『イイ加減、ハナレロ』
『あなたこそいい加減にこの娘から出ていきなさい。力が手に入れば、この娘でなくともよいのでしょ？』

『このムスメは上質なココロを持っているのだ。コレをササゲて、カレに会うのだ、ワタシは。ハナレるわけにはイカナイ！』

結衣たちをそっちのけにして、頭より高いところで二匹の化け妖はいがみ合う。

「……これだけ強大な化け妖に竹谷さんが乗っ取られてなかった理由って、化け妖がお互い抑えあってたからだったんだ……」

未央の心が刺激されたことにより、二体が保っていた均衡が崩れたのだろう。

違和感の正体はこれだった。かなりの大きさである。
やはり、恋心だけで封じ込められる代物ではなかったのだ。


「ねぇなんで対立しあってるんだろう。伯人くんはどう思う……って、あ。もしかしなくても、ダメ？」

どうも、そうみたい。
返事はなく、完全に魂が抜けているようだ。

結衣は、化け妖たちへ神楽鈴を構える。
事情はともかく、彼らの敵意がこちらに向けられていないのは、好機と捉えられた。


詳しい話は、妖に戻してから聴けばいい。

「……それにしても大きいな」

二体の化け妖は、既にない混ぜになっており、分離させるのは難しそうだった。

一体としてみれば、かつてないサイズである。
ゆうに、結衣の倍以上はある。けれど、お祓い師として尻込みはしていられない。


「大丈夫、私は八羽神社の宮司だから」

自分に暗示をかけ、神楽鈴を振りかざす。

波紋が広がるように、洒落な音が教室に響いた。

大幣が「縁を切り」、鈴の音が「清らかに鎮める」。

結界の内側はいわばプレハブだが、神社の本堂にいるがごとく、結衣は心を澄ます。そして、

「ひふみ　よいむなや　こともちろらね　しきる　ゆゐつわぬ　そをたはめくか」

今度はひふみ祝詞。

こちらは、穢れを浄化するための祝詞となる。

そこまでしてやっと、化け妖らは結衣の存在を認識したようだ。

『忌々しい、ムスメよ！　ヤメロ！　ワタシのチカラだ、ウバウな！！』

片方の頭のみが、裂けそうなほどに口を開けて、尖った牙の間から絶叫する。

その声は、ただの音波以上の超常的な力を有していた。結界の内側にあった椅子や長机は浮き上がり、こちらへ飛んでくる。

「きゃっ！」

間一髪で避けると、結界の外壁へ打ち付けられた。
ぐにゃりと歪む机を、横目に確認する。同時、電灯が不規則に点滅して消え、結衣は視界を失った。


思わず、少し怯んでしまった。

サイズも威力も、これまで対峙してきた化け妖とは桁が違った。
心から祝詞を発するが、このままでは押し負けかねない。

弱気が心に影を落とす。弱気は、そのまま心の隙を示していた。


ぞわりと鳥肌を起こした恐怖が、首筋を伝っていく。あご先が震えていたのには、後から気がついた。

単に恐ろしい。そう思ってしまっていた。

『フ、フ。お祓い師よ、キサマの心に乗り移るのもイイな』

しまったと結衣は短い息を飲む。

化け妖の黒い手がこちらへ伸びてくるのだが、なにかがそれを阻んだ。よくみれば、桃色の手提げだった。無残にも破けて、中の文房具が散らかる。

「大丈夫ですか、結衣さん」

恋時が投げ込んだようだった。

「あのかばん、お気に入りだったんじゃ……」
「問題ありません。結衣さんの無事より大切なものはありませんよ」

思いがけず、手を握られる。

「……伯人くん？　って、そういえば。怖くないの」
「えぇ、さすがに浴び続けていたので、どうにか通り越しました。明かりが消えて、姿が見えなくなったのもあるかもしれませんが」

「化け妖、かなり大きいんだよ。このままじゃ祓い切れないかも……」
「それならば大丈夫です。俺に任せてください」

そう言うと、恋時は、繋いだ手を掬い上げる。

唇を触れさせたと分かったのは、手の甲が彼の輪郭を撫でてからだった。

「えっ、伯人くん、なにを！！」
「すぐに分かりますよ。もうしばし、手を貸してください」

今度はしっかり指に力が込められる。
すると、味わったことのない感覚が結んだ手の中から生じた。

「なにこれ、指先が温い……。それに、なにか内側に流れてくる…………？」
『ナンダ、キサマは！　オマエもそのムスメに加担するか！』
「えぇ、もちろん。彼女こそ、うちの主人ですから」

暗闇に慣れてきた目に、恋時の笑顔が映る。

どんな場面でも変わらぬその表情に、張り詰め続けていた緊張の糸が緩む。

「結衣さん、どうぞお祓いの儀を。心配なさらないでください。ちょっと、俺の力を貸すだけですよ」
「う、うん！」

結衣は再び、ひふみ祝詞を唱え始めた。一方の手で、神楽鈴を振る。

さっきより、声の一音一音に篭る力が増しているのは、自分でも分かった。


それは心の有り様だけで片づけられる変化ではない。
清らかな気の流れが脈々と、恋時と繋いだ手から溢れてくるかのようだ。

結衣の体力も気力も、枯渇するには遠く、まだ十分に余した状態だった。

『キサマは、まさかカレの……！』

やがて、全ての色が重ねられたかのような漆黒の塊は、暗闇の中で収縮していく。

バチッという破裂音とともに、電灯に光が戻った。

しっぽまで含めれば、結衣の身長ほどはある猫であった。
その二股の細長い真っ白な尻尾が、いたずらに振り回される。


紙垂を結ばれた青竹がムチを打たれるように宙を飛んで、結界の一角が乱される。

あっ！　と声をあげるうちに、外へ逃げ出されてしまった。