三


いつから好きと意識し始めたのかは、はっきりと覚えていない。

でも断じて誰よりも長い。

郁人にべったりの弟くんだって私よりは短い。なにせ物心ついた頃には、彼は私の隣にいて、私は彼の隣にいた。まだフィルムカメラで撮られているアルバムには、プラレールの線路を組んでいる二人の写真が映っている。

同じマンションの、隣の部屋。先に住んでいたのは今宮家で、私たち家族が後からきたらしい。同じ年頃の子どもを抱えていたこともあって、ちょうど母親同士の気が合った。

幼い頃は、性別や趣味趣向より仲のいい親同士の子が遊ぶもの。気づけば四六時中、側にいた。

子どもの預けあいをして、交互に自由な時間を過ごすなんて付き合いもしていたようで、母は今も年に一度はその話をする。

だからかどうか、母は郁人に私と変わらないほど自然体で接する。実の息子に対するように叱って、褒めて。とはいえ、最近は褒めてばかり、叱られるのはすっかり私の役目なのだけど。

マンション内の人間関係は閉鎖的だ。とくに子どもは。公園、自治会、登校班。内側だけでコミュニティが成されて、そこで事が済む。比喩なく、私の世界の半分は郁人だった。
それは小学校に入って、多少世界が広がっても変わらない。

郁人といたから、私は男子の中に混じる事が多かった。

それも高学年になってくると、男女で休み時間の過ごし方が異なる。教室にとどまる女の子たちを背に、グラウンドで男子と一緒にサッカーをした、手打ち野球をした。足が早かったから、そこらの男子よりは上手かったと自負している。

男子の最後尾と比較しても大差ないほど、既に身長は高かった。。短髪、男勝り、高身長。女らしさも色気のかけらもない。けれど、よく遊んだ男子の中には私を好いてくれた子が何人かいて、卒業間近は五人に告白された。紅一点だった。あんなに大勢に好かれることはもうないと思う。

漫画を描き始めたのは、小学三年生の時だ。少年誌を毎週楽しみに読んで、家にあった母のコレクションは一通り読破するほど漫画に没頭する少女だった。
『YAWARA』に限っては五周、扱いを雑にしすぎて表紙を何巻も行方不明にして母の逆鱗に触れた。いまだいくつかは裸のままだ。

絵を描くのは、小さな頃からずっと好きだった。漫画を描きはじめるのに、大きなきっかけはいらなかった。唯一、夢中になれた。
家に帰ってテレビも見ないで、宿題をする構えだけ見せつつノート一冊を全て漫画にした。全部鉛筆だけで描いた。この間開いたら、すすだらけ、半分以上読めなくなっていた。それでも捨てられないで持っている。

特に人に見せるほどの自信はなかった。だから、一人で密かに作って、宝物のように鍵のかかった引き出しにしまっていた。
けれど見てほしい気持ちはずっとあって、ついに勇気を振り絞って、郁人に読んでもらった。

「本当の漫画みたい! すげぇじゃん!」

興奮気味に、絶賛してくれた。今でも幼い彼の甲高い声が耳に残っている、満たされた気分もここにある。描けない時には、思い返して糧にする。

でもその頃、男の子として郁人を意識していたかというと別だったと思う。
他の男の子と比べたら、いくらも特別な感情を持っていたけれど、それがなにとは思わなかった。せいぜいバレンタインのチョコを一番綺麗にできたものを渡したくらい。今考えれば、それが子どもなりの好意だったのだとは思うけれど。

強いて意識し始めた時期を挙げるとするなら、郁人のお母さんが亡くなった時だろうか。

小学五年生の時だった。弟くんを出産したあと、郁人のお母さんはずっと体調を崩しがちだった。その日は風邪っぽいんだと郁人から聞いていて、夏みかんを持たされて見舞いに行ったら、蒼白な顔をした郁人が出てきた。泣く寸前で、釘を打ったみたいな顔をしていた。
不都合にも私の母は仕事に出ていて子ども二人、大慌てで救急車を呼んで、何度も呼びかけて。壮絶な時間だった。そこから先は、全部をうまく思い出せない。一緒について、救急車で病院に行ったのだろうけれど、はっきりしない。時間だけが勝手に過ぎ去って、そのまま還ってこなくなった。

それから郁人はしばらく学校を休んだ。マンションに住む生徒には、いつのまにか知れ渡っていた。
ようやく彼が戻ってくると、彼らは郁人を避けるようになる。

気を遣って、なのだろう。年端もいかぬ子ども、どう声を掛けていいかもまだ分からなかったのだと思う。事実、私も分からなかった。

私も郁人のお母さんが好きだった。よく二人で話もして、お互いに学校と家での郁人の報告係だった。「おばさん」と言うと怒ったけれど、そのあとは絶対笑ってくれた。隣人の子どもというだけの私でさえ辛いのだ。郁人が平気なわけがない。

それでも、彼は気丈に振る舞った。クラスに漂う微妙な雰囲気を気にもかけないで、笑う、話す。それを見ているのが、一番堪えた。

でも、目は逸らさなかった。郁人と弟くんを私の家に呼んで、ご飯を食べることもあった。支えになりたかった、学校から家まで私の半分以上が郁人だった。私が、彼の横にいようとより強く思った。今も思っている。

いっちゃんは可愛い。私とは違って控えめで慎ましい、いい子に違いない。

でも、だからといって私は引くわけにはいかない。
ずっと前から好きだった。見てきた。彼女が知らない、幼い彼も、泣く彼も、コンタクトデビューした日の彼も、朝の寝癖の色んなパターンだって全部知ってる。

小学校までは身長が小さくて、ミニフミと呼ばれていた。
初詣で五円玉と間違えて五百円を入れてマクドナルドで半べそかいていた。本当に泣いていた、病院での姿。全部一つたりとて、忘れていない。
忘却なしに、ただ積み上げてある。全部が私の血肉になって、思いになってある。

私は彼女より、きっと彼を幸せにできる。

私は、家で一人つけている日記帳を取り出す。今日のページを開いて、一文目を書き出した。

『九月十三日、今日も会えた。今日も、やっぱり好きだった。』