「ちょ、ちょっと! 帰るんじゃなかったの!?」

栗原が頓狂な声をあげる。

「帰るよ、でもいつとは言ってないだろ」

どうせ今さら紳士ぶっても仕方ない。

ぎいと軋む自転車を、精一杯ハンドルに、ペダルに力を込めて回す。

思いを抑えきれなかった。封じ込めたつもりが、蓋の下では肥大化していたそれが少しの隙間から漏れて、気づけば行動に移ってしまっていた。

さっきの芹奈の行動や野中さんとのデートに感じていたずれの理由は、簡単だった。自分のことを分かってくれているとか、似た風とかそうではなくて、俺は栗原一果がいいのだ。

「この先、海まで繋がってんだ。行ったことあるか?」
「ない。でもここは、昔飼ってた犬の散歩とかで」
「へぇ栗原のところも。うちは芝犬いるよ、おもちって名前。和だからだって、適当だよな」

帰ろうと言い出されないよう、話を次から次へ継いだ。
中身は、気にしないことにした。

「鴨ーー!! 元気にやってるかー!!」
「鴨なんているのかな」

「おう、よく戯れてるよ。栗原も声かけたら」
「えっと、……鴨ーー!!」
「本当にやるとは思わなかったな」
「ひどい、山田くんが言うから!」

栗原が俺の肩をぐっと掴む。非力だけれど、爪が食い込んで痛い。大げさに振る舞って自転車をわざと不安定に揺らすと、栗原が堪えきれなくなったように笑いだす。久しぶりに笑った声を聞いた気がした、願わくば君にはいつもそうあってほしい。

今はとまれかくまれ走り抜こうと思った。
まずはこの夜だけ、後のことはそれから考えればいい。川は下りでも、河原は上下があった。息が上がってきて、顔が上を向く。

それでも、掴まれた制服の裾、たまに腰へ触れる小さな指のこそばゆい感触が、俺の腿を動かし続けた。

星が、雲さえない空一面に瞬いていた。

自転車の明かりさえ、深夜の底では眩しい。少しでも先へそして甲子園浜まで、その一心だった。この美しい夜がずっと続け、とどこまでも暗い水平線に願った。このまま走り切って、二人きりで海を見たかった。そして、それから。

しかし、幕引きは唐突にやってくる。武庫川駅を過ぎたあたり河口が広がり出した矢先で、工事中のフェンスが行く手を阻んでいた。道程にして残り四分の一、まだ潮の匂いさえ届かない場所だった。

気力も体力もとうに空、迂回ルートを行く気にはなれなかった。同時、冷静になって我にかえる。

「……悪い、こんなところまで。こんな時間まで」
「ううん」

栗原を下ろして、よろよろと来た道を引き返す。疲れ切ったせい、お互い言葉少なに歩いた。その間、悔いばかりが波のように押し寄せた。一向に引かないうちに、宝塚駅に戻ってくる。

その頃には、東の空は白み始めていた。阪急電車が動き出して、そのレールが軋む音が冴えた、新しい朝を告げる。それは、昨日の終わりとイコールで結ばれた。

「もう送ってくれなくてもいいよ。ほら十分明るいし」

栗原が言うのに、俺は力なく頷く。もう、頭の中は真っ白だった。なにをしたかったんだろうか、俺は。海に辿り着いていたら、どうしたのだろう、今や影も形も浮かんでこない。

「月曜日は練習きてよ? 打ち合わせもあるし、約束ね」
「……参加の催促って、立派に委員長だな」

 少なくとも、こんな嫌みを言いたかったわけではないのに、言葉が勝手に滑り落ちる。

「ううん、全然。むしろ私は迷惑ばっかりかけてる、自覚あるよ。一人じゃなにもできないから、こうしてお願いしてる」
「でも、あの打ち合わせだったら、行く意味ねぇじゃん」
「そうかもしれないけど、、でもやらないよりいいよ、……たぶん。待ってるから、茉莉ちゃんも今宮くんも」

「郁人も、ねぇ。どうだか」
「今宮くんも、絶対待ってるよ」
「……俺さ、実は郁人と喧嘩してるんだ。あいつ、俺の、俺の大切な人の気持ちを、平気で踏みにじるようなこと、さらっと言
いやがった。それがどうしても許せなくて」

利害もなにも、もはやよく考えられず口走る。

郁人は栗原のことが好きじゃなかったんだよ、いっそ打ち明けてしまいたかったが、万一にも彼女を傷つけたくなかった。

「勘違いとか、じゃないかな」

 なにを期待していたわけでもないが、栗原の反応は意外なものだった。

「なんでそう思うんだよ」
「今宮くんは、さ。わざわざ人の神経逆なでしたりしないと思う」
「……なんだよ、別れた元彼にも優しいんだな」

言えないもどかしさと苛立ちに、ぎりと奥歯を噛む。けれど、栗原に当たるのは大間違いだ。

「わりぃ、ごめん。今の忘れて、もういいから」
「優しいんじゃないよ、私は全然。ただ素直にそう思うだけだよ」
「あぁ、そう」

なんだよ、それは。それはつまり、

「好きだからそう思うんじゃねぇの」
「……そう、かもしれないね。たぶんずっと。私さ、はるちゃんの気持ちを聞いて、今宮くんと別れたんだ。私なんかが中途半端な思いで付き合ってちゃいけない、って。でもそうじゃなかったみたい。別れてから気づくなんて、おかしいよね」
「そうだな、ほんとおかしい」

俺は自棄になって言い捨てる。

自分は勝手に話しておいて、それ以上はまるで聞く気になれなかった。じゃあここで、と自転車に乗る。つい数時間前まで、あんなに漕いでいたというのに、今は一回ペダルを回すのも大層なことに思えた。

下り坂に預けるように、ゆっくり走り出したところで、後ろから声が掛かる。

「山田くん? あの、月曜日は──」
「行くよ。練習と会議だろ、委員長命令じゃあ逆らえないし」

片手だけ、挙げておいた。