三章 山田爽太郎
一
「もう、今に終わるんで! 少しだけ待ってください」
急かしてくる店長に、そう早口で返事をした。
カットされたチーズケーキを透明フィルムで包み、レースの紐で結ぶ。
あくまでやんわりと、だ。道着を着る容量でやるとケーキが崩れてしまう。OK、大丈夫。あとは紙袋に入れて、リボンをつければ完成、なのだけれど。
「や、ほんともう。あと五、いや十待ってください」
店長の謎のこだわりは、このリボンにこそある。唾を飲んでから慎重に結んで、垂れた紐を優しく引っ張る。適度な緩さでリボンが巻いて、無事に小洒落た装飾になった。この加減が難しいのだ。ほっと一息ついてから、店頭へ出て行く。あとは二年バイトをしていれば慣れたものだ、手早く会計をして客へ頭を下げた。
「早くなったな~、少し前とは見違えたで」
一連の対応に、店長がショーケースを拭きながら文字通り目を細める。
「まぁこれくらい。器用なんで、俺」
「はは、よく言うわ。まともに包装紙まくのに一月かかったくせに」
「いや~手抜いてたんです。だって試用中の給料安くて犬の餌ぐらいにしか──って冗談です、冗談!」
強面、店長の眉間にシワが寄っていた。給料は兵庫県の最低賃金と同じ、安いのは本当だけれど伏せておく。そもそも高校生のアルバイト代はどこも似通ってその程度だ。
ただ同じ額なら、品出しやコンビニよりは飲食系がいい。まかないがあったり、残り物を持ち帰らせてもらえたりする。実際、恰幅どおり気前もいい店長は、シフトに入るたび余り物のケーキをくれる。最近は食傷気味で、生クリームが少し苦手になった。
それでも言えるわけはなくて、
「ほら、よう食って味覚えろよ~。それもバイトや」
閉め作業を終え、退勤しようと着替えを済ませたところで捕まった。
ショートケーキとミルフィーユクレープ、しっかりクリーム系を詰めてもらう。おまけに焼き菓子まで。眉が下がりそうになるのを抑える。連夜になるが母親に土産として渡そうと、ひっそり決めた。
もう取り返しがつかないくらい肥えているから、カロリーやら糖分やらその辺りは気にもならないだろう。
「明日は、五時からやからよろしくな」
「遅刻はしませんよ、その辺はきっちり」
「いい心がけだ。でも大丈夫なの最近シフト多いけど。劇、主役なんやろ? それに勉強もしないと」
「とか言って。店長、自分でレジ打ちたくないんでしょ。任せてくださいよ」
「まぁ大丈夫ならいいんだ。こっちは助かってる。ありがとうな」
余裕ですと、俺は大仰に首を縦に振る。忘れていたタイムカードを退店際に切って、店を出た。
裏手の駐輪場から自転車を取ってくる。ブレーキレバーの軋む、おんぼろママチャリだ。でも気に入っていて、騙し騙し通学に通勤にフルで使っている。鞄を前かごに突っ込む。部活での悪ふさげ、山田とマジックで大きく書かれた左側面を下に向けた。
町の人に名前を知らせて走る趣味はない。
家までは右折左折こそすれ、ずっと緩い下り坂が続く。漕ぎだすと、自然スピードが上がっていった。弦を張ったみたいな夜の空気が、シャツをなびかせる。息を吸うと、肺の奥まで澄み渡った心地がした。
この時期が一番好きだ、夏と秋の間。暑くも寒くもなく過ごしやすい。なによりこの時期だからこそ、冷えた缶コーヒーがうまい。疲れまで同時に飲み込める気がする。そして反対に訪れるのは、なんとも言えない爽快感だ。
考えていたら、誘惑に負けた。途中、自転車から降り自販機でブラックを買う。甘さ控えめがマスト。しかし今日は、どうも冴えなかった。苦さだけがいつまでも舌にまとわりつく。
つい、昼間の出来事が苦々しく思い返された。舌だけでも甘くしたくて、貰った洋菓子を口にする。端のかけたカヌレだった。結局、洋酒が効いてほんのり苦かった。
逃げてきたのだ、俺は。文化祭からも、ついでに部活からも。
昼のランチ会兼文化祭打ち合わせは、最悪のムードだった。面子は、実行委員の四人。郁人、栗原、青木、俺。普段から、弁当を囲む仲だ。正確にはそうだった。
でも最近は男女別れて、それぞれで食べる。それも郁人と二人きりは落ち着かず、他の友人を交えることも増えた。だから久しぶりに、三人の顔を正面から見た。
表立って、険悪な雰囲気というわけじゃない。
ただ塞ぎきれないほどの綻びが会話のあちこちにあって、引っかかる度に止まった。
そしてそれを全員が暗黙の了解で黒塗りにし、なかったことにする。気遣いが議題の代わりに机上を飛び交っていた。そして進展は何もないまま、昼休みは終わった。
そういう空気は、はっきり言って得意ではない。だから逃げた。放課後にあった、委員の役回りも、残り一ヶ月弱になって本格化しだしていた演技練習も放り投げた。急遽シフトを変更してもらってまで。
気まずさの原因はいくつかある。個々がそれぞれに抱えたものが、絡まっているように思う。けれど、一番は間違いなく郁人と栗原の仲だ。
九月の最終週、二人は別れた。
秋雨が霧のように降る日だったらしい。
事実だけを報告された、理由はどちらにも聞いていない。そもそも上手くいっているというほど、仲睦まじいわけではなかったのも初めから知っていた。
間に合わせたような笑顔が二つ浮かぶ。振り払おうとカヌレを全て口へ押し込んだところで、ポケットに入れていたスマホが鳴動した。
『今から駅前の河川敷来ない?』
中学時代の友達・内川(うちかわ)洋輔(ようすけ)からだった。普段ならまだしも、今の心理状態では魅力のない誘いとしか思えない。
『もう夜遅いから遠慮する』
『どうせ暇だろ? 女の子紹介してやるからよ。お前のこと気になってるらしいんだ』
一人、盛大にむせかえった。