追いかけんとするが、恋時に腕を引かれる。
それで手を繋いだままだったことに気付いて、ぱっと距離を取った。
お祓いのため仕方なく、そうは思えど、なんだか気恥ずかしい。思うことがそもそも言い訳を作ろうとしているかのようだ。
空気を変えなければ、と口を開く。
「……ね、猫又だよね、今の。綺麗な青い目だったね、ひげまで整ってたし、水色の鈴までついてた。それに、伯人くんのこと知ってるっぽかったけど」
「いや、俺は知らない猫ですよ。それにしても、ただの老猫が化けたと言う感じじゃないのはたしかなようですね。発言からして、あの妖が失恋に固執していたんでしょう」
「ごめん、取り逃しちゃったよ」
「大丈夫、また化け妖になるようなら、その時に祓えばいいのです。それに、こちらは残りましたから」
もう一体の妖は、未央のそばに寄り添うようにして、彼女の顔を覗き込んでいた。
目元が隠れるまで深々とすぎんを被り、背中に桐の小箱を背負った少女のような姿。
「……この見た目たしか、文車妖妃(ふぐるまようひ)」
「そうですね。恋文につのった執念から成る、女性型の妖怪です」
やっと、パズルのラストピースがあるべきところに嵌った気がした。
三限の授業中、妖気がそれまでに比べても強大になったは、二体の妖が共に反応をしていたからだったのだ。
考えてみれば、取り扱っていた恋の和歌には全て「失恋」以外に、もう一つの側面がある。
あれらは全て、誰かを思ってのものだった。歌の先には、思いが向けられた相手がいる。
それはまさしく、手紙だ。
『未央は目覚めるのかい』
文車妖妃が手元の和紙に筆を走らせて、結衣らへ見せる。
「お祓いはうまくいったから、うん、もう少しすれば」
文車妖妃は時間をかけ、また文章をしたためた。
『それならばよかった。この子を守るのが、私の唯一の使命だったんだから。猫又の憑依から守るために、私はこの娘に憑いてきたんだ』
「……そうだったの。じゃあもしかして先輩とのデートを邪魔したのは、あなた?」
『そう、あの男は明らかに邪な気持ちで近づいてきていたからね。あいつと一緒になっても、この娘の幸せにならない』
どうやら力が弱って、言葉を発することができなくなっているようだ。ややあって、体の輪郭が薄れていく。
『ありがとう、お祓い師たち。この娘を守ってくれて。これで心置きなくいけるよ』
力ない微笑みが残される。文車妖妃は墨の染みた筆を小箱へしまうと、空気の中へゆらりと姿をほどいた。
万願が叶って、未練がなくなったらしい。
感情から生まれた妖は、それが果たされた場合、天へと召される。
「悪い妖ばっかりじゃないんだよね、化け妖になる子も」
声も届かず、姿も見て貰えない。
それでも、立派に守り抜いたのだ。
結衣は、手を合わせて冥福を祈る。
彼女のカケラが完全に消失した後、その骸から真っ白な封筒が舞いおりてきた。
「……あの手紙が本体だったんだ」
それが、まるで未央の頭を愛おしく撫でるかのように、ゆったりと彼女の顔の上に乗る。
「……あれ、なにこれ、かゆい」
その感触で、意識が戻ったようだ。
未央が顔を左右に払って、上体を起こした。結衣は、落ちかけた手紙を、地面につく前に拾い上げる。
「ここは……どこ? って宮司さん! それにえっと……恋時さん?」
「えぇ、この間の銀髪は、コスプレというやつです」
そういえば、今は髪が黒いのだった。
寝起きに、彼女の奔放な性格もあるのだろう。恋時がでっちあげた話を、未央はそのまま飲み込む。それから周囲を見渡した。
「私、寝てた? なんで? なにかあったんでしたっけ………。って、そうだった…………」
混乱の最中、未央は先輩との顛末を思い出したようだ。
化け妖が身体から去ろうと、起こった出来事までは変わらない。都合の悪い記憶を消せるわけでもない。
雨模様の表情となった彼女へ、傘がわりに、結衣は手紙を握らせた。
「お祓い、終わりましたよ。これでもう、変なことは起きませんから」
「……宮司さん、えっ、これ! なんで、持ってらっしゃるんですか! なくしたと思ってたのに」
「今、竹谷さんが落とされたんですよ。大事なお手紙ですか?」
「ま、まぁ……。地元にいる幼馴染に卒業式の日にもらったもので。この赤のストールと一緒にくれたんです。えっと、その、ラブレターと言いますか」
未央は、マフラーに首を埋め、もじもじと指をこねる。
「……この告白、断ったんです。私も幼馴染が好きだったんですけど、その時にはもう大学で離れ離れになるのは決まってました。遠距離でうまくいかなくなるぐらいなら初めから一緒にならないほうがいい、ってそう思って。心変わりされるのが嫌で」
はじめに話を聞いた時の、彼女の姿が思い出された。
好きなんて時間が経てば分からなくなる。あの意味ありげな呟きには、こんな過去があったようだ。
「でも忘れられなくて、忘れたくて、そのまま一年経って。無理に彼氏を作ろうだなんてしてたから、バチが当たったのかもしれませんね」
手紙の封筒に書かれた文字を指の腹でなぞって、未央は笑顔を作る。とても、へたくそな出来だった。涙が滴りだして堪えきれていない。
「竹谷さん」
対称的に、一糸乱れぬ笑顔で恋時が呼びかける。
「決してバチあたりなどではありません。浮世というくらいです。人間の心は、いつの世もそうして揺らぐ。
でも、逆に無理を強いても変わらないものもあるのですよ。たとえばそう。その手紙の主が、今もあなたの幸せを願っているように」
特定の感情から生まれた妖は、その根源に込められた想いが変われば姿や目的を変える。ラブレターが送り手の心変わりによって呪いの文と化すのは、よくある話だ。
けれど文車妖妃は、一年前の手紙が根元にも関わらず、その最後まで彼女を守り心配し続けていた。
それはつまり、送り手のひたすらに純真な思いが、今も願われているからに他ならない。未央に幸せでいてほしい、という単純かつ純真な思いが。
彼女は縁結びを求めてやってきたけれど、実は赤い糸は、ずっと彼女に繋がっていたわけだ。
「私、目の前のことばっかり考えて、なんで今まで」
手紙を抱きしめて、未央はひとしきり泣く。
赤のマフラーに、粒の大きい水滴が絡んでいた。そんな彼女の姿が、結衣には少し羨ましかった。
誰かにここまで思ってもらえるというのは、特別なことだ。
「結衣さんのことは、俺が思ってますよ」
「……伯人くん、私の考えてることわかるの、もしかして。エスパーなの? というか、まだ会って二週間でしょ」
「いやいや、もっと前から知っていますよ、俺は」
……まぁ根付けが化けたのだから、頭ごなしに否定もできないか。
「それと、結衣さんが分かりやすいんです。思考が読めるわけじゃありませんから」
結衣は、少しムッとして切り返す。
「じゃあ、今なに考えてるか当ててみて」
「帰ってご飯の準備しなきゃ、でしょうか」
……しっかり当てられてしまった。
これも思ってくれているがゆえ、なのだろうか。
考えようによっては、妖に思ってもらえることは、より特別なことかもしれない。
結衣は、無残にも歯切れとなった恋時のトートバックを拾い上げる。
「そういえば、ごめんね、かばん。大事にしてたみたいだったのに」
「いいんですよ。結衣さんを守れたら、それで。捨てますよ。未練はありません」
言葉とは裏返し、力なさげに恋時は笑う。
いいんです、とはそんな顔で言うものではない。どうしたものかと顎に手を当てて、
「……ねぇこれ、もらってもいい?」
「それは構いませんが…………どうされるのです?」
「まぁまぁ節約のプロに任せてよっ」
一つ名案がぴんと、結衣の頭の中で立ち上がっていた。