四


練習は、別棟の準備室で行われていた。ただ衣装を自分の机に掛けっぱなしにしていたから、教室へ取りに戻る。

二年の教室階は、水を打ったように静かだった。スリッパの音が天井によく響いて、舞う埃の一つが目に映る。

いつもの休み時間なら溢れかえっている生徒たちは、ほとんど全員どこかへ出払っているようだ。別の場所にいるような違和感に囚われつつ、教室までを歩く。

誰もいないと思っていた。けれど戸を引くと、目が合った。

「お、今宮。今日も所帯じみた顔してるね」

青木茉莉と。

一人、佇んでいた。スクールチェアに折った右足の上、左足を組む。
身体を背もたれに沈むまで預けて、机の上には台本を立てる。

その姿勢は、お世辞にも褒められたものではなかった。それなのに、静寂も、溢れる陽の光も相まって、どこか絵に描いたような美しさがあった。

「俺は高校生だよ。祭りを楽しむくらいには若い」
「それ暗に私が老けてるって言いたいの」

「そうじゃないけど、なにしてたんだよ。連絡したのに返事もないし。てっきり栗原さんといると思ってた」
「さっきまでいたよ、練習付き合ってた。でも流し練習始まったら、私いらないじゃん?」

俺は青木の前、自分の席まで行く。横に掛けてあった衣装袋を確認だけして、椅子を斜め後ろに引いて座った。
すぐに別棟へ行くつもりだったけれど、気が変わった。

「ねぇお土産は」

ふてぶてしい態度のまま、青木はその大きな目を半円にして、いたずらっぽく手を差し出す。

「そう言われるの見越して買ってきたよ。チュロスでいい?」
「へぇ分かってるじゃん、ありがと。あとでチョコあげる」

青木は、甘いものに目がない。袋ごとチュロスを机の上に置いてやると、すぐに取り出して封を切る。
両の瞳には、光の粒が潤んでいた。

「じっと見られても困る」

青木が上目遣いに俺を伺う。それでも視線を離せなかった。頭には、数日前そこに滲んでいた涙がカットバックしていた。

その日の帰りがけ、約束した昇降口に青木は待てども現れなかった。教室前まで戻ってもいない。連絡もつかない。青木は、日中どこか心を抜かれたようにぼうっとして覚束ない様子に映っていた。

少し嫌な予感がして、栗原さんを置いて校門を抜けて走る。ちょうど青木がバスに乗りこむのが見えて、行き先も確認しないまま飛び乗った。青木は、全く俺に気づかなかった。一人険しい顔で、スマホを握りしめていた。その異様な雰囲気に声を掛けられないまま、バスを降りる。それでも気になって、ふらふらと歩く青木の後ろをつけていくと、離れの小さな公園に着いた。

涙の理由は聞かなかった。聞けなかった、のかもしれない。横に座ってお互いを見もせずその場にいた。帰ろうと言い出すまで、一言も交わさなかった。

学校に来ないかと思った翌週、青木はなにもなかったようにやってきた。
いつも通り、チャイムが鳴るのと同時に。

「考えてることなんて大体わかるよ。先回りするけど、あたしはもう大丈夫だから。話すこともない。人の心配するなら自分の心配してな」
「ごあいにくさま。健全だよ、俺は」

「そう? なんか最近、おかしかったじゃん」
「それ、山田にも言われた」
「結構分かりやすいよ、今宮は。隠せてるつもりかもしれないけど」

青木は目を伏せて、残り一欠片になっていたチュロスを口に入れる。

その時、外から悲鳴のような声がした。俺がつい立ち上がって窓の方を振り見ると、野次馬か、とちくりと刺される。その割に覗きにいくと、青木も後を追ってきた。

「テントが傾いたみたい。人集まってきてるな、先生もいる」
「油使ってたら大惨事かもね。あれなんのお店だろ」

目を凝らすが、人だかりに紛れてしまって、遠目では伺えない。予想しあいつつ眺めているうちに、テントは無事に立て直った。流行りのタピオカドリンクを売っていた店のようで、大ごとにはならなかったみたいだ。

「あ。あの子、ちょっと怪我したのかな」

その横手、店外れの木陰を青木は指差す。一人の女子生徒が、腕を抱えてうずくまっていた。

「ほんとだ」
「お人好しの今宮なら助けに行くかな~って思ったけど、どう?」
「知らない上級生が急に来ても戸惑うだろ。それに、横にずっと男子がついてる」
「たしかに、あの男の子全然離れないね。女の子のこと、好きなんじゃない」

怪我をした本人より男子生徒の方に焦燥感が感じられた。周りはもう誰も気にしていないのに、一人あたふたと八方を右往左往している。

「好きってなんだろうね」

脈絡もなく、青木がふいと呟いた。