「柏木さん、野村さん、入場してください」
 スタッフに呼ばれ、戦いの舞台へと入場する。昨今のクイズブームの影響か地上波で生中継されるらしい。最初で最後の律との決勝戦は前代未聞の大舞台だ。場慣れしている律もさすがにテレビ中継となると緊張しているのか、いつもよりそわそわしているように見えた。
「さあ、記念すべき第三十回全日本高校生早押しクイズトーナメントもいよいよ決勝戦! Aブロック代表は風月学院高等部三年“孤高のカイザー”柏木律!」
 司会が選手紹介を始める。律が今年優勝した数々の大会を列挙した。
「天下に敵なしとは彼のためにある言葉でしょう!」
 俺はいつも早々と敗退して、勝ち残って当然とばかりに涼しい顔をした律を観客席から眺めているだけだった。初めて決勝という大舞台に立って、同じ立場でライバルの顔をじっと見る。顔を上げた律と一瞬目が合った。じろじろと見ておいてこんなことを思うのは何だが、自分の心の内を見透かされるのが怖くて目を逸らした。
「対するBブロック代表は都立音原高校三年“クイズ革命の申し子”野村巡! 学生クイズ界を震撼させた驚異の成長曲線はどんな結末を描くのか? 準決勝では華麗な逆転劇を見せてくれたファンタジスタに期待が集まります!」
 大した実績のない俺の紹介は抽象的だ。選手紹介を終えた後、司会者がルール説明を始める。一対一の対決で、先に七問正解で勝利、三問誤答で失格というとてもシンプルなルールだ。シンプルなルールほど、実力の差が出やすい。律は説明中何度も自分に気合を入れていた。俺たちの最初で最後の決勝戦が始まる。

 開幕早々、律が三問連続で正解した。いざ問題が読まれ始めると、緊張した表情はブラフだったのかと思うくらいに律の指が軽やかにはねる。俺も早押しボタンを押しているのに、律のスピードには敵わない。
「問題。凸レンズと凹レンズのうち」
 律の超人的な早さについていくために、無茶なスピードで押す。近視用の眼鏡に使われているのは凹レンズ、遠視用の眼鏡に使われているのは凸レンズだ。もう一音聞けば確実に正解できるが、律は完璧にそのタイミングを見極めることができる。ならば俺はその前に押して、五十パーセントの確率で一点が取れる完全な運ゲーに持ち込むしかない。
「どっちだよ……凹レンズ!」
「残念! 正解は凸レンズ。問題文の続きをお願いします」
 虫眼鏡に使われているのはどちらかという問題だった。やはり俺は運がない。しかし、これは想定内だ。間違えても減点はない。一問だけなら失格にもならない。手を緩めれば負けてしまう。攻めの姿勢を忘れるな。
「問題。Allons enfants de la Patrie」
 歌い出しの問題だ。これはフランスの国歌だ。サッカー少年時代は海外サッカーをよく見ていた。律はスペイン推しだったが、俺はフランスのチームが好きだった。何度も試合を見ていれば、歌詞の意味は分からなくても試合前に歌われる国家は自然と耳に残る。
「『ラ・マルセイエーズ』!」
 なんとか一問正解して、流れを持ってくる。しかし、律は意に介していないとばかりに笑みを浮かべた。律が公式試合中に笑うのを見たのは、サッカーをしていた時以来だ。
 次に読まれたのは訳が分からない問題だった。問題文に使われている固有名詞から、律が答えた単語まで全部が知らない単語だった。
「さすが柏木選手! 昔流行った問題もお手の物!」
 クイズ大会における頻出問題、いわゆる“ベタ問”にも流行り廃りがある。以前はよく出題されていたものの、最近はほぼまったくと言っていいほど出題されなくなった問題は多々ある。律のクイズ歴は六年。俺のクイズ歴は三年。おそらく今読まれたのも律が中学生の頃によく出題されていたベタ問なのだろう。ずるい。こんなのどうしようもない。
 現状得点は一対四。もっとスピードをあげなくてはいけない。クラスの女子の間で流行っているドラマのタイトルを正解して二対四。今年の箱根駅伝で優勝した大学の名前を答えて三対四。なんとかもぎとった。次の正解で同点だ。
「その命日を」
 おそらく、文学忌の問題だろう。文豪の命日には代表作から名前がついていることが多い。まずい、文学問題は律の得意分野だ。律に押されればほぼ確実に正解されてしまうだろう。
「豊玉忌という」
 律に押される前に強引に押しに行き、俺のボタンが点灯する。知らない。押して代表作から推察すればいいと思っていたけれど、ホウギョクなんて知らない。しかし、何か言わなくては正解の可能性はない。宝玉から連想できるもの。怪盗、つまり『怪人二十面相』の作者か?
「江戸川乱歩!」
 それらしい単語を言ってみたが、当然不正解だった。
「残念! 正解は土方歳三。新選組の副長は誰、と続く問題でした」
 最悪だ。文学問題じゃなかった。早とちりのせいで、ついにあと一回誤答をすれば失格というところまで追い詰められた。
「問題、湯葉」
 律のボタンがわずか二文字読まれただけで光った。がけっぷちに追い詰められれば、自然とボタンを押すスピードは鈍る。俺が攻め込めない最悪のタイミングで、ベタ問が出題される。誤答したら即失格となる俺を挑発するように、律はとんでもないスピードでボタンを押した。
「ラムスデン現象」
 そして鮮やかに正解する。
「湯葉はこの現象によってできる、牛乳や豆乳を加熱した際にタンパク質や脂質が変性し表面に膜が張る現象は何?」
 という問題だ。
「読まれた文字数僅か二文字! まさに、神の領域! 」
 これで得点は三対五。俺が必死になればなるほど、律が加速していくように感じる。どうしても追いつけない。
「問題。小人物には」
 俺の指が動く前に、またしても律の早押しボタンのランプが光った。正解されてしまえば得点は三対六。間違えろ。呪いをかけるようにそう願った。しかし、律は落ち着いて答えた。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「正解! 柏木選手、優勝に王手をかけました」
 追い詰められた。もはや絶体絶命。どうして律の得意分野の問題ばかり出るのだろう。やはり俺は運が悪い。
 「小人物に大人物の志は理解できない」という意味のことわざ。まさにその通りだ。俺には律がなぜあの高みにいられるのか分からない。いや、分かっているのに現実を直視しようとしなかった。

 クイズという競技は、森羅万象を問う。つまり、積み重ねの競技である。律は六年間努力を積み重ねてきた。俺はたったの三年間、遠くの律の背中を追いかけただけだ。俺の努力が足りなかっただけだ。
 思えば、インフルエンザを言い訳にした風月学院の入試の自己採点は過去問の点数より高かった。理科では天文の問題が、算数では旅人算の問題が出題されていた。俺の得意分野の問題が出題されて、実力以上の力を出し切って、それでもなお律と同じ中学に進学できなかった。律との勝負はいつだって完全燃焼して、それでも届かなかった。それが悔しくて本番に弱いのだと、運が悪いのだと自分に言い訳していた。
 律に勝てないと悟り、執着を断ち切るためにクイズそのものをこの試合を最後に引退する。未練はもうないはずだった。それなのに、律がクイズをやめると聞いて、これが最後のチャンスになることにたまらなく焦燥を感じる。

 俺はたった一度でもいいから胸を張って律のライバルだと名乗りたかった。だから、泥臭くても、みっともなくても最後まであがく。顔を上げて、耳を澄ませて問題を聴いた。
「問題。サッカーで」
 ここで俺は賭けに出た。間違えれば即失格という状況で、問題がほんの少ししか読まれていない状況で早押しボタンを押した。六年間サッカーをやっていた身だ。サッカーに関する問題であれば、知らない単語が答えだということはないと思ったからだ。だが、それは律も同じだ。確実に律より速く押すために無茶な早さで押した。ボタンを押すと同時に、問い読みの「ひと」という声が聞こえた。問題の続きは二音聞ければ十分だ。
 脳をフルスロットル状態にして問題の続きを推測する。「ひと」のイントネーションは「人」ではなく「一人」と続くようなものだった。おそらく「一人の選手」と続くのだろう。伝統ある大会では問題文はミスリードを誘わないように自然な問題文になっていることが多い。そして、特に断りがない場合答えは一単語だ。その前提のもと、問題文を推測する。おそらく「一人の選手が、一試合に三得点以上することを何というでしょう?」となる可能性が最も高い。もちろん、絶対とは言い切れないが期待値は最も高い。俺は息を整えて、覚悟を決めて答えを口にした。
「ハットトリック」
 正誤判定までの一秒にも満たない時間が永遠にも感じられた。
「正解! 野村選手、失格リーチをものともせずに果敢に攻めました」
「おいおい、正気かよ」
 律が呟いた。律が怯んでいる。やっと、律の目に映れた。攻めの手は緩めない。あと三点、死んでももぎ取る。
「問題。先月七日に俳優の田中」
 押したのは俺だ。田中郁人と結婚した女優の名前を問う問題だ。三年間の経験の差を埋めるのは困難だ。だが、最新のニュースを問う問題に限ってはこの限りではない。全力で対策すれば、格上の相手を出し抜けるのが時事問題である。
「佐川美里さん」
「正解! 野村選手の猛追が止まらない! 手に汗握る展開です!」
 間違えるわけがない。ここ数ヶ月の、出題されそうなニュースはすべてチェックして頭に叩き込んできた。芸能ニュースやスポーツの大会結果から、新たに就任した他国の首相まで片っ端から覚えた。律が早押しボタンを握り直すのが目に映った。俺もボタンを持つ手に力をこめる。あと二問で逆転だ。
「問題。アルファ星をフォーマルハウト」
 フォーマルハウト、天文部の先輩が教えてくれた秋の一つ星の名前。あの星がある星座の名前を堂々と答えた。
「みなみのうお座!」
「正解! 両者九点で並びました!」
 ついに同点だ。次に正解した方が優勝。泣いても笑ってもこれが最後だ。
 一瞬驚いたような顔をした後、律は笑った。笑みを浮かべた口元が、「負けねえ」と呟いたように見えた。その後、小学校最後のサッカーの公式試合で見せたのと同じ真剣な表情になる。
 深呼吸をする。絶対に押す。必ず、律より早くボタンを押す。百万分の一秒でもいいから、次の問題だけは律のスピードを超える。
 問題が、やたらとゆっくり聞こえた。一つ一つの音がくっきりとクリアになった。
「問題。元々は同じ川の水を」
 押した。脳が音を意味として認識する前に、指が動いていた。脳裏に浮かぶのは中学の教室。疎ましいと思っていたはずの英語教師の雑談。
「ライバルというのは、昔同じ川の水をめぐって争っていた人々を指していたのです。転じて、たった一つのものを求めて競う人々という意味になったのです」
 たった一人の勝者になるために俺たちは戦ってきた。その軌跡に無駄なものなど一つも無かった。結局出来なくなってしまったサッカーに打ち込んだ時間も、サッカーを奪われてなりゆきで入部した天文部での思い出も、受験に失敗して進学した学校の授業の雑談も、その全てが今日この瞬間に繋がっていた。俺は声の限りにただ一つの答えを叫んだ。
「ライバル!」
 一瞬の間を置いた後、正解を告げる鐘が鳴り響いた。俺の隣から、律の拍手の音が聞こえた。会場の音響が、優勝者決定の音楽に切り替わる。その刹那、たった一人の拍手の音は大観衆の拍手と歓声に変わった。本当に、俺は勝った。生まれてからただの一度も勝てなかった律に、人生で初めて勝った。