私の音楽のきっかけは何だったのだろう。
きっと『自分が救われたい』なんて欲深いものではなく、もっと純粋で綺麗なものだったと思う。

ー*ー*ー*ー*ー

「お母さん……お兄ちゃんとお父さんはいつ帰ってくるの?」

「咲夜が待っている限り、絶対帰ってきてくれるわ」

これが、私の記憶にある家族に関する最後の会話。

ー*ー*ー*ー*ー

 厳格な父と、病弱な母、成績優秀な兄。これが私の家族構成。
ひとまわり近く離れた兄は私のとってかけがえのない存在だった。これは消し去ってしまいたい数年前の記憶。

ー*ー*ー*ー*ー

 兄の定期テストが返却された日は、必ず罵声が宙を舞う。
放たれる言葉の意味すら理解できなかった私でも、兄の人格そのものを否定する言葉を聞くと胸が痛んだ。
兄と父が違う部屋に入ったことを確認した後、私は必ず兄の元へ行く。

「お兄ちゃん……」

「咲夜、怖がらせちゃってごめんね……こっちにおいで」

「お兄ちゃんは悪くないよ、だから謝らないで」

「……咲夜は優しいね」

 痩せ細った兄の腕に包まれる。
強がりな優しさをくれる兄の身体は酷く震えていた。このまま消えてしまうのではないかと思う程か細い声で『大丈夫だよ』と囁く兄の声が好きだった。
その夜は決まって眠る前に兄が唯一許されていたアコースティックギターを弾いてくれる。兄はどんなに苦しいことがあっても変わらない優しさをくれる、涙を呑んで笑顔をつくる兄をどうか守りたかった。
いつか兄を守れる日が来ればいいと願う度に、盾になるのは小さすぎる身体と頭の容量を恨んだ。

「お兄ちゃん」

「どうしたの咲夜?」

「私、お兄ちゃんとずっと一緒にいたい」

「僕も咲夜が大きくなる姿を隣で見ていたい」

「お兄ちゃんが辛い時は、私が元気にしてあげたい」

「咲夜は本当に優しくて素直な子だね」

 父の前では萎縮している兄が見せる晴れた表情が大好きだ。
完璧を取り繕うとする兄も素直に笑い、目を潤ませる幼さがある。きっと兄は早く大人になったフリをしなければいけなかっただけ。我儘に泣き、遊ぶ、その幼さを守りたかった。

 そう強く願った数週間後のある日、帰宅し玄関の扉を開けると普段なら帰っていない父の靴と横に見覚えのない革靴が二足並んでいた。
いつもと違う雰囲気を感じ、足音を立てないようにリビングに近づく。微かに話し声が聞こえた。透明な扉から見える人の中に兄の姿だけがなかった。

『高嶺君が屋上から……』

 兄の通う学校の教師と思われれる人物と、表情を変えない父とは対照に啜り泣く母の顔が目に映る。見てはいけないものを見て、知ってはいけないことを知った。衝動的に兄の通う学校へ向かって走った。
兄の足でも数十分かかる場所へ、時間も考えずに駆けた。校舎の裏側から見える砂利の敷かれた教師用駐車場には赤黒い水溜りができていた。
少し進んだ先には立ち入り禁止のテープが張られていて、そこから先の景色は青いビニールテープで塞がれていた。

「お兄ちゃんのこと、守れなかった」

 立ち尽くす私に女性警察官が声をかける。

「お嬢ちゃん、ここは関係者以外来ちゃダメなんだよ」

 冷たく制止する声に息が止まった。
その日、兄の『ただいま』を聴く事はなかった。帰って無意識のうちに兄の部屋に入る。目に映ったものは使い古されて四隅の破れたノート、それを自部屋へ持ち出し開く。
そこに綴られていたのは二年前からの兄の本音だった。
 些細な日常がそこには鮮明に書き記されていた。入学式のこと、初めて友達ができた日のこと、私にアコースティックギターを弾く夜のこと、その全てが繊細な兄が生きている証だった。
父への想い、母への願い、私への愛情。兄は心から私たち家族を愛していた。
そしてそれと同じくらい音楽を愛していた。

『今耐えている苦行の先に、好きなことで食べていける未来がありますように』

 『好きなこと』その言葉が指すものは、兄が数年前まで続けていた作曲。
『学業に支障をきたす』と取り上げられたコンピューターに音と声を打ち込んでいく、丁寧に繊細に想いを込めていく兄の姿が好きだった。あの時間は本当に兄を守っていた時間、音楽は兄にとっての救いそのものだった。
ページをめくっていくと、封筒が膝の上に落ちた。宛先は『高嶺咲夜』私。

ー*ー*ー*ー*ー

『高嶺 咲夜へ』
 きっと驚いて僕の部屋に来たんじゃないかな、そして僕の机のノートを手に取って全てのページを見てここに辿り着いたんでしょう?
咲夜は本が好きだからね、すぐに読めたんじゃないかな。
僕の本当の気持ちを伝えるのは後にも先にも咲夜だけだと思う。
 まず、咲夜の居場所を身勝手に奪って本当にごめんね。眠るのが怖い夜の、嫌なことがあった日の拠り所を奪ってごめんね、謝らないといけないことが多いけど、それ以上に伝えたいことで溢れているから最期に全部書き遺していくね。
 ひとつ、咲夜にギターを聴いてもらう時間が僕は大好きだったよ。
もう二度と弾いてあげることはできないけれど、今でも変わらず大好きだよ。咲夜の表情が緩んでいくと同時にゆっくりと左右にリズムを感じる咲夜が可愛くて、見ているだけで幸せになれた。
昨日まで一緒にいられたのも、きっと咲夜のおかげだね。
 ふたつ、これはお父さんとお母さんのことについて。
咲夜も心配していたけれど、お母さんは今すごく頑張ってるんだ。病気が悪化して大変な中しっかり生きようとしてる。だから『もう頑張れない』って言われた時には、咲夜のできる最大限の笑顔でお母さんを励ましてあげてほしい。
お母さんは必ず大丈夫になるから、信じて待つこと。約束。
 お父さんは陰で苦しんでいることが多いと思う。お母さんを一番近くで支えているのはお父さんで、僕達を育ててくれているのもお父さんの力が大きい。
怒ってばかりの厳しい人に見えるかもしれないけど、すごく優しくて家族想いな素敵な人だから。
どうか離れずに隣にいてあげてね、そして三人で幸せに暮らしてほしい。
いつ僕が見ても、笑顔の絶えない三人でいてほしいんだ。
 最期に、何があってもお兄ちゃんのいるところに来ちゃダメだよ、これは約束。
僕は寂しくないから、お空で幸せに暮らすね。
咲夜は頼りたい人に頼って、その分誰かを支える人になってほしい。
咲夜なら大丈夫。
きっと間違った選択をした時は、その選択を実行する前に踏みとどまらせてくれる人に出逢うから。
脆くていい、強く優しく、咲夜らしく生きていてほしい。
 本当に本当にありがとう。
咲夜のこと、ずっとずっと愛してる。

高嶺 藍斗 より

ー*ー*ー*ー*ー

 兄からの手紙の字は酷く震えていて、ところどころ何かで滲んだ跡があった。
そして『寂しくなったら戻って来れるように』と羅列されて英数字の文字列が記されたメモ紙が同封されていた。検索することもできないまま封をした。

 兄への私の記憶はここで途切れている。
そこから数週間後、父は姿を消し消息を絶った。母の病状は日に日に悪化し、大学病院に引き取られ兄の手紙から二年後の冬、兄と同じ世界へ飛び立った。
『咲夜のこと、ずっとずっと愛してる』
兄と同じ最期の言葉を遺し、息を引き取った。
我儘な私は独りであることを嘆き、兄との約束を破ろうとした。

ー*ー*ー*ー*ー

「……さん?」

「えっ……?」

「高嶺さん……ぼーっ一点を見つめて大丈夫?」

「あ……ちょっと色々思い出して」

 蓋をしていた記憶が蘇った。
いつからか兄の選択を恨んでいた私自身への惨めさが募った。
思い出した、私が『無音』に出逢ったきっかけ。兄の意思を継ぐため、そして家族の愛した音をもう一度甦らせるため。
そして兄の書き遺した『間違った選択を踏みとどまらせてくれる人は』

「早瀬君」

 君だったんだね。やっと出逢えた、ありがとうお兄ちゃん。

「私が『無音』に出逢ったきっかけ聴いてくれるかな、そしてまた私の音を愛してくれるかな」

 柔らかく頷く姿がどこか兄と重なる。
もう一度誰かに愛されながら私を生かすこと、それが兄への最大の恩返し。そしてその音で彼と生きる。ここからの私は惰性で息などしない、もっと『高嶺 咲夜』を『無音』を生きていく。