一


あれはまだ八雲(やくも)結衣(ゆい)が、ほんの小さな時の話だ。


結衣は、暗く狭い部屋の中で、延々と泣いていた。

潤む目を膝の皿にこすりつけ、懸命に身を縮める。

なぜかと言えば、天井に悍ましい「なにか」が張り付いていたからだ。それは、ケケ、と不気味に笑って結衣を見下ろす。

恐怖が、身体を硬直させていた。助けて、と叫ぶどころか、悲鳴の一つあげられない。
それでなくとも、結衣には父の名前を呼べない理由もあった。

『そろそろ、美味しそうになってきたな。ケケ……』

天井に膨れあがった闇が、意地悪そうに舌舐めずりをする。

『お前に罪はないが、代わりに食ってやる』

梁が大きく軋む音がして、見上げてみると、鋭く長い爪のような影が天井からぶらさがっていた。

それは、結衣の顔をかすめると、ふすまを突き破る。

もう、結衣はその場に釘付けにされてしまった。震えて自由の効かない身体を、おぼつかない手で抱える。
もうだめだ、とそれしか考えられなかった。

なんで自分は見えてしまうのだろう、どうして私は、と涙が滲み出す。

それが畳に落ちた、まさにその時だった。ほんの一筋だけ、光が差した。それは次第に部屋全体から影をなくして、思わぬ明るさに、結衣は目を瞑る。

次にまぶたを開けたときには、「なにか」はその場から立ち去っていた。

「もう大丈夫だよ」

不安を全てないでくれるような、優しげな声だった。


思えば、あれは一体誰のものだったのだろう。そこからのことは、恐怖から放たれた安堵からか、よく覚えていない。