「あの、バカ上司……!」
 樹くんのらしくない大声が響いたのは、土曜日の午前八時のこと。
 いつもより遅めの朝ご飯を終えて、さあお出かけの準備をしようと腰を上げた頃だった。
「どうしたの?」
「休日出勤のご命令だ。いきなり客が来ることになったから急いで支度して出勤しろだと」
 スマホを破壊しかねない勢いで握りしめ、樹くんはわなわなと震えている。確かにあまりにも唐突で、非常に迷惑なご命令だ。私も同じような連絡が来たら、きっと彼に負けないくらい怒り狂うことだろう。
「その分平日に代休もらえるし、諦めて行ってきなよ」
「でも、百合香」
「こっちのことは気にしなくていいから。ね?」
 そう言って私はコルクボードを指さす。白いリビングで一際目立つそれは、お互いの連絡事項や思い出の写真なんかを飾っておくために取りつけたものだ。
 そして今、ボードの一番上に留められている二枚のチケット。時間指定制の企画展もセットになった、有名美術館の前売り券だ。
 前回のデートを終えた夜、近場のホテルでひとしきり鬱憤を発散した樹くんは、正気を取り戻したみたいに何度も謝ってきた。次のデートはもっときちんとしたものにしたいと言われて、だったらエスコートをお願いしますと彼にプランを丸投げしたところ、翌々日くらいに渡されたのがこの二枚のチケットだ。
 正直私は芸術に疎い。絵のことも画家のこともまったく詳しくないのだけど、確かに二人で美術館なんてデートらしくていいかもしれない。せっかくだから新品のワンピースなんて買っちゃって、私なりに今日のデートを楽しみにしていたのだけど。
「英語使えるのが俺しかいないからって、いいように使いやがって……」
 ぶつくさ文句を言いながら、樹くんは大急ぎでスーツに着替える。バタバタと鞄を手に取り、ネクタイを雑に結びながら、あっという間にお仕事モードの樹くんが出来上がっていく。
 こんなこと本人には言えないけど、実は私は樹くんのスーツ姿が大好きだ。しゅっとしていて、理知的で、彼の魅力を最大限に引き出す格好のひとつだと思う。同じくらい好きなのが弓道着。もちろん、私服も好きだけどね。
「本当にごめん。必ず埋め合わせはするから」
「いいよ、大丈夫。気をつけていってらっしゃい」
 小さく手を振る私に申し訳なさそうな目を向け、樹くんは靴をつっかけると体当たりする勢いでドアを開けた。
「そのチケット、友達か誰かと使ってくれ!」
 私の返事も待たないうちに、足音が遠ざかっていく。駅まで走るのかな、真面目だなぁ。そういうところも、実はけっこう好きだったりする。
 本人に言うとその三倍くらい私のどこが好きかを語り始めるから普段は控えているのだけど、私、どうやら樹くんのことが結構どっぷり好きらしい。
(でも、どうしようかな、チケット)
 一人残されてしまった部屋で、コルクボードのチケットを手に取る。日付は間違いなく今日のもの。指定の時間は午後だからまだまだ余裕があるけれど、一体どうしたものだろう。
 美咲……は、私以上に芸術に興味がないタイプだ。それに既婚者をいきなり休日に呼び出すのは気が引ける。
 でも、他に突然お誘いできるようなお友達なんて、残念ながら私にはいない。当たり障りのない知人は多いけど、休日に突然美術館に誘うだなんて、結構深い仲じゃないとなかなか難しいだろう。
(本当にどうしよう。樹くんはああ言ってたけど、やっぱり一人で見に行こうかな)
 自分のコミュ力の低さにひどく情けない気持ちになる。
 そのとき、普段ほとんど鳴らない私のスマホが聞き慣れないメロディを流し始めた。急いでスマホをひっくり返し、これが電話の着信音だと気づく。
 発信元は……『桂さん』?
(珍しい。電話なんて一度もかけてきたことないのに)
 戸惑いながら電話に出る。「もしもし?」と声をかけると、なぜか三秒ほどの間を置いて、
『百合香?』
 と、桂さんの穏やかな声が聞こえてきた。
「百合香です」
『そう』
 ……自分からかけてきたのに、この適当さは何なのだろう?
 ちょっとおかしく思いながら、
「どうしたんですか」
 と続きを促す。
 桂さんは、今度は五秒近く黙った後、
『褒めてほしくて』
 と、なんてことないように呟いた。
「ほ、褒める?」
『そう』
「ええと、例えばどんなふうに……」
『別になんでも。頑張ったね、とか、偉いね、とか』
 それって完全に、親が子どもを褒めるときの言い回しではないだろうか。私が年上の桂さんにこの言葉を使うのはなかなか勇気が必要だ。
 でも桂さんの側から求めてきたとなると、もしかしたらご病気の関係でつらいことがあったのかもしれない。せっかく頼ってもらったのだから、力になりたい気持ちはある。私は気持ちを奮い立たせて、見えもしないガッツポーズまで作って言った。
「……が、頑張りましたね!」
『うん』
 電話の向こうで桂さんが小さくうなずくのがわかった。
『それじゃあ』
「えっ、用事これだけですか?」
『そうだけど……だって、お前、これから仕事でしょ?』
「いえ、今日は土曜日なのでお休みです」
『そうなの? ああ、土曜日か……』
 細く長いため息と、ベッドが甲高く軋む音。ぺたぺたというのはスリッパで歩いている音かな?
 窓辺に腰かけ、街を見下ろす桂さんの横顔が目に浮かぶ。
『ねえ。遊びに来てよ』
 いいこと思いついた、とでも言いたげに緩く弾んだ桂さんの声は、私に断られる可能性なんて微塵も考えていないように聞こえた。
『暇ならでいいよ。忙しいなら別に』
「特に忙しくは……でも、桂さんはいいんですか?」
『土曜なら平気。基本いつでも暇だから、来てもらえると嬉しいんだけど』
 コルクボードをちらと一瞥。企画展の予約時間は午後からだから、午前いっぱいは桂さんの病院へ出かけても十分間に合う。
 それに私も、せっかく買った可愛いワンピースの落としどころを探していたところだ。
「わかりました。じゃあ、お邪魔しますね」
 私の言葉に桂さんは小さく微笑むと、
『待ってるね』
 と乙女みたいに囁いた。





 桂さんのところへ行くときは、いつも必ずお花を――というわけではないけれど。
 この日も私はお花屋さんに寄って、安い花束を買うことにした。以前贈ったフラワーアレンジメントは、枯れるぎりぎりまであの窓辺で粘り、殺風景な病室をほのかに明るく彩ってくれた。桂さん自身もお花のことを気にかけてくれていたようで、枯れさせない方法はないかとしつこく訊ねられたほどだ。
 一度咲いたお花をそのままにするのは難しい。でも、新しいお花を渡すことで季節の移り変わりを教えてあげることならできる。
「あらあら。ちょっと輪ゴムが緩んじゃってるわ。()()()締めなおすから」
 いつもの花屋の店員さんから、シンプルだけど可愛らしい花束を受け取る。
 溢れかえる甘い香りを鼻先で堪能しながら、私はすっかり慣れた手つきで病室のドアをノックした。私の訪れを知っているからだろうか、前より穏やかな「どうぞ」の声で部屋へと足を踏み入れる。
「待ってたよ」
 ベッドに腰かけ、足を組んだ桂さんが、やわらかな春の日差しみたいに微笑んだ。
「どうしたの。可愛い格好をして」
「そ、そうですか?」
 ストレートな言葉にはにかみながら、おどけてスカートを広げて見せる。実はこれ、彼氏とのデート用に新調したんです……とは、さすがに言えないけど。
 桂さんは私を手招き、近づいた私のワンピースのスカートを指先でつまんで持ち上げる。ひらひらと揺れる柔らかな白い生地。こんなに優しい目で見つめられると、なんだかちょっと恥ずかしい。
「また花を? まめだね、お前は」
「夏になって、お花のラインナップも変わったみたいなんです。空いたペットボトルとかありますか?」
「あるけど、普通に花瓶を買ってこさせるよ。たぶんそのほうが長持ちするんでしょ」
 花束を受け取った桂さんは、鼻先をおおぶりの花にうずめて目を伏せる。それから思い出したように根元の輪ゴムを外し、百合の花だけを拾い上げた。
「またこれか」
 そういえば前に渡したフラワーアレンジメントにも、大きな百合の花が入っていたっけ。でも桂さんの表情を見た限り、どうやら喜んでいるわけではなさそうだ。
「百合、嫌いですか?」
「別に」
 指先で茎をくるくる弄びながら、桂さんは軽く眉根を寄せる。
「ただ、ちょっと昔を思い出しただけ」
 どんな思い出なのかと訊ねても、桂さんは微笑むばかりで答えない。私としても突っ込んで聞きたいわけではないので、深く追求するのはやめておいた。
 いつものように当たり障りのない雑談が始まる。雑談といっても、その大半は桂さんが私にあれこれ質問をしてくるばかり。気づけば私が一方的に喋り続け、桂さんはにこにこしながら聞いているだけの時もある。
(そろそろお昼時だろうし、美術館に向かう方がいいかな)
 時間を確認するためにハンドバッグからスマホを取り出す。そのとき、鞄に無造作に入れていた二枚のチケットがはらりと落ちた。
 あ、という間に桂さんの白い手がチケットをひょいと拾い上げる。彼は物珍しそうにチケットを眺め、びじゅつかん、と子どもみたいに緩慢に読み上げると、
「いい趣味だね」
 と皮肉でもなく呟いた。
「これから行くの?」
「そのつもりです。本当は二人で行く予定だったんですけど、その人がちょっと仕事が入って」
「じゃあ、一人で?」
「はい」
 ここでふと、入院中で自由に出かけられない人を前に、こんなものを見せるべきではなかったかなと反省した。気を悪くされただろうかと桂さんの顔色を伺うと、彼は思ったよりあっさりした、いつもと変わらない優しい顔でじっとチケットを眺めている。
「……ねえ、百合香」
 彼は目線をチケットへ落としたまま、独り言みたいにゆっくりと話し出した。
「僕は別に、四六時中入院が必要というわけではないんだ」
「えっ、そうなんですか」
「うん。腎臓が弱くて、週三回の人工透析と食事制限はあるのだけど、別に僕と同じ病気でも普通に生活している人は大勢いる」
 人工透析。確か、腎臓の代わりに機械を使って、血液をきれいにしてあげる処理のことだっけ? 私も詳しくは知らないけど、一度の処理に数時間かかるとかで、日々の生活が少し制限されると聞いたことがある。
 でも桂さんの言うとおり、透析をしながら生活する人はそんなに珍しくないはずだ。私の知人にも生まれつき腎臓が弱くて、日々の透析と折り合いをつけて活動している人がいる。
「だから、百合香さえよければ、僕が代わりに一緒に行ってもいいかな」
「……いいんですか?」
「うん。僕は疲れやすいから、お前に迷惑をかけてしまうかもしれないけど」
 どの道、払い戻しもできないまま捨てるしかなかったチケットだ。樹くんも友達と使ってくれと言っていたし、使うこと自体に問題はない。
 ただ、男の人と二人で出かけたと知ったなら、樹くんはたぶん強烈にやきもちを焼くだろうけど……仕方ない。今日は内緒にさせてもらおう。
 この病室に桂さんを一人で残して、出ていくなんてさすがに酷だ。
「それじゃあ、一緒に行きましょう」
 私が言うと、桂さんは微笑んでこくりと頷いた。





 疲れやすいという言葉のとおり、桂さんは歩くだけで息を切らした。駅のベンチに腰掛けながら、彼は悔しそうにため息をつき、
「みっともない」
 と苦虫を噛み潰したようにぼやく。
「こんなことなら車を呼びつければよかった」
「まだ時間まで余裕ありますし、ゆっくり行きましょう」
 少し歩いては木陰で休み、水は飲まずに呼吸を整える。桂さんは私がもってきた折り畳みの日傘をさしつつ、流れる汗を鬱陶しそうに小さなタオルで拭っている。
「格好悪い……」
 長い前髪を指先でかきあげ、低く言い捨てるその姿に、海風に吹かれた樹くんを思い出す。
 見た目は似ても似つかない二人だけど、ふとした折の仕草なんかが、妙に重なって見えるのが不思議だ。
 目的となる美術館は、最寄駅から20分ほど電車に揺られた先にある。駅を出て、空が見えた途端にぎらぎら主張する灼熱の夏の日光を、桂さんは忌々しそうに睨みつけていたけれど、やがて観念したように日傘を開くと、
「さっさと行こう」
 と私を顎で促した。



 美術館の中に入ると、空調の心地よさに一気に身体が楽になった。背中のシャツが張り付くほどの汗がさあっと引いていくのがわかる。桂さんも一息ついて、少し安心しているように見えた。
 有名な彫刻のレプリカらしい大きなオブジェが、広場のあちこちに展示されている。物珍しそうに辺りを見回す私の隣で、桂さんはスマホで時間を確認する。
「企画展まであと何分?」
「三十分くらいですね」
「なら、常設展を先に見ようか」
 まるで自分の家のように、すたすたと歩き出す桂さん。私はここへ来たのははじめてだから、必然的に桂さんの背中を追い回す形になる。
 大昔に教科書で見たような天使の絵。十字架にかけられたキリスト。風に吹かれる小麦の風景画。
 そのどれもが貴重で素晴らしいものだろうな、ということくらいはわかる。でもやっぱり私はどうも芸術がピンと来なくて「なんかすごいなあ」という以上の感想が出てこない。
(というか、むしろ……)
 傍らへちらと目を向ける。
 両手をポケットに突っ込み、軽く顎を持ち上げて、自分より少し高い位置にある絵を見つめる桂さんの横顔。
 見開くわけでも伏せるわけでもなく、適度に力の抜けた目元を、分厚く長いまつ毛の層が縁取る。綺麗な鼻筋。形の良い唇。神様がきっと丁寧に丁寧に作ったんだろうと、見惚れてしまうほどの美しさ。
(絵画より桂さんのほうが、ずっと神秘的で綺麗かもしれない)
 桂さんはさっきからずっと立ち止まったまま、ある絵画を吸い込まれるように見つめている。
 色鮮やかなラピスラズリ色のヴェールを被る聖母マリア。我が子キリストの運命をめぐり、悲しみに暮れるその姿は、神々しさの中に甘美な愁いを添えている。
 そして桂さんもまた、苦しいような悲しいような……あるいはどこか恍惚としたような、なんとも形容しがたい表情でじっとマリアを見つめていた。まるで、この世界に絵画と桂さんのふたりきりしかいないみたいで、私は声をかけることもできず黙って隣に寄り添い立つ。
 やがて桂さんは、ふっ、と小さく鼻で笑うと、くるりときびすを返して次の絵へと向かってしまった。私が慌てて追いかけると、彼は少し立ち止まり、私が隣に並ぶのを待って、今度はゆっくりと歩き出す。
「さっきの絵、気に入ったんですか?」
 私が訊ねると、桂さんはいつものように「別に」と言い捨ててから、
「だいたい聖母マリアなんて、実在したかもわからないのにね」
 と、皮肉っぽく付け加えた。


 常設展と企画展の双方を楽しんだ私たちは、近くのカフェに腰を下ろしてしばし足を休めていた。外はこんなにも暑いのに、桂さんは水をひとくち飲んだだけ。私がつい遠慮していると、
「お前はジュースでもケーキでも好きなのを頼みなよ」
 と、メニューを突き付けてくる。
 そういえば人工透析の人は食事制限があると言っていたっけ。そんな人を前にあれもこれも好き放題に頼むというのは、さすがに気が咎めてしまう。ああでも、このイチオシのメロンケーキは美味しそうだし、セットのカフェオレも捨てがたい……!
 しかめっ面でメニューを睨む私を呆れ顔で見つめ、桂さんは軽く手を上げて店員さんを呼びつける。まだ決めてない、と慌てる私からメニューを引き寄せ、彼はイチオシケーキセットのページを指で叩いた。
「とりあえずメロンケーキとカフェオレのセットで」
 元気に返事をして去っていく店員さんを眺めつつ、私は唖然と口を開く。
「どうしてわかったんですか?」
「目線」
「目線だけでわかるものなんですか?」
「お前はわかりやすいから。万が一外したとしても、そうしたら別のを頼めばいいだけだし」
 ……なんだかちょっと、スマートすぎて悔しいくらいだ。
「あと、今日の美術館、お前の趣味じゃないんでしょ? 見るからに退屈そうな顔してたよ」
「う……」
「たぶんお前は絵画よりパンダの方が好きなんだろうけど、貰ったチケットだから行かないわけにもいかなかったんだね。僕はパンダより絵画派だから、これでよかったんだけど」
 次々に言い当てられて、なんだか恥ずかしくなってしまう。おっしゃるとおり、私は絵画よりパンダです。
 天使のような桂さんの笑顔にズタボロにされているうちに、注文したカフェオレとケーキがテーブルへ運ばれてきた。いかにも豪華で見栄えの良い私側のテーブルに比べ、桂さんの前は依然として冷たいお水が置かれたまま。
「良かったら桂さんも、ひとくち食べませんか?」
 断られることを前提として、礼儀のつもりで一声かけると、案の定桂さんは微笑んだままかぶりを振った。
「果物はカリウムが多いから、僕は食べない」
「……じゃあ、今度は何か、別のものを一緒に食べましょう」
 人工透析の食事制限って、どんなものなら平気なのかな。家に帰ったら少し調べてみよう。……なんて考えながらフォークをさすと、
「僕の腎臓は」
 私の手元を見下ろしながら、桂さんは淡々と話し始めた。
「今後改善する見込みはない。人工透析はとりあえず日々を生きるための処置であって、腎臓の治療とはまったく別のものだからね」
「…………」
「でも、死ぬまで永遠に果物を食べられないわけじゃない。たった一つだけ、僕の身体を治す方法がある。それは、腎臓移植だ」
 腎臓移植。
 声に出さずに繰り返す私を見つめ、桂さんはうなずく。
「人間は腎臓を二つ持っている。そして、健康な腎臓が一つでも残っていれば、身体としては特に問題なく働くんだよ」
「そうなんですか……」
「でも、脳死された方から臓器を頂く臓器提供は数が少ない。そうすると手段は生体移植……生きている人間から腎臓をひとつもらう方になるのだけど、こちらは親族か配偶者でなければ行うことができないんだ」
 テーブルに両肘をついた桂さんが、組んだ両手に顎を載せ微笑む。
「ねえ百合香。僕、お前と二人でそのケーキを食べてみたい」
 フォークを持つ私の指先が、光の矢に刺し貫かれたみたいに動きを止める。


「僕と結婚して、お前の腎臓をひとつ譲ってくれる?」


 それは――
 たちの悪い冗談とか、ただ単にからかっているだけとか。
 正直どうとでも取れるような言葉だった。だって桂さんは、ほとんど感情を表に出さず、綺麗な顔に張り付いたような笑みを浮かべているだけだから。
 でもその瞳は、……弓なりに細められたガラス玉みたいにきらきらの瞳は、その奥底に真っ黒に濁った重たい泥濘を隠し持っているように見えた。もしかしたら桂さんの言葉は、泥の底から私に向かって、救いを求めて伸ばされた手だったのかもしれない。
「わ、わたし」
 ただ、このときの私はそこまでの判断ができなかった。黒い眼差しに見つめられて、身動きもできないまま、……ただ最低限の一言だけを、私は残酷なほど端的に言い放った。
「彼氏、います」
 桂さんの両目がふわっと見開かれ、形の良い唇がほんのわずかに開かれる。
「そう」
 彼はゆっくりと身体を起こすと、そのまま椅子に寄りかかる。
「そうか」
 そしてわずかにうつむき、長いまつげをそっと伏せたかと思うと、
「残念だ」
 ひどくかすれた、カフェの喧騒にかき消されてしまうほどの声で、そう言った。
 桂さんはそのまましばらく、事切れたみたいに動かなくなった。なんて声をかけるべきかわからず、私もまた黙り込んでしまう。
 やがて彼はチケットの半券をポケットから取り出した。それから私の方へ目をやり、ふいに空気が抜けたみたいに力なく笑みを漏らす。
「なら、このチケットはお前の男の趣味だろうね。そのワンピースも……」
「あの……」
「いいんだ。チケットの半券は男へ渡してやればいい。それと今度は、絵画じゃなくてパンダを見たいとねだるんだよ。そうでないと、今度はきっと別の美術館へ連れていかれるだろうからね」
 悪魔が通り過ぎたみたく会話が途切れ、私は仕方なく小さく切ったケーキを口へ運んだ。メロンも生クリームもどちらも大好きなはずなのに、なぜだかまったく味を感じられなかった。





 重い足取りで家に帰ると、ソファで樹くんが伸びていた。
 伸びていたというのは比喩じゃない。スーツのジャケットとベルトを放り出し、シャツをくしゃくしゃにしたまま、仰向けになって文字通りびろんと伸びている。片腕は目を覆い隠すように曲げて、どうやら居眠りでもしていたらしい。
「ただいま……?」
「おかえり」
 あ、起きてた。
 私は鞄を傍へ置いて、樹くんの近くに膝を突く。
「大丈夫? 仕事大変だった?」
「大変も何も、関係ない雑用まで全部押しつけてきて、……」
 緩やかに腕を除けた樹くんが、まばたきをして私の姿を凝視する。
 そしておもむろに身体を起こし、彼は私の腰を抱き寄せると、
「可愛い」
 と言って、スカートをふわと広げてみせた。
「このワンピース、もしかして新しく買ったのか?」
「う、うん。よくわかったね」
「こんな可愛い格好初めて見た。いや、百合香はいつも可愛いけど……」
 ぶつぶつと上司への怨嗟の声を漏らしながら、樹くんが私のお腹に顔をうずめてくる。くすぐったいし恥ずかしいけど、ちょっと可愛いなんて思うのだから、私も大概重症だ。
「美術館、どうだった?」
 その瞬間、桂さんの顔がフラッシュバックして喉から変な音が漏れた。
「ええと……面白かったよ。普段見慣れないものをたくさん見れて」
「そうか、ならよかった。誰と行ったんだ?」
「……友達。半券もらってきたけど、いる?」
「いや、いい」
 心臓がバクバクしているの、ばれていないだろうか。
 そんなに後ろめたいことがあったわけではないのだけど、やっぱり隠し事というのは心臓に悪い。まして、あんな……聞きようによっては告白とも捉えられかねないことを言われたばかりだ。
 腰へ回った樹くんの手が、私の身体を引き寄せる。そのまま膝をソファへ乗せて、樹くんの両足をまたぐ形で、彼の上へと座らせられる。
 下から見上げる樹くんの、挑発的な鋭い瞳。世界できっと私しか知らない、スイッチの入った彼の顔。
「このワンピース、次のデートで着てほしい」
 鼻先をこすり合わせながら、樹くんが甘くねだる。
 ざわめく心を見通されてしまうのが怖くなって、私は樹くんの頭をぎゅっと両手で抱きしめた。彼の髪に鼻をうずめて「いいよ」とくぐもった声で囁く。
 腕の中の樹くんが、小さく笑ったのがわかった。彼の長い指が背中に回る。わかりきっていたことみたいに、私は少しだけ背中をそらす。
 背中のチャックが下げられていく鈍い音を聞きながら、私は不安を振り切るみたいに樹くんの首筋にキスをした。