十一時、帰ると家には誰もいなかった。
「ただいま」
一応言ってみるが、静まり返るだけ。
玄関の電気をつけると、脱ぎ散らかされた下着やら靴下やらがあらわになった。
母が外出前に荒らしていったようだった、もう呆れもしない。どうせ明日には物干しにかけていなければならないのだ、まとめて洗濯にかけるつもりで抱えて洗面所へと向かう。
まず、発酵したようなつんとした匂いが鼻をついた。皺になった服がかごに、洗濯機に積み放題になっていた。一部に至っては、床で小山を作っている。部屋に溜め込んでいたのだろうか、いずれにしても酷いありさまだった。私は靴下を脱いで、それに重ねる。途端に面倒になったあたり、私も立派に母の血を継いでいる。
母は、昼夜交代制の飲食店勤務だ。夜は人手が常に足りないようで、夜勤の回数は月の半分を数える。家にいない、会わないのは当たり前で、一月以上顔を合わせなかったこともある。
家事のうち、洗濯と掃除は基本的に私の担当だ。養ってもらっている以上、文句は言えない。
だが、こうして家を荒れ放題にする日は仕事ではなくプライベートの夜遊びだと私は知っている。一度目の当たりにした時は、見違えるほど化粧や服装に気合が入っていた。
リビングは静かで、鉄がすれるような耳鳴りがした。まずテレビをつける。内容は問わないけれど、バラエティ番組のような賑やかなものが最も紛れる。正面に据えたガラス机の前、ダイニングチェアに足を組んで座った。興味を惹かれるわけではなかったが、ぼさっとして見る。つと口寂しくなって、軽い空腹感に気づいた。
冷蔵庫へ立つが、めぼしいものはない、せいぜい酒のつまみぐらい。
時間的に気の引けはあったが、カップ麺に手が伸びた。うちでは滅多に調理はしない。インスタントか冷凍、惣菜弁当の三択だ。
母子家庭では、よくある話だろう。
両親は、私が小学生の頃に離婚している。父の不倫が理由だとは数年後に知った話だ。
若い頃から浮気ぐせがあって一向に治らないことに、母が堪忍袋の緒を切らしたのだと言う。その母もホスト通いをしていたらしい、とは近所の噂話で耳にした。
つまり、はなから破綻していたのだ。私という子どもの存在が、それを表沙汰にするのを遅らせただけ。
父親とは、以来会っていない。けれど不思議と悪い印象はなくて、笑っている画だけが頭に残っている。愛があったなら、憎しみに変わっているだろうから、それはつまり、その頃から既にどうでもよかったのだ。
道端ですれ違った人を、人が良さそうだなと思うのと大差ない。
父からは私が高校生になる頃、一度連絡を寄越したことがあった。
入学祝いに、と同時に届いた手紙と洋服は、そのものが憎いかのように母が見もせず捨てていた。もったいないと、着回しができそうなパーカーだけ抜いておいた。
カップ麺は、はずれだった。
定番のものは飽きたからと、奇をてらったものを選んだのが悪かったらしい。こんなことなら、ファミレスで少しだけでも腹に入れておけばよかった。おろした割り箸が止まる。
いつか今宮の家で、ご飯を食べたことが脳裏に浮かんだ。学校帰り、数学の補習を受けさせられたあと、気晴らしにと彼が誘ってくれたのだ。
話の流れから、二人で作ることになる。あの時、調理実習以外ではじめて包丁を持った。手つきが危なっかしいから、と結局今宮が味付けからなにまでやってくれた。
「簡単だから覚えたらいいよ」
そう教えてくれた豚肉の包み焼きはレシピこそあれど、まだ一人で試したことはない。でもたぶん、どれだけ手際よくやっても、あの時ほど美味くは感じないだろうと思う。
あのあたたかい空間がここにはないから。途中で帰ってきた弟との仲良さそうなやり取りや、リビングにある家具の一つまで、全てが違う。
この家は、綺麗にしても無味にしかならない。
同じ片親、彼の境遇は私と似ている。 けれど本質は違うと感じた。彼は愛されていた、私とは違う。
暇を持て余して、私はまたマッチングアプリを立ち上げた。
暇つぶしには、やはり最適だ。異常検査をする機械のように、一秒も満たずに左へのフリックを繰り返す。そのうちに、誰かと話したくなってきた。
誰でもよかった。気のまま、写真もプロフィールもなにも確認せず一人を右へスライドする。やはり、簡単にマッチが成立した。三十後半、公務員として働いているという男だった。
父親と同じ年齢だ、思っていると、すぐに媚びへつらったようなメッセージが飛んでくる。
あくまで暇つぶし、それだけだ。真剣な恋愛をここには求めてはいない。こんなことがなにになるのだろうと、最近は特に思う。
心を身体を切って飾って売っているみたいなものだ。トップの写真に設定した、よく撮れたプリクラ画像を見て思う。
一度はやめたのに、どうしてまた。やめてしまえばいい、思いはする。でも、私は冷え性だ。血が巡らないのと同じで、それが指先まで伝っていかない。
だから今日も冷え切ったメッセージを飛ばす。可愛らしい絵文字を添えて。