五
結果から言えば、間に合わなかった。
ほんの紙一重の差だった。
結衣たちが飛び込んだときには、ちょうど未央と先輩、友達が対面しているところだった。
「……先輩、どうして」
未央の漏らした声が、すぐに花見の喧騒へと紛れていく。
虚ろに淀んだ目をしていた。
もしかすると呟いていることさえ、彼女の意識には、のぼっていないかもしれない。
「私に対してデートに誘ってくれたりしてたのは、なんだったんですか。いつから私たちに二股かけようとしてたんですか」
未央の友達は、本当に事情を知らなかったのだろう。
事態に理解が追いつかないようで、ただ呆然と突っ立っていた。
先輩はといえば、その子と握った手を離して、背中の後ろへ隠す。
「いやぁなんのことか分からないな。未央ちゃん、どうしたんだい?」
もう手のつけられないところまで来ていることにさえ、気付いていないようだ。
もしくは知った上で道化を演じているのかもしれない。
未央は前髪で目元を陰らせたまま、黙り込む。
桜の花びらが一枚散るのが異様に遅く思えた。長い時間をかけてから、
「……帰れ、帰れ、帰れ。か、え、れ」
「み、未央ちゃん?」
「帰れ……、お前なんてヨウブンにするのも願い下げなんだ。一度お前の身体には入ったが、腐りすぎて、あの人に捧げるには到底純度が足りない……。カエレ。サモナクバ」
化け妖が、その黒く濁った身体を未央の首元から覗かせる。
風船が破裂したかのごとく、妖気が一気に漏れ、未央の身体を包み込んだ。結衣はとっさに、先輩と未央の間へと割って入った。
恐れていたことが、起きようとしているのもかもしれなかった。
化け妖が姿を見せたのはいいが、およそ最悪の形だ。
このまま未央の身体が完全に乗っ取られてしまうにせよ、外へ出てくるにせよ、だ。
発せられる妖気からして、化け妖は既にかなりの力を溜め込んでいる。
そうなれば、被害は彼女のみに留まらない。
まして、花見のために、まるで呑気な人垣ができている。サークルの方々は、もうへべれけ状態だ。
「みなさん、すぐにここを離れ──」
結衣は避難勧告をせんとするのだが、途中で言葉を止めた。
未央が、コンクリートタイルへ膝から崩れ込んだのだ。
垂れ流されていた妖気も、なりを潜めている。
「落ち着いたの? それとも、なに?」
「…………結衣さん、まずは、ここではない場所へ移りましょう。どちらにしても、竹谷さんから化け妖は剥がれていません」
恋時は、やはり恐怖を拭い切れてはいないのか、ぎこちなくも彼女を自分の背中へと乗せる。
そこへ伸びてきた先輩の手を、結衣ははたき落としていた。
むやみに傷つけておいて、都合の良い時だけ心配など、お門違いも甚だしい。
「人の気持ちを弄ばないでください」
しっかり睨みをきかせて、目で動きを殺した。一瞬白けた花見会場を、そそくさと後にして走る。
「結衣さん。先にお祓いの準備をしていてもらってもいいですか?」
恋時は、未央の体重分だろう。
結衣に少し遅れをとっていた。
後方から、校舎の間を指差す。その先には、昼間に通りがかった築古の建物があった。
「あそこなら空き教室もありそうだね。えっと、じゃあ適当なところに入ってるね」
「えぇ。大丈夫です、適当で。俺、結衣さんの居場所ならどこにいても、分かりますから」
「こんな時に冗談はやめてよ!」
結衣は叫びつつ、暗い路地を縫って、先を急いだ。
息が上がるが、休んでいる暇はなかった。
建物に飛び込み、手頃な部屋を見つけたのは、やっと三階にある大部屋だった。
なるたけ余計なものがない空間が必要だった。
見つけにくいところになってしまったが、しょうがない。
結衣はピッチを上げて、お祓いへの準備を進める。必要なものは、全て携帯していた。まず神楽鈴や大幣といった道具類を、部屋の真ん中に据える。
次に、それを囲むように、小さな青竹にくくった白い紙垂を、四角形のうち三つの角へ配置した。
「……ほんと不思議だな、改めて思えば」
四つが揃うことにより、化け妖に対してのみ効果のある結界が、できあがるようになっているのだ。
本来のお祓いは、神社内の空間で実施するからこそ、効果がある。
この結界を作ることにより、その内側を一時的に神社と同じ、神聖な空間にすることができた。
「結衣さん、遅くなって申し訳ありません」
準備が整ったのとほぼ同時、恋時が部屋へ現れる。
「……ううん。むしろ早かったね?」
本当に、居場所を見抜く特殊能力があるのかもしれない。
疑問は浮かんだが、化け妖の放つ威圧感の前にすぐ立ち消えた。
恋時が、未央を教室の中心にある長机へ横たえる。
結衣は、最後の一角に紙垂を置いて、結界を閉じた。
気を失ったままの未央の背中からは、化け妖の姿が少し覗いていた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐(いざなぎ)の大神(おほかみ)──」
結衣は、大幣で触れつつ祓詞を唱えていく。
名前の通り、お祓いの効果がある言葉だ。大幣と合わさることで、化け妖を紙垂へと引きつけ、人から切り離す際に有効な手となるのだ。
「──清めたまえともうすことを、きこしめせと。かしこみ、かしこみ、もうす」
そして、読み終えたまさにその時だった。
彼女の背中に、太く歪んだ赤黒い線が走った。
どうやら、引きずり出すことはできたらしい。
さらに細い亀裂ができる。その内側から、地中でうねり続けたマグマのように、真っ黒なそれは噴き出した。
夢現の境が乱れ入り、有耶無耶となる。そんな瞬間だ。
さて化け妖とのご対面となったのだが、
「に、二体入ってたんだ」
「…………なるほど。それで妖力が大きかったわけですね」
形の違う頭が二つ、ただし渾然一体となった一つの胴体を共有していた。