣は、ごくりと唾を飲む。木霊は、はっきりと告げた。
猫又の妖だ、と。
「奴は今、八羽神社の鎮守の森によく出入りしているようだ。この間は、山姫の妖を刺客に送ったとも言っていた」
「もしかして神社コンの時の!」
山鳴りも、その猫又の仕業なのだろうか。
「でも、なんでそんなことを?」
「殿方よ、伯人と言ったな。その方を狙っていると、猫又は息巻いていた。すまぬ、理由は分からないが」
「伯人くん、それって…………」
思い当たるのは唯一、依頼人・竹谷未央に取り憑いていた猫又だ。
恋時のことを知っている風だったし、逃したとはいえ彼から力を奪いもした。
恨みを持たれる理由にもなる。
恋時は少し眉間にシワを寄せるが、
「だいたい、どの妖の仕業か分かりましたよ。ありがとうございます、木霊さん」
すぐに愛想を向ける。
「感謝をされる筋合いはない。むしろ、口車に乗せられ、八羽神社を襲撃したのも我だ。すまなかった」
木霊は、相変わらず堅苦しく謝罪した。
その身体の線は、さっきより薄れて見えた。
東の空がもう白みはじめている。雲一つないから、今日の琵琶湖は、朝焼けが綺麗に違いない。
その前には送り届けなければ。結衣は預かっていた木簡を岩肌に丁寧に乗せる。これが、いわば馬車の代わりになるらしい。
「神の許しに応えて、この者を霊仙へ入れ給え」
教えられた合い言葉とともに四度拍手を打つと、木簡が宙へと持ち上がった。
洞窟の中で見たみたく、眩しく閃いて、
「それでは、幸運を祈っている」
「木霊こそね。ちゃんと会って、思いを伝えてくるんだよ」
ふっ、と聞こえたのは、木霊の笑い声だったのか、去っていく音だったのか。
忽然と姿が消えていた。
ほっと肩の力が抜ける。大岩に、べったり腰を下ろした。手のひらを空に向けて、背を伸ばす。夜の間に熱を失っていて、ひんやりと気持ちいい。
ようやっと、長い長い一日が終わった実感があった。
「ちょうど日が昇ってきたようですね」
「うん、さすがに疲れたよ。あれ、でも帰ったらもう朝拝の時間だ……!」
そして、次の一日が始まろうとしている。
ちょうど、始発電車が通る時間だった。少し遠くからは線路の軋む音が聞こえる。
「少し休まれてもいいのでは?」
自分は立ったまま着物に手を差し入れて、恋時が言う。
やっぱり結衣に甘いのは恋時の方だ。
「そうはいかないよ。神様にはお休みないんだから、私も休めない。それに気になることもあるでしょ、あの猫又。うちの森に用があるみたいだし」
「俺を狙っているんでしょう? 俺が対処しますよ」
「びびりなのに? 化け妖見ただけで固まっちゃうのに?」
「……い、いざとなれば、大丈夫ですよ。とにかく結衣さんは例大祭のことだけ考えていてください。少なくとも使う分は戻りがあるように、かつ神社のPRになる施策を捻り出さねばなりません」
「PRの方は頑張るけど、……伯人くんだけなんてダメ。私も手伝うよ。だって仲間だもの」
春先とはちがって、同じ釜の飯だって食べている。
この分だと、あいにく今朝もそうめんだろうけど。
「……結衣さんにはかなう気がしませんよ。それを言われては返す言葉がありません」
恋時は前髪を人差し指で跳ねて、こめかみを掻く。
堅固な笑顔の牙城が崩れ、その瓦礫から、そっと素が垣間見えた。
いつも澄ましているだけに、上気した顔はレア物だ。根付けと一緒に懐にしまいたいくらいには、可愛い。
「そういえば、なんで伯人くんだけ狙ってるんだろうね。私もいたのに」
「さぁそこまでは。……とにかくまずは帰りましょうか」
恋時は腕に袖を垂らして、右手を差し出す。
結衣はそれに捕まって、えいと起き上がった。
また長い一日が、始まる予感がした。