四章 青木茉莉


     一


押しボタン式の信号とは、忘れて待っていた。

変わらない赤色を、スマホの画面の先にただ流していた。人が通りがかって、ついに青になる。先に渡り出したその人の背中を見て、またやったと思った。

しかし、その原因だろうスマホからは目を離さない。歩きながらも、次々と表示される男の写真をぱっと見の印象だけでスライドしていく。気に入ったなら右へ、そうでない場合は左へ、お気に入りが重なった場合に会話ができる。このマッチングアプリのルールはそれだけだ。

具に相手のことを知ろうと思えば、一応自己紹介文を見ることもできる。しかしまず写真がポップアップで表示されるものだから、その時点で評価は粗方決まる。

そもそも大した内容でもなく嘘ばかりの駄文に、目を通したくもない。そうでなくとも、ほとんどは左行きだ。たまに右へスライドしたなら、簡単にマッチングする。

私にとっては左に流すゲームでも、男からすれば逆なのだ。引っかかれば幸運くらいに思っているに違いない。とくに、私みたいな年齢擬装をした女子高生はそれだけで人気があって、何歳からでもお気に入りが飛んでくる。

それこそ、間違えて右へとスライドした四十五の社長から神戸デートに誘われたこともある。体裁は恋活アプリだが、そんなことがまかり通るのだから、その実は半分違法の出会い系だ。

ファミレスに着くまでやったが、とくに得るものはなかった。別に私は何事にも意味や成果を追及するほどストイックにはできていない。

「遅かったな〜、先頼んじゃったぜ」

だから、こうして山田にも会う。もう明確な理由はないが。

彼は既にパスタ一皿に、揚げ鶏の小皿を空にしていた。なおも机の上にはピザが一枚残っている。見ていたら、元から少なかった食欲がさらに減退した。ドリンクバーだけを注文する。

「そんなに金欠なの」
「ううん、単にいらないだけ。逆に聞くけど山田はあり余ってるの」
「単に腹減ってるだけだ」

とくにこれと言って、話すことはない。

私は、単語帳を見ていることにした。文化祭が終われば、入れ替わるように中間テストがある。見て見ぬ振りが散々な結果を生むのは、火を見るよりも明らかだ。

「変なとこ気にするよな、青木って。まだ二週間もあるのに」

山田はまだものを噛みながら、くぐもった声で言う。馬鹿だから、彼はそれが神経を逆なでするとは気づいていないのだろう。つくづく学力と物事への機微は比例しない。

「あたしは山田と違って、出来も要領も悪いからね。こうでもしないとみんなに追いつかないの」
「え、なんか棘あるな。もしかして怒らせた?」

答えなかった。
私はそのページを一通りさらって、次のページをめくる。

「もしかしてまだ怒ってるのかよ、例のこと。言わなかったのは悪かったと思ってるよ、あの時は俺もいっぱいいっぱいで、そこまで頭が回らなかったんだ。結局格好悪く断られたわけだしそれで手打ちにしてくれても」
「そうじゃない。ほんと馬鹿なの、山田は」

私はため息をついて、単語帳を閉じた。集中できやしない。

山田は月曜日、一果に公開告白をした。
その数日前まで、まさにこの場所で私とくよくよ愚痴をくゆらせていたところから一転して。

山田は馬鹿だ。
土足かつシャツやズボンを乱しただらしのない格好が浮かぶ。それも週はじめ、少し考えれば日が悪いのはわかるだろうに。

結果は、翌日にきっぱりと振られたらしい。それも想像のつくことだった。

けれど、その無謀さ加減は強さでもある。
私には、持ち合わせがない。

「目が怖い。睨みすぎたら肩凝るぞ〜、将来は四十肩になる」

羨ましくも思っているのだけど、憑き物が落ちたような、呆けた顔を見ていると舌打ちしたくもなる。
紅茶に砂糖をいつもより一本多く、溶かし込んでいると

「青木ってさ下手くそだよな」
「はぁ?」
「少しはアピールでもしてみたら。好きなら、好きな風に振る舞えばいいんじゃない。郁人、鈍いから絶対気づいてないと思う。それに栗原に遠慮してんのは分かるけど、まだ誰のものでもないだろ」

「それ。この間まで別れたのは俺たちのせいかも、とか言ってたやつの台詞?」
「考え直ったんだよ。俺たちのしたことなんか大したことねぇよ、たぶん。気にしててもしょうがない。なんでもそうだ。俺なんか振られたばっかの相手と劇の主役とヒロインだぜ? 気にしてたらやってらんねぇし、そのつもりもない。俺はこれまで通りやらせてもらうよ」

「たいそうな悟りだね」
「で、どうよ。なんなら協力してやる」

山田が扇型のピザを角から巻いて放り込みつつ、自信ありげに笑む。凹んだえくぼの近く、ケチャップがついていた。なんて格好悪い。

私は、閉じた単語帳を適当にもう一度開く。

「あ、同じページ。型ついちゃったみたい、見て」
「ほんとだ、しっかりついてるなぁ。いや、そうじゃなくて」
「あーあ綺麗に使ってたのに」
「え、俺のせい? いやそもそも綺麗に使うタイプじゃないだろ青木」

そのまま、はぐらかした。