律のおかげで元気を取り戻した俺は、翌日から学校に行くようになった。何事もなかったかのように登校して飄々としていれば、周りも案外普通に俺の復帰を受け入れてくれた。サッカー部の元チームメイトも気まずくならず、廊下で会えば普通に挨拶する程度の良好な関係だ。
残念ながら俺の学校にクイズ研究会はなかった。新しく同好会を作るのには五人必要だったが、一人しか賛同してくれなかった。
唯一の賛同者は天文部に所属していた。文化部は基本的に兼部が許可されている。クイズ研究会を作れる人数が集まるまでの期間だけでも天文部に入ってみてはどうかと勧誘され、押し切られる形で天文部に入部した。
忘れられない出来事がある。学校の屋上での初めての天体観測だ。
「秋の夜空ってね、明るい星があんまりないの。でもね、だからこそあの星がすごく綺麗に見えるのよ」
顧問の先生が教えてくれた。確かに、秋の空は冬の空に比べて一等星が少ない。
「あの星、フォーマルハウトっていうんだよ。野村君、三月生まれのうお座だったよね? フォーマルハウトがあるみなみのうお座のモデルはうお座のお母さんなんだよ」
部長が続けた。入部時に書いたアンケートに書いた誕生日。それに絡めて星にまつわる神話を教えてくれた。
天文部は楽しい。先輩のしごきもないし、居心地がいい。命を燃やすような青春ではないが、これはこれで良いのではないかと思い始めた。
クイズ研究会設立の目処は全く立たなかったが、クイズのことも決して忘れたわけではなかった。天文部の同期が早押しクイズのアプリを教えてくれて一緒に楽しむようになった。その友達とのローカル対戦は大体俺が勝ったが、全国の強豪を相手にしたオンライン対戦ではなかなか勝てなかった。
アプリでの対戦も充分楽しいと思えた。穏やかで緩やかな青春。サッカー部の練習風景を見ても心がざわつくこともなくなった。サッカーを奪われた哀れな引きこもり時代から比べれば上出来だ。毎日が充実していると思えたから。
クイズ研究会を設立できたら律に報告しようと思っていたが、どうしても律に連絡したくなった。あの日俺を外に連れ出してくれたお礼を言うつもりで電話をかけた。近況報告を終えると、律が信じられないことを口にする。
「そのアプリ俺もやってるよ。俺、クイズ研究会入ったんだけどさ、部員みんなやってる。高三の先輩たちとかレート化物みたいに高くてやばすぎ。巡はレートいくつ?」
頭が真っ白になった。何かの聞き間違いだと信じて、恐る恐る聞いてみる。
「お前、サッカーは?」
「ああ、やめた。サッカーはもういいかなって。なあ、今からアプリで対戦やんない? 俺、この一ヶ月で鍛えられたから結構強くなったぞ。入って初めて知ったんだけどさ、風月のクイズ研究会って日本で一位二位争うくらい強いんだってさ」
俺は楽しそうに話す律に苛立ち、電話を切って律の家まで押しかけた。
「律! 出てきやがれ!」
インターフォンのボタンを連打して、住宅地にも関わらず大声で律を呼んだ。たまたま律の両親が共働きで家に律しかいなかったものの、もし家族が在宅だったら確実に出禁を食らっていただろう。律は苦笑しながら家から出てきた。
「ボタン連打すんなよ。精密機械だから連打はやめてくださいってヤマ先輩も文化祭で言ってただろ。マナー違反だぞ」
文化祭で司会をやっていた眼鏡の人のことだろうか。おそらく高校生である知らない人を親しげにヤマ先輩と呼んだことから、本当に律はクイズ研究会の人間になってしまったのだと思い知る。へらへらした表情にとんでもなく腹が立った。
「ふざけるなよ! 俺はサッカー続けたくても続けられないのに、お前はそんなに簡単に辞めるのかよ! お前が中学でも続けろって言ったのに、俺の分まで頑張ってくれないのかよ。マジで何なんだよ、死ねよ」
感情にまかせて律を罵倒した。律は言い返さなかった。
「約束破ったのは悪いと思ってる。好きなだけ俺のこと殴れよ」
指切りげんまんの語源は、ゲンコツ一万回。俺は拳を握りしめた。律は臆することなく俺の目をまっすぐ見つめている。
拳をほどいた。殴れるわけがない。俺を立ち直らせてくれたのは律だ。今日だって本当は「ありがとう」と言いたくて電話をかけたはずだった。
サッカーも勉強も律には敵わない。クイズだってきっと律には敵わない。目に見えるもので何も勝てないのに、こうして人間としての格の違いまで見せつけられたら、立場が無いじゃないか。
「俺、お前のこと嫌いだ」
律は何も言わなかった。泣くことも怒ることもせず、強い眼光で俺を見つめている。これ以上顔を合わせているのが嫌になって背を向けた。
「大嫌いだ」
情けない捨て台詞を吐いて家に帰ろうとした俺に律が言葉をかける。
「だったら、俺のこと倒しに来いよ。高校はクイズ研究会があるところに入れよ」
酷い言葉を浴びせた恩知らずの俺に律は発破をかけた。
「言われなくとも。絶対お前のことぶちのめすから覚悟しやがれ」
「約束だからな」
律がどんな表情をしていたかなんて知らない。知りたくない。俺は振り返らず律の家を後にした。
俺は意地を張り続けた。律の連絡先はブロックした。言いそびれた「ありがとう」は二度と言わない。「嫌い」の言葉は撤回してやらない。
クイズ研究会設立に向けて一層努力した。クイズはサッカーと違って個人競技なので、部活とは無関係に律に挑む方法も考えたが、それは得策ではなかった。何しろ、クイズ研究会という組織を作らないと極端にクイズ大会やクイズの勉強法に関する情報にアクセスしにくいのだ。
律に謝って、日本最強のクイズ研究会の部員から色々教えを乞うという選択肢はなかった。そんなことをしたら俺のプライドが死ぬ。
中学生の間に律の鼻を明かすことは諦めた。でも、高校受験は絶対に競技クイズの強豪校に受かってやる。学校の授業は真剣に聞いた。受験に関係ない雑談が煩わしかったが、一つ印象に残っている話がある。英語の授業で“river”すなわち川という単語を習った日のことだった。
「皆さんにライバルはいますか? ライバルという言葉はriverから来ているんですよ」
思い浮かんだのは律の顔だった。
残念ながら俺の学校にクイズ研究会はなかった。新しく同好会を作るのには五人必要だったが、一人しか賛同してくれなかった。
唯一の賛同者は天文部に所属していた。文化部は基本的に兼部が許可されている。クイズ研究会を作れる人数が集まるまでの期間だけでも天文部に入ってみてはどうかと勧誘され、押し切られる形で天文部に入部した。
忘れられない出来事がある。学校の屋上での初めての天体観測だ。
「秋の夜空ってね、明るい星があんまりないの。でもね、だからこそあの星がすごく綺麗に見えるのよ」
顧問の先生が教えてくれた。確かに、秋の空は冬の空に比べて一等星が少ない。
「あの星、フォーマルハウトっていうんだよ。野村君、三月生まれのうお座だったよね? フォーマルハウトがあるみなみのうお座のモデルはうお座のお母さんなんだよ」
部長が続けた。入部時に書いたアンケートに書いた誕生日。それに絡めて星にまつわる神話を教えてくれた。
天文部は楽しい。先輩のしごきもないし、居心地がいい。命を燃やすような青春ではないが、これはこれで良いのではないかと思い始めた。
クイズ研究会設立の目処は全く立たなかったが、クイズのことも決して忘れたわけではなかった。天文部の同期が早押しクイズのアプリを教えてくれて一緒に楽しむようになった。その友達とのローカル対戦は大体俺が勝ったが、全国の強豪を相手にしたオンライン対戦ではなかなか勝てなかった。
アプリでの対戦も充分楽しいと思えた。穏やかで緩やかな青春。サッカー部の練習風景を見ても心がざわつくこともなくなった。サッカーを奪われた哀れな引きこもり時代から比べれば上出来だ。毎日が充実していると思えたから。
クイズ研究会を設立できたら律に報告しようと思っていたが、どうしても律に連絡したくなった。あの日俺を外に連れ出してくれたお礼を言うつもりで電話をかけた。近況報告を終えると、律が信じられないことを口にする。
「そのアプリ俺もやってるよ。俺、クイズ研究会入ったんだけどさ、部員みんなやってる。高三の先輩たちとかレート化物みたいに高くてやばすぎ。巡はレートいくつ?」
頭が真っ白になった。何かの聞き間違いだと信じて、恐る恐る聞いてみる。
「お前、サッカーは?」
「ああ、やめた。サッカーはもういいかなって。なあ、今からアプリで対戦やんない? 俺、この一ヶ月で鍛えられたから結構強くなったぞ。入って初めて知ったんだけどさ、風月のクイズ研究会って日本で一位二位争うくらい強いんだってさ」
俺は楽しそうに話す律に苛立ち、電話を切って律の家まで押しかけた。
「律! 出てきやがれ!」
インターフォンのボタンを連打して、住宅地にも関わらず大声で律を呼んだ。たまたま律の両親が共働きで家に律しかいなかったものの、もし家族が在宅だったら確実に出禁を食らっていただろう。律は苦笑しながら家から出てきた。
「ボタン連打すんなよ。精密機械だから連打はやめてくださいってヤマ先輩も文化祭で言ってただろ。マナー違反だぞ」
文化祭で司会をやっていた眼鏡の人のことだろうか。おそらく高校生である知らない人を親しげにヤマ先輩と呼んだことから、本当に律はクイズ研究会の人間になってしまったのだと思い知る。へらへらした表情にとんでもなく腹が立った。
「ふざけるなよ! 俺はサッカー続けたくても続けられないのに、お前はそんなに簡単に辞めるのかよ! お前が中学でも続けろって言ったのに、俺の分まで頑張ってくれないのかよ。マジで何なんだよ、死ねよ」
感情にまかせて律を罵倒した。律は言い返さなかった。
「約束破ったのは悪いと思ってる。好きなだけ俺のこと殴れよ」
指切りげんまんの語源は、ゲンコツ一万回。俺は拳を握りしめた。律は臆することなく俺の目をまっすぐ見つめている。
拳をほどいた。殴れるわけがない。俺を立ち直らせてくれたのは律だ。今日だって本当は「ありがとう」と言いたくて電話をかけたはずだった。
サッカーも勉強も律には敵わない。クイズだってきっと律には敵わない。目に見えるもので何も勝てないのに、こうして人間としての格の違いまで見せつけられたら、立場が無いじゃないか。
「俺、お前のこと嫌いだ」
律は何も言わなかった。泣くことも怒ることもせず、強い眼光で俺を見つめている。これ以上顔を合わせているのが嫌になって背を向けた。
「大嫌いだ」
情けない捨て台詞を吐いて家に帰ろうとした俺に律が言葉をかける。
「だったら、俺のこと倒しに来いよ。高校はクイズ研究会があるところに入れよ」
酷い言葉を浴びせた恩知らずの俺に律は発破をかけた。
「言われなくとも。絶対お前のことぶちのめすから覚悟しやがれ」
「約束だからな」
律がどんな表情をしていたかなんて知らない。知りたくない。俺は振り返らず律の家を後にした。
俺は意地を張り続けた。律の連絡先はブロックした。言いそびれた「ありがとう」は二度と言わない。「嫌い」の言葉は撤回してやらない。
クイズ研究会設立に向けて一層努力した。クイズはサッカーと違って個人競技なので、部活とは無関係に律に挑む方法も考えたが、それは得策ではなかった。何しろ、クイズ研究会という組織を作らないと極端にクイズ大会やクイズの勉強法に関する情報にアクセスしにくいのだ。
律に謝って、日本最強のクイズ研究会の部員から色々教えを乞うという選択肢はなかった。そんなことをしたら俺のプライドが死ぬ。
中学生の間に律の鼻を明かすことは諦めた。でも、高校受験は絶対に競技クイズの強豪校に受かってやる。学校の授業は真剣に聞いた。受験に関係ない雑談が煩わしかったが、一つ印象に残っている話がある。英語の授業で“river”すなわち川という単語を習った日のことだった。
「皆さんにライバルはいますか? ライバルという言葉はriverから来ているんですよ」
思い浮かんだのは律の顔だった。