三
時間が経つにつれて、喪失感は苛立ちへと変化していた。
何度冷静にと考え直しても、鳩尾のあたりが熱くなり頭に血が昇ってくる。
恋を捨ててまで、保ちたいと思った仲でも許せない、譲れないことはある。客観的になってみれば、好機到来なのかもしれない。これで堂々と栗原に好きと言える目ができたことになる。けれど、全くそんな浮かれた気分にはなれなかった。
ろくに眠らないまま朝を迎える。気つけに、食パン四枚にバターを刷り込み、牛乳で飲み流した。満腹感はあれど、満足感はない。制服を着込んで、最後の一枚を口に咥え家を出た。
部活の休日練習があった。この一週間、ろくに参加していない。たまにやっておかねば、身体も試合勘も鈍る。それにもしくは、別のことに集中することで鬱憤晴らしになるかと思った。
しかし、ブランクのせいか邪念のせいか、段を持っていない後輩にまで綺麗な面打ちで一本負けを喫する始末になった。
強がりで、
「久々に被ったから中が臭くてよ。あと道着も」
解けかかった面の紐を結びなおしながら言い訳をした。
本調子にはほど遠かった。
練習の最後、追い込みからの切り返しをした頃には、肩で吸っても追いつかないくらいに息が上がっていた。上座への礼で部活が終わり、その場の全員が扇風機の前に集まる。心もとない小さな扇風機だが、熱気のこもった道場の中では唯一の憩いの場。
正面はいつも取り合いになる。
「先輩、今日はなんか調子出てないっすね。いつもなら絶対真ん中奪っていくのに。あと臭い」
後輩である、高松が鼻をわざとらしく抑えて言う。
「臭いは余計だっつの」
「そんなんだったら次の大会の先鋒、奪っちゃいますよ」
「これ以上、俺から搾取する気かよ。そうじゃなくて、なにかあったのって心配しろー」
フェイスシートで汗を拭いながら何気なく呟いたのに、全員が妙に静けかえった。そしてどっと笑いが起きる。
「かまってちゃんじゃん! ほんとどした~? 劇の主役は荷が重いんだろ。あとぴったり三週間後だもんなぁ。急に不安にでもなったのか」
同回生で部長の前田は、はなからいじる気だったらしい。髪をくしゃっと掴んで、臭いと吐く。
「……余計なお世話だ。ってかお前も変わんねーくらい匂ってんぞ」
普段ならどうということはない。俺はそういう立ち位置で、コミニュティを成り立たせている。しかし今日ばかりは、気分がすぐれなかった。
道場の鍵を閉め、全員でバス停へ向かう。ファミレスでも行くかと話が進んでいた中、用事があると理由をつけて集団から離れた。
川沿いを、イヤホンを耳にしつつ、ゆっくりした足取りで下る。
予定は、紹介してもらう女の子と会う夕方までブランクだった。途中パン屋に寄る。しかし朝に一斤を平らげてきたからどれも魅力的に思えない。コンビニでお茶だけ買って、また歩き出す。
アルバムが変わる。たぎり、思い切り、これきり。この間、河川敷で聞いた曲だった。洋輔に勧められ、入れてはみたもののやはり肌に合わない。なにか別の曲をと携帯をたぐって、徹からの連絡に気づいた。
夕方まで、ボーリング場で投げっぱなしをしているらしい。ご丁寧に、ぶれまくりのフォームでガーターに投げ込む芹奈の動画がついていた。本当くだらない。
「忙しいんじゃなかったの」
けれど三十分後、俺はボーリング場の青白い光に当てられていた。洋輔がボールを光るまで磨いて言う。
「たまにあるだろ。リスケになったから来たんだ」
「今回に至っては呼んでもないけどな。あれか? 紹介してもらう前に、探りでも入れるつもりだったか」
「そんな意図はねぇよ。でもまぁ教えてくれるなら」
「そんな受け身な感じだったら教えねー」
彼の番になって、すくと立ちあがった。
ちょうど新しいゲームの一投めだった。勢いのある球で綺麗に真ん中のピンをフックで弾いて、ストライク。
「でもまぁ俺に勝ったら教えてやる」
実に得意そうな顔をしていた。挑発を受けて、立ち上がる。
「撮っておくから頑張れ~」
芹奈がスマホを構えていた。ライブ配信でもされていたら、思うと急に緊張が走る。
「アンダースローで行こうぜ」
徹の無理なフリは受け流して、手首でカーブを放った。
中学生の頃はかなり通いつめていて、得意な方だった。狙い通り、ボールがピンの手前で左に折れる。しかし曲がりが急すぎて、そのままガーターへと落ちていった。
「持ってんなぁ、さすが」
三人共に、にやにやと手を差し出していた。まとめて強めにはたき返す。二投めこそは、と素直なストレートを放ってスペアを奪った。振り返ると、また三つ手が上がっている。
「なんだ格好つけなきゃ、やれるじゃん」
入れ替わりの徹とタッチを交わす。
ふと、自分がまた笑っていることに気がついた。ほんの一刻前まであれこれと思いふけっていたのが嘘のように、心の内がすっきりとしている。