「それ、青木が言うの。今まで何人付き合ったんだよ」
「彼氏はいたことあるけど、恋人とは別じゃん」
憂いを持ったように少し微笑む。その表情からはなにも読み取れなかった。ただ、言い分は理解できた。青木も、俺と同じように失敗をしてきたのかもしれない。
「昨日、一果に会えた?」
「この流れで聞くのは反則だろ」
青木は素知らぬ顔で、窓の方から腰を返す。そのまま近くの机に両腕をついて、浅くもたれた。
「そう言われても思い出しちゃったし。で?」
「会ったよ。話もした。青木の差し金?」
「言い方が悪い。まぁでも、ならよかった。あの子は、本当素直だよね。全部私に相談していったよ、今宮に話すこと」
なにも言えなかった。
こみ上げる恥ずかしさで、わざとグラウンドへ目を戻す。いつのまにか、件の二人はいなくなっていた。手当にでも向かったのだろうか。
「ねぇ一果さ、まだ今宮のこと好きなんじゃない」
「なに言ってんだよ」
俺は動揺して、つい彼女の方を振り見る。
「普通にそう思っただけ。違っても恨みっこなしね」
むしろ、普通に考えればありえない。振られたばかりだ。
「今宮は素直な子の方が好きでしょ」
「なにを言わせたいんだ。誘導尋問っていうの、そういうの」
「ばれたか~。じゃあ聞き方変える。素直なのと、裏のあるのどっちがいい?」
今度は、青木が外を向く。どこに焦点があるわけでもなく、意識が空に浮いているようだった。
「黙ってないで答えてよ」
山の秋めいた香りを運んで風が吹く。青木はカールした毛先が流されるのを、ほっそりした指で抑えた。
ただ囃し立てたいだけではないらしい。口車には乗せられまい、と思っていたけれど、降参だ。答えなければならないなら。
「素直な方、かな」
そう、と青木の薄くリップの塗られた唇が、たっぷり煌めきを滴らせて緩んだ。
なにに納得したのか、何度か首を縦に振る。やはり綺麗だった。けれど絵なんかではない、意地悪な息がたっぷり吹き込まれている。それが青木茉莉だ。
「ところで三下さん。練習は? あたしと油売ってていいの」
「台詞一つだしな。昨日で懲りたよ。もう大丈夫」
「練習でできなかったら、本番じゃ無理だって誰か言ってたよ」
「随分アバウトな記憶だな」
「屁理屈言ってないで行ってこい」
背中が両腕で押される。思いのほか、強い力だった。ちょっとよろめいて、やっと重心を取り戻す。
「じゃあね、ばいばい」
「青木、帰るつもりじゃないよな。まだそんな時間じゃないよ」
「えー、どうしようかな」
「青木が行かないなら、俺も行かない」
「あーもう。先行ってて、ってだけだよ。大げさだな」
彼女は文句を垂れて、自席に戻っていく。化粧ポーチを取り出して、手鏡を角度を変えて覗き出した。ひとまず、前みたく逃げ出す心配はなさそうだった。
俺は衣装袋の持ち手に指を引っ掛けて、攫うように取る。まだ青木は化粧ポーチをひっくり返していた。中は、いるものもそうでないのも、ないまぜになっているのだろう。青木らしい。
気がかりが、完全に解消されたわけではなかった。とはいえ、考えてみれば練習に行かないわけにもいかない。二の足を踏みながらも、扉の前まで行く。
「あ、そうだ。ねぇこっち向いて」
すんでで、呼び止められた。
「なに。行く気にでもなったか」
「ううん、まだいるつもり。ちょっと一人にさせてよ」
「ならなに。話す気にでもなったかー」
「ならないよ。でも、そこまで気にしてくれるんだ?」
なにを当然のことを。
言葉になる前、目の前から何かが回転しながら飛んできて、思わず目を瞑る。顔の前でやみくもに握った右手に、それは偶然にも収まっていた。
「もう十分、あたしは救われたよ。あの時、今宮が来てくれたからそれで足りてる」
「これは?」
「お礼。いらないなら捨ててもいいよ」
「チョコレートかと思った」
「それは別。劇終わったらね。とびきり甘いのがあるから期待してて」
プルトップだった。なにかで擦れたのか、少し傷が入っている。
意図はわからない。けれど貰った手前だ。捨てるわけにもいかず、俺はとりあえず財布にしまう。
「じゃあね、ばいばい」
彼女からの二度目のさよならごと、ポケットに入れた。