三
 

家についたのは、六時過ぎだった。

近所から炊事の匂いが漂う玄関扉の前、私は深呼吸をする。あまり鬱鬱していて、お母さんに余計な気を遣われたら困る。心配をかけたくない、とも言うかもしれない。

鍵を開ける。すぐ目の前にある階段で、二階の自室へ引っ込んでしまいたい気持ちになったけれど、ぐっとこらえてリビングへ向かった。挨拶くらいはしなくてはいけない。

お母さんはちょうどキッチンで調理の最中だった。ただいま、声を掛けるとまな板の小気味好い音が止む。

「おかえり。遅かったね」
「そうかな、まだ外明るいよ」
「昨日もだけど、いつもより一時間くらい遅い。お母さん毎日家にいるから分かるの」

私がなにも答えないでいると、また包丁の音が聞こえだした。今度は手を止めないまま、

「なにかあったの~?」

「なんにもないよ」
「もしかして彼氏とか」
「違うよ。……友達と自習してたの、図書室で」

自分でも驚くくらい、簡単に嘘が出てきた。

「めでたいことが重なるなと思ったのに。でも、一果は本当偉い」

彼氏ができたことは伝えていない。お母さんに言ったら、たぶん面倒なことになる。応援してくれるのだろうけど、過剰になるだろうなと思った。家に呼んで一緒にご飯食べよう、とか言い出しそう。

両親はともに結構な過保護だ。それが当たり前だと思っていたのだけど、周りと関わるようになって、最近そのずれに気づいた。

門限は、九時。かなり早い。
花火大会の日は少し時間を過ぎてしまって、口酸っぱく怒られた。

これでも譲歩してもらった方で、中学生までは七時だった。部活どころかうっかり補修にでも掛かったら、超えてしまう。

「偉い一果にはとっておきのご飯用意しないとね」
「今日なにかあったっけ」

それくらい、作業台の上は食材がたくさん並べられていた。

「明日は特別な日でしょ? 今日のは前夜祭メニューよ。一果の好きなハンバーグもあるし、春巻きもある」

あまり食べあわせるものじゃないと思うのだけど。
油分も多い。とはいえ、用意してもらっておいて無碍にもできない。

「ありがとう。できたら呼んで。宿題、まだ残ってるの」

言い残して、リビングを後にした。

洗面所に寄ってから、二階に上る。その突き当たりが私の部屋。部屋着に着替える。ベッドに腰掛けて、そのまま水玉のシーツに向けて倒れこんだ。

しんとする。少し前までなら、隣の部屋からお姉ちゃんが下手なギターを鳴らす音がしたのだけど今はしない。

この夏から一年間オーストラリアに留学へ行っている。普段は煩わしいと思っていたが、なければないで、なんとなくもの寂しい気になる。

息を吸って吐いて、起き上がる。それから机に向かった。

宿題があるのは本当だ。体育の見学者レポートもある。弄んでしまわないよう、携帯をベッドの上に置いた。茉莉ちゃんは、絶対やっていないだろうなと思った。

「なに書けばいいのかなぁ……」

たっぷりA4一枚のレポートは、三十分かけても半分を埋めるのがやっとだった。ペンを握ったまま頭を悩ます。集中はとうに切れていた。棚に入れてある小説の背表紙を眺め出したところで、折良くスマホに通知があった。

つい机を立って手に取る。そして、そのままベッドに仰向けになった。えぇ、一人で天井に声が漏れる。

『もし明日暇だったらどこか遊びに行かない?』

今宮くんからのメッセージだった。

それも、正式には初となるデートのお誘いときた。続きの文は見えなかった。既読をつけないまま内容を見ようとするのだけど、あえなく失敗する。
見ていなかった、という言い訳は早々に断たれてしまった。

私は予定帳を開く。

本当はそうするまでもなく、印が付いているだけ、なにもないことは知っていた。

胸が高鳴る。薄いマットレスは一緒に揺れている気さえした。二人きり、待ち望んでいた状況だ。けれどいざ向こうから訪れると、身構えてしまうもの。天井に向かって文をフリックしては消すを繰り返す。無駄なアプリを開いて閉じて、やっぱり予定帳を見て。

久々にツイッターにログインして、どうしようと呟いた。茉莉ちゃんに相談のメッセージを打ったところで、スマホを閉じる。すぐの返事はなかった。

お母さんが一階から「ご飯」と私を呼ぶ。
食事中にスマホを見るのは栗原家のご法度。しかも今日は前夜祭らしいから、時間がかかりそうだ。返信がないことで、断られたと思われるのも困る。

どうせ予定は空いている。願ってもないチャンスといえばチャンス。そう自分を納得させ、大きく深呼吸をした。
吸い戻して、

『うん、いいよ。行こう』

スタンプ一つを添える。返事を見るのが楽しみなようで怖かった。スマホを毛布の下に隠して、私は一階へ降りた。つい早足になっていた。

「お母さん、私明日出かけるね。夜までには帰るから」

開口一番、宣言する。今宮くんとなら、万が一もないだろう。

「あぁそうなの。お友達と?」
「うん、……そんなとこ。ちょっとお買い物」

そういえば、まだなにをするかも聞いてなかったな。

「お買い物、一果がなにもないなら一緒に行こうと思ってた。でも、ついに一果もそんな歳頃か~、感慨深いなぁ。じゃあそうだ、もうあげないとね」

お母さんがなにやら戸棚を探りはじめる。どっさり、紙袋を引っ張り出してきた。全てタグつき新品の衣類だった。

「はい、一果にあげる。あとで部屋に持って上がって見てみて」
「こんなにいいの」
「お姉ちゃん一年海外でしょ? でも、ついいつもの感じで買っちゃったから」

こんなところも過保護だ。お姉ちゃんがいない分、余している気さえする。ついでにいうなら、似たような類のばかり買ってくるから、服も余っている。そろそろメルカリか断捨離かが必要かもしれない。

けれど、今日に限っては場合が別だ。もし明日使えるのなら。

「ね、お母さん。どれとどれがセットとかあるの?」
「一果が服のこと聞くなんて珍しいね。それになんか嬉しそうだし。本当はデートなんでしょ、違う?」
「違う。えっと、友達が結構おしゃれで」

勘ぐられてはたまらない。強く首を振った。