「波留くんってさ」
「うん?」
「パジャマ、それしか持ってないの?」
 土曜日の朝、彼が作ったピザトーストをかじりながら、私は訊ねる。
 波留くんは自分の着ている服を――左胸に『波留』と刺繍された大学時代の部活ジャージを広げ、不思議そうな顔をしてみせた。
「ああ」
「まじか」
「まじだ」
 なんというか、そこだけ猛烈にイメージ違いだ。
 空想上の波留樹は、ブランド物のスーツを着こなし私服もすべて高級百貨店で揃え、パジャマは海外製高級シルクを使用……みたいなイメージがあったのだけど。
「ドラム式洗濯機なら、三時間もあれば洗濯と乾燥が終わるだろ? 買い替えの時に古い服を全部まとめて捨てたんだ」
「で、部活ジャージが生き残ったと」
「これは思い出のものだからな。中原だって同じものを買ったじゃないか」
 確かに実家の押し入れには、まったく同じデザインで『中原』と刺繍されたジャージが眠っている。
 思い出のものをパジャマとして使いつぶすのはいかがなものかと思いつつ、私はピザトーストの残りをカフェオレで一気に押し流した。波留くんは今の私との会話なんてまるで意識していないみたいで、朝のニュースを眺めながら自分の分のピザトーストをかじっている。
「買わないの?」
「ん?」
「ちゃんとしたパジャマ」
「うーん、中原が買えというなら買うが」
「買えって言うか、寝づらくないのかなと思って。ジャージで寝転がるとファスナーがごつごつするでしょ」
 厚手の生地の真ん中を貫く銀色のファスナーを目で指す。
 波留くんは少し考えるようなそぶりを見せていたけど、ふと思いついたように顔を上げると、
「中原が選んでくれるなら」
 と言って、いたずらっぽくニヤリと笑った。


 波留くんと二人で買い物に行くのは、ここ最近では二度目になる。
 一度目はルームシェアが始まった当初、私の部屋に置く家具を買いに行った時だ。あの頃はもう、私は彼に対して申し訳なさが溢れかえっていて、まっすぐ目を見て話すことすらできていなかったように思う。
 あれからもう一か月。
 慣れちゃいけないと思いながらも、私はこの奇妙なルームシェアにすっかり馴染んでしまっていた。もちろん相変わらず包丁は持たせてもらえないけど、それはそれで生活の一部として受け入れつつある自分がいる。
 それもこれも、悪いのはみんな不動産会社……ということにしよう。だって、あの後も何度か物件を見学に行ったけど、どこもかしこもおかしな環境ばかりだったんだもの。
「波留くんはいつもどんなお店で服を買ってるの?」
「正直、全然記憶にない。人が選んだものをそのまま着たり、勧められたものを買ったりしてきたから、特にこだわりもない」
 うーん、似合う服を考えずに買えるのはスマートな美形の特権なのかな。
 電車に乗って大型ショッピングモールに着いた私たちは、散歩もかねてお店の中をぶらぶらと歩いてみた。こうして他の人と見比べてみると、やっぱり波留くんはよく目立つ。すらりと背の高いシルエットに、顔を見ればモデル顔負けの綺麗さ。道行く人が目で追いたくなる気持ちもわかる気がする。
「ねえ見て、あのマネキン」
「ん?」
「波留くんに似合うと思うんだけど」
 お店の入り口のマネキンが身にまとっているのは、シンプルだけど形の良いシャツに、使い勝手のよさそうなアンクルパンツ。
 波留くんは特に興味も関心もなさそうな顔でマネキンの方を一瞥してから、
「じゃあ買うか」
 とまっすぐその店へ足を進めた。
「ちょ、ちょっと待って。試着しないの?」
「あまりしないな。中原は毎回するのか?」
「私は絶対するよ。試着しないと本当に似合うかどうかわかんないし」
 そういうものか、とでも言いたそうな顔で、波留くんは小首をかしげている。
 マネキンの前でまごつく私たちを見かねたのか、優しい顔をした店員さんが波留くんを試着室へ案内してくれた。ほとんど勢いに流されるように試着室へ押し込まれた波留くんが、ときどき不安そうに私を振り返るのが正直少し面白かった。
「デートですか? 彼氏さんイケメンですね」
 店員さんは悪気のない顔で笑っている。
「えーと、彼氏っていうか……」
「あ、これから!」
「これからというか、その……」
 ただ買い物に来ているだけで、と言いかけた私を遮るように、シャッと試着室のカーテンが開いて波留くんが姿を現した。
 ほどよく鍛えた身体を覆うシャツ。長い足をさらに綺麗に見せるネイビーのパンツ。表のマネキンがそのまま歩いて出てきたみたいにぴったりで、思わず目が釘付けになる。
 ひらけた襟元から覗く鎖骨とか、ちらりと見える足首の男性らしい骨ばりとか、細かなパーツのひとつひとつが場違いみたいに色っぽい。
 ただのおしゃれな私服のはずなのに、見てはいけないものを見たような気持ちにさせられて、心臓がどきどき早鐘を打っているのがわかる。……なんだろう。なんか変だな、この気持ち。
「わあ! すごいお似合いですね!」
 店員さんの弾けるような声につられて顔を上げると、相変わらずちょっと困った顔で立ちすくむ波留くんと目が合った。軽く両手を広げてみて、でもその手をどうしたらいいのかわからなくなったみたいで、助けを求める子どもみたいにじっと私を見つめてくる。
「似合ってるよ」
 少し笑って私が言うと、波留くんはようやく表情を和らげ、
「よかった」
 と、安堵したように息を吐いた。
「じゃあ買うか」
「波留くんは気に入った?」
「動きやすいところはいいと思う。後は、中原がいいならそれで」
「服くらい自分の好きなものを着てほしいけどなあ」
 再び試着室へ戻ろうとしたら波留くんが、私の背後へ視線を向けるとぎょっと目を見張って足を止めた。思わず振り返ると、さっきの店員さんが両手いっぱいに服を抱えてキラキラ眩しく笑っている。
「お客様……次、こんなコーデはいかがですか!?」
 あまりにも圧の強い親切心に、私も波留くんも気圧されるまま頷くことしかできなかった。


 ひどい気疲れが両肩に重くのしかかっている。
 突如始まった波留樹試着ファッションショーは、他の店員さんや常連らしきお客さんまで巻き込んでたいへんな盛り上がりをみせた。「何を着せても似合う」「上下スウェットでもかっこいい」「逆にダサくするのが難しい」と彼女たちにとっての最大級の賛辞を浴びながら、波留くんは結局嫌な顔ひとつせず見事にモデルの役を果たしてみせた。
 でも、いつまでも彼を皆さんのおもちゃにされるわけにもいかず、結局最初のセットだけ買って、逃げるようにお店を離れたのが昼過ぎのこと。モール内のレストランで遅めのランチを食べ、コーヒーを飲んで少しぐったりしていたら、あっという間にもう夕方だ。
「普段使わない筋肉を酷使したな」
 当然だけど、波留くんは私の三倍疲れた顔をしている。
 目深にかぶっている黒いキャップは、今日のお買い物の戦利品だ。帽子屋さんで買ったのだけど、そこでもやっぱりファッションショーが始まりそうだったので、一番外側に並んでいたキャップだけ買って逃げたのだ。
「そういえばパジャマ買い忘れたね」
「完全に忘れてたな」
「パジャマ目当てでここまで来たのにね」
「俺は中原の服をもっと見たかった」
 夕陽に照らされた波留くんの横顔が、淡い橙に輝いている。
「また一緒に行きたい」
 こういう甘く優しい言葉を、今まで何度も注がれてきた。
 そしてそのたびに、私は困ったように笑って、またそんな冗談を言ってとスルーし続けてきたように思う。どうせからかっているのだろうと。あるいは馬鹿にしているのだろうと。
 でも。
「うん」
 ほんのちいさな私の声に、波留くんがわずかに顔を向ける。
「私も、また一緒に――」


「百合香」


 一瞬、時が止まった。
 視界が一気に真っ暗になる。
 忘れかけていた思い出の数々が、足元のさらに奥深くからずるずるとせりあがってくる。肌が粟立つ。息が止まる。頭がそれでいっぱいになる。
「彰良……」
 力なく顔を上げた私の、ほとんどかすれた声を聞いて、少し前まで恋人だった男はきまり悪そうに口角を上げた。
「よう。その、久しぶり」
「…………」
「ちょっと話したいことがあって。この駅をよく使ってると思ったから、待ってたんだ」
 へらへら笑って近づいてきた彰良から逃げるよう、無意識のうちに足が一歩後ずさりする。彰良もそれに気づいたようだけど、案の定気にせず無遠慮に近づいてきた。
「悪いけど、私は話すことなんてないから」
 この言葉でようやく足が止まる。
 ぎゅっと真ん中に寄った眉間が、彰良の不快を如実に物語っている。
「ちょっとだけでいいんだよ。すぐ終わる」
「じゃあここで言って」
「それはちょっと、そういう話じゃないし」
「どういう話なの」
「どうって、だから、あれだよ」
 ぼりぼりと乱雑に頭を掻いてから、彰良は恥ずかしそうに言った。
「仲直りしようと思って」
 ……うん?
 なんだって? 私の聞き間違い?
 今、彰良の口から信じられない言葉が聞こえたと思ったんだけど?
 理解の範疇を超えた台詞に私が呆然としていると、彰良はようやく私の隣に人がいることに気づいたようだ。
「それ、誰」
 なんて横柄な訊ね方をする彰良に、波留くんは無言のまま帽子のつばを軽く持ち上げる。
 げっ、と声こそ出なかったけど、彰良は明らかにそういう表情をした。いかにも嫌な奴に遭ったような、見たくないものを見てしまったような、そんな顔。
 そして波留くんは微塵も表情を変えないまま、ただ静かに彰良を見下ろしている。
「……悪いけど私、本当に話すことはないと思ってるから」
 私は波留くんの腕を掴むと、そのまままっすぐ彰良の横を通り過ぎた。おい、と呼び止める声がしたけど、奥歯をきつく食いしばって正面だけを睨みつける。
「諦めないからな」
 雑踏の合間を縫って、彰良の声が背中に聞こえた。無視してひたすら駅へと進む、私の両足が震えている。手もそうだ。こんなことで動揺なんてしたくないのに、身体ばかりがさっきから震えて止まらない。
 隠し切れない私の動揺は、腕を掴む指先を通じて波留くんにも伝わったのだろう。掴んだ腕が離れたと思うと、入れ替わりに私の手のひらが包み込むように握りしめられる。
「大丈夫」
 人ごみのひどい駅の中で、波留くんの声だけが直接囁かれたみたいにぽんと耳に飛び込んできた。
 思わず隣を見上げると、真剣な眼差しの波留くんと目が合った。それだけで、心に巣食う緊張の糸が少しだけ緩んだ気がした。


 でも、これが地獄の始まりだったなんて、この時の私には知る由もなかった。





 諦めないからな、と。
 追いかけてくる声を思い出す。それだけで胃酸がどっとあふれ出し、思わず吐き戻しそうになる。
 彰良の言葉は真実だった。あの日から彼は私の通勤時を狙って、駅の近くで待つようになったのだ。
 私としては完全に無視して通り過ぎるようにしているのだけど、百合香、百合香と猫なで声で追いかけまわされるのはやっぱり恥ずかしい。仕方がないので少し歩いて一駅遠くから乗るようにしたら、今度は会社のすぐ近くで待ち伏せをされるようになった。結局もっと早起きをして早朝に出勤するようにしたら、一日二日は遭わずに済んだけど、三日目にとうとう駅のホームで彰良に肩を掴まれてしまった。
(最低最悪)
 彰良は交番勤務の警察官。基本的に三交代制で、二日働いて一日休むスケジュールになっている。だから、夜勤の日だけは確実に安全なのだけど、平日休みの日は必ず朝晩待ち伏せされることになる。
(ようやく忘れかけてきたのに、なんでこのタイミングで)
 別れの記憶がフラッシュバックし、また胸が激しく痛み出す。口を開けても息が吸えない。喉が絞められたみたいに苦しい。
「大丈夫か」
 隣に座った波留くんが、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
 私は精一杯の笑顔を作り、力なく頷いてみせた。
「ごめん波留くん、こんなことに巻き込んで」
「いや、いいんだ」
 私の背中をさすりながら、波留くんは申し訳なさそうに眉を寄せる。
「むしろ、仕事の帰りに迎えに行ってやれなくて悪い。職場にテレワークも提案したんだが、なかなか許可が下りなくて」
「いいよそんな、気にしないで。これは私の問題だから」
 言いながら、私は心の中で今日何度目かのため息を吐いた。ひどいストレスで急激に老け込んだ気がする。
「まさか、現役警察官がストーカーになるとはな」
 もともと誠実な人間だとは思っていなかったけど、ここまで落ちぶれるとは想定外だ。いや、あの彰良が私に仲直りとか言い出すことが、そもそもの想定外なのだけど。
 波留くんは仕事用の鞄を持ってくると、そこから小さな青いお守りを取り出した。根元にくくられた小さな鈴が、チリンと可愛らしい音を鳴らす。
「ほら、これ」
「お守り?」
「ああ。昔、知り合いに貰ったんだ。縁切りで有名な神社のものらしい」
 よく見るとお守りの表面には、しっかりとした金色の糸で『悪縁切』と刺繍されていた。悪縁切! まさに、今の私に一番必要な言葉じゃないか。
 お守りを両手でうやうやしく包むと、神様パワーの重みを感じた。私は別に信心深い方じゃないけど、こういうときはやっぱり神頼みに限る。
「大事にさせていただきます」
「ああ。鞄にでもつけておいてくれ」
「そのようにさせていただきます、神様ぁ」
 自分の仕事用バッグの内側に、小さなお守りをくくりつける。これでばっちりとは言わないけど、それでも少し気持ちが楽になったのは事実だ。
「でも、こんなお守りを貰うなんて、波留くんも誰かと縁を切りたかったの?」
 それはふとした思い付きだったのだけど、波留くんはマグカップへ伸ばした手を止めると、目線はテレビのまま瞳だけを私の方へ向けた。
 一瞬、肌がぞわりとする。開けてはいけないものを開けてしまったような感覚。ただでさえ鋭い波留くんの瞳が、いっそうの冷たさと貫くような威圧感をもって、私をまっすぐに射抜いている。
 きっと本当は、見つめられた時間は1、2秒のことだったのだろう。でも、私には何十分もその目に射すくめられた気がした。
「……内緒」
 人差し指を唇に当て、波留くんはいたずらっぽく笑う。
 緊迫した空気が一気に緩む。それと同時に妙な色気にあてられた私は、ソファにずるずるへたり込むと両手で顔を覆い隠した。波留くんはにこにこ笑いながら、鞄を持って部屋へと戻る。バタンとドアが閉まるのを待ち、私は小さく息を吐いて天井を見上げた。
(なんだったんだろう、今の)
 今まで一度も見たことのない波留くんの顔だった。
 いや、でも、ほんの少しだけ既視感がある。私はどこかで、波留くんのあの冷たい眼差しを見たことがある。
 唸りながら考えてみたけど結局何も思い出せず、そうするうちに波留くんがリビングへ戻ってきて、私たち二人のお気に入りである可愛い猫の動画をつけた。
 それが明らかな話題逸らしなのはさすがの私でもすぐわかった。でも、わざわざ追及することはなく一緒に並んで動画を眺める。人には誰でも秘密にしたいことの一つや二つあるだろう。波留くんだってきっとそう。
 でも、おもちゃにじゃれつく猫を見ながら、考えるのはあの冷酷な瞳のことばかりだった。





 その日は彰良が夜勤の日だったから、私もいつもより楽な気持ちで過ごしていた。
 おじいちゃん社長に退勤の挨拶をして、鞄を持って会社を出る。ちょうど暮れ始めたばかりの太陽は梅雨入り目前の曇天に隠れ、雲の合間からわずかな光を差し込むだけに留まっている。
(そうだ。帰りにお茶屋さんへ寄って、ルイボスティーの茶葉を買ってこよう)
 あの日以来、家で仕事をこなす波留くんに私がルイボスティーを淹れるのが、二人の間のちょっとした定番になっていた。波留くんはカップを受け取るたびに、はちみつみたいに溶けそうな笑顔でいつもお礼を言ってくれる。その笑顔を見ているだけで、何か私にできることはないか、一生懸命考えている自分がいる。
 足取り軽く歩道を歩いていた私は、向かいから歩いてくる人影に足を止めた。人波の中から見え隠れする陰鬱な顔を、彰良と見間違えてしまったからだ。
(いや、彰良は今日は夜勤の日だから、こんなところにはいないはず……)
 騒ぐ心臓を落ち着かせながら、もう一度人影を確認する。パーカーのフードを目深にかぶり、両手をポケットに入れた男の人。逃げるように左へ避けると、軽く顔を持ち上げた男が私を見つけてニィと笑う。
「見つけた」
 全身から一気に血の気が引き、私は危うく鞄を取り落としそうになった。
 彰良はまっすぐに私を見つめたまま大股で距離を縮めてくる。私は慌てて背中を向けて、元来た道を小走りに引き返した。どうして彰良が。誰かと当番を代わったのかな。頭の中がぐちゃぐちゃに乱れ、走る足がもつれそうになる。
 すれ違う人が怪訝そうに私を見ている。誰か助けてと叫んでしまおうかと思ったけど、そんなことしたって遠巻きに見られるのが関の山だ。
「百合香、待てよっ」
 走って逃げるには会社は遠い。
 彰良はどんどん近づいてくる。
(もう無理、逃げきれない!)
 焦った私は歩道の途中で開けた道へと転がり込んだ。西洋のお屋敷みたいに整えられたお庭の奥に、ガラスの自動ドアのついた大きな白い建物が見える。
 何の施設かもわからなかったけど、もう考えている時間もなくて、私は無我夢中に走って建物の中に飛び込んだ。そのとき、


 ドンッ――


 ――天使にぶつかった、と。
 そう思ったのは、決して大袈裟な表現じゃない。
 色素の薄い白い肌、折れそうなほど華奢な身体、上下揃いの真っ白な服に、長い前髪の合間から見える()()()ような濃いまつげ。
 天使の彫刻がそのまま大人になったような姿に、私は自分の状況も忘れて一瞬で目を奪われてしまった。なんて綺麗な人だろう。透明感という言葉に人の形を与えたならば、きっとこんな姿になるはずだ。
「っと」
 よろけて柱に手をついたその人は、小さく唇を開いたまま重たげに頭を押さえた。私は息も絶え絶えのまま、慌てて彼の身体を支える。
「すみません、ぶつかってしまって! 大丈夫ですか?」
「僕は平気」
 すっと背筋を伸ばした天使は、私より背が高い男の子……いや、男の人だった。
 間近で見ると浮世離れした存在感に圧倒される。ただ見下ろされているだけなのに、心の隅まで全部見透かされているみたいで、ぞくっとする。
「あの、どうなさいました?」
 声をかけてくれたのは奥のカウンターにいる白衣を着た女の人だった。カウンターの上のパネルには『諏訪邉(すわべ)記念病院 受付』の文字。ここは病院だったんだ、と気づくと同時に、天使の着ている真っ白な服が入院患者用のガウンだと理解する。
「えっと、すみません、ちょっと……」
 ストーカー化した元彼に追いかけられていて、とも言えずまごついていると、突然隣から腰をぐいと抱き寄せられた。
「僕の見舞客だよ。珍しいでしょ」
「ああ、そうでしたか。ではこちらにお名前を」
「後で紙とペンを持ってきて。部屋で書くから」
「しかし……」
「しつこいな。僕は時間が惜しいんだけど」
 華奢な見た目から想像もつかないような強い力で引き寄せられ、抵抗する間もなくエレベーターへ押し込まれる。慌てて振り返ろうとすると、自動ドアの向こうで彰良がまだ歩道をうろうろしている姿が見えた。背筋に冷汗。きっと、私が出てくるのを待っているに違いない。
 なんだかよくわからないけど、少なくとも病院の中にいれば、彰良の目からは逃れることができそうだ。
「あの、すみません。助けてくださってありがとうございます」
 上っていくエレベーターの中で、彼へおずおずと声をかける。
 彼は私へ横目を向けると「別に」とそっけなく言った。
「道路に不審な男がいたようだけど、あれ知り合い?」
「そうなんです。ちょっと……追いかけられていて」
「それで逃げ込んできたわけか。ここがどんな場所なのかも知らずにね」
 露骨に嗤われてしまったけど、怒れるような立場でもない。
 乾いた愛想笑いでごまかしていると、やがてエレベーターは最上階で止まった。視界が開けた瞬間に見えたのは明らかに高級ホテルのロビーで、磨き上げられた窓ガラスの下には都会の街並みが広がっている。……ここ、本当に病院?
「こっち」
 スリッパでぺたぺた歩く彼を追いかけ、奥の部屋へと踏み込んだ。室内もやっぱり高級ホテルの一室みたいで、まず広さが病室のそれじゃない。L字ソファにローテーブル、大きな植木鉢の観葉植物、壁にはなんだかおしゃれな絵画と巨大な壁掛けテレビ付き。でも唯一、奥のベッドに備え付けられた大きく無骨なモニターだけが、ここが病室であることを如実に物語っている。
「名前は?」
 彼がリモコンを操作すると、部屋のカーテンが全自動で開きだした。部屋に差し込む柔らかな日差しの中を、ガウンの裾をはためかせながら彼が歩く。
 窓枠に腰かけ、ガラスに額をこつんと当てて、彼は相変わらずの探るような目つきで私を見た。嘘をついたら許さないよ、と、耳元で囁かれた気がした。
「中原百合香です」
「そう、百合香。ほら見て」
 促されるまま彼の隣に並んだ私は、広い窓ガラスの真下に広がる景色をこわごわと覗き込んだ。あまりの高さに「うわ」と声を漏らすと、彼は小さく肩を揺らして笑う。
「百合香の友達、まだあの辺りでうろついているよ。ここからなら蟻みたいに見える」
「あ、本当だ。どうしよう」
「別に、いなくなるまでここにいればいいさ。心配なら警備員を使って追い払ってあげる」
 警備員を使うだなんて、いったいどういう立場の人なんだろう?
 さっきの受付での態度といい、ただの患者さんというわけではなさそうだ。こんな豪華な病室に入院しているあたり、院長先生の関係者とか、そうでなければものすごいお金持ちとかだろうか。
「それはとてもありがたいんですけど、ご迷惑になりませんか?
 私の問いに、彼はもう一度「別に」と目を逸らすと、
「どうせ、僕の部屋なんて誰も来ないから」
 と、遠くを眺めて呟いた。
 音のない空間。街の喧騒は遥か階下で、行き交う人々の笑い声も、チラシ配りの元気な声も、この部屋までは届かない。
 どれだけ待とうと鳥の一羽も訪れることのない部屋で、彼はいったいどれだけの時を過ごしてきたというのだろう。見ず知らずの、用もないのに病院に駆け込んできた不審者である私を助けた、彼の気持ちが少しだけ垣間見えたような気がする。
 きっと、寂しいんだ。
「お名前、なんておっしゃるんですか?」
 わずかにまつげを持ち上げた彼が、怪訝そうに私へ目を向ける。
「嫌でなければ、私、また来たいです。今度は今日のお礼も兼ねて、ちゃんとしたお見舞いとして」
 彼は長々と私を見つめ、言葉の意味をじっくり考えていたようだけど、やがてふっと吐息を漏らすと、呆れたように呟いた。
(かつら)
 そして、本物の天使みたく微笑んだ。
「ありがとう、百合香」