「やだな、うちは小学校のプリントには乗らないよ。ちょっと休んでたの。その、足が痛くて! 体育で筋のあたり痛めたみたい?」

慌てて笑顔と言い訳を作る。

「筋って、結構まずいな。歩けるの。というかずっといたのかよ」
「うん、まぁ少し前から。歩けないって言ったら負ぶってくれるの」

「……タクシー呼んでくる。おばさん、家にいるならそれでも」
「真面目か~。歩けるよ、じゃないとここまでも来られてないでしょ」

面倒なことを言ったなと思った。
少しだけゆっくり歩くそぶりをして、郁人の隣まで行く。歩き出しても郁人は私を心配して、鞄を持つと言い出した。嘘なの、とは言えない。あの偶然も、嘘だったのとは言えない。

「少し休んだら治ると思うから、さ。ちょっと休むの付き合ってよ」

だから、また重ねた。道沿いのベンチに腰掛ける。

郁人と今日の話をした。本番までまだ一月強は猶予があるとはいえ結構忙しく、近所からダンボールを集めたり道具係の買い出しをしたり、委員会にも出たらしい。頑張ったね、と私は労いをこめて肩を軽くぶつける。

触れた肌は温かくて、そのまま抱き包んでくれたらなと思った。それだけ与えてくれたら、私は簡単に幸せになれる。ガラスの靴も、綺麗なティアラもいらない。

けれど、もちろんそううまくは運ばない。少しだけそのままでいたら、やんわりと離された。体温が薄れていく。

「暑いよ」

郁人は、結構汗かきだ。

「はるは? 今日はなにしたの」

いっちゃんと遭遇したことは、言わないでおいた。告げ口みたく思われたくもない。けれど、一切私の中で封じているのも、気持ちがいいものではなかった。

「ねぇいっちゃんと付き合った理由ってなんなの」
「え、理由? そうだな、話してて面白いしいい子だから、とか」
「好き?」
「好きだよ」
「その好きって、夏紀先輩への好きとどう違うの。私には同じに見える」

その「好き」なら、別に私でいい。
ううん、私のがいいに決まっている。私にとっては到底足りないのだけど、そんな好意では。

「……はる? どうしたの。先輩とは違うよ、だって人が違うし、それに」
「そういうことじゃない。分かってるでしょ」

返事はなかった。代わりに、鈴虫の鳴き声がした。

虫はいつも一足早い、そういえば煩いほど鳴いていた蝉の声をもう聞かなくなっている。なにも告げずに去ってしまう。
郁人も、同じだ。いつも全部は教えてくれない。
前に先輩と付き合った時だって、飄々として理由もなにも誤魔化された。

たとえばそれが非道なものでも、私は全てを受け入れる用意があるのに。私はずっと隣で待っている、君を。少し振り向けば、そこにいる。

「郁人は、さ。ずるいよ、かなり。ずるい。私は全部、全部。私は──!!」

ちょっと勢いがつきすぎた。まるで纏まりもない。閑静な住宅街の中だ、目立っていたみたいで、前を通りがかったサラリーマンがこちらを振り向いていた。

私は吸った分の息を同じだけ吐く。そして、

「やめた。なんでもない。今のなし」
「……そうか」

言えなかった。今の流れで告白したって請けてくれないのは分かりきっている。郁人は黙っていた。煩わしい。勝手に気持ちが伝われば楽なのに、身体の熱が教えてくれればいいのに、暗闇に紛れてしまう。

私は弱い。明るいふりをして、常に後ろばっかり振り返っている。

「あー、今日は疲れた~。カフェと、学校の教室で先生に見張られながらの会議じゃ大違いだな。そろそろ帰ろうか。歩ける?」
「……じゃあ肩だけ貸して、私重たいから体重かけないようにする」

「了解。体重のことは触れないでおくな。前もあったよな、こんなこと。立場逆だったけど」
「郁人がキックボードで坂降りてる途中にこけて足怪我したやつ?」
「それだ。皮何枚かめくれて、今も跡になってる」
「泣いてたよね、あの時。抉れ具合が怖くて、私も泣いたな」

左足を引きずるふりをする。よっかかる彼の身体はいつの間にこんなに大きくなったのだろう。私より小さかったのが、ほんの数週間前のように思えるから不思議だ。

「悩んでるなら、なんでも言えよ。はるの話なら、いつでも聞くからさ」
「いいよ、別に」
「素っ気ねぇなぁ、なんだよ」

やっぱり、好きだな。

私はわざと体重をかけてやった。急すぎたのか、郁人は大いにふらついてこける。私は私で予期していなかったから、二人で道端の街路樹の下に崩れこんだ。銀杏の木だった。二人、髪から靴まで扇形の葉だらけになって、大笑いする。

「今度こそ不審者だな」
「ほんと! ついにプリントデビュー! 木くずだらけの二人組!」

考え事や憂鬱な気分は、あとでいいやと思った。


    ♢


次の日から、私はカフェでの打ち合わせに出なくなった。
郁人を待つのも、やめた。