俺は母親と二人暮らしだ。
母親は、不倫した父親を許せずに離婚届を突きつけ、俺が高校に入学したばかりの時に離婚した。父親が離婚届に判を押すまで二か月揉めた。時に、母親の甲高い声が近所中に響いている夜もあった。我が子が自立し親元から離れ暇を持て余しているのか、噂話や人の不幸を耳にすることが生き甲斐となった近所住民のババア達が、俺達家族の今後の生末を酒のツマミにし始めたのは言うまでもない。
毎晩、恥をさらす両親に対していい加減にしてくれとうんざりしていた。ようやく離婚を受け入れた父親は恥晒しの面を付けたまま家を出て行った。
その後、専業主婦だった母親は、毎日のようにパートに入り働き始めるが、今後大学受験を控えている俺のために、母親は思い切って夜の仕事を始めた。
スナックで働き始めた母親は、今まで薄化粧だったのが遠い昔の記憶のように、今では真っ赤な口紅を塗りたくり薄い唇を主張していた。上品だった服装は露出が多い服装へと様変わりした。冬服から夏服へと衣替えしたのかと疑うくらい全く別の服装に見えた。
一番変わったのはキッチンだった。いつ何時でも家に帰れば母親が待っていた家で、母親の生活場所の大半はキッチンだった。なのに、スナックで働き始めてからはキッチンに立つところを見ていない。キッチンが母親の城だったはずなのに、いつの間にか廃れた場所と化していた。
家に帰れば、母親が身支度をしている。甘い香水を振り撒いて、人間の恥みたいな恰好で出かけていく。朝起きると、アルコールの匂いが染みついた昨日の服がハンガーにかけられていた。フレグランスみたいに、その奇抜の服のせいでリビングはアルコールで充満していて不快だった。目線を下へとおろすと、母親が厚化粧も落とさずソファーに眠っていた。机には、男の名前が記された名刺が二、三枚散らばっている。母が夜の世界で何をしているのか、高校生の俺がわかるわけない。でもきっと、恥ずかしいことをしているのだ。俺のためなのかもしれない。でもやりたくない仕事だと弱音を吐いてくれれば、俺は大学に進学せず就職の道に進んでもいいと思っている。これ以上恥ずかしい母親にならなくてもいいんだ。なのに、母は絶対に弱音は吐かない。恥ずかしいまま生きていこうとする。この母親が、俺は恥ずかしい。そう思ってしまう自分は最低で、毎朝ソファーで眠る母親を見ると現実から目を背けたくなる。
「……死にてぇな」
そして、毎日死にたくなる。


「なんか面白い話ねぇの?」
今日はいつになく気分が沈んでいて、昼休憩中の屋上にて、俺は柿谷に面白い話を求めた。面白い話を求める奴に、面白い話をするには気が引ける。何気ない会話の中に面白さが詰まっているというのに。柿谷は芸人でもなんでもない、ただの地味な高校生なのだから。
だけど、柿谷は嫌な顔一つせず、眼鏡をクイっと上げて言うのだ。
「いいよ」
「お前、すぐ即答できるほど面白い引き出しあるの凄いよな」
「だって、人生って生きてればそこら中に楽しいこと転がってるじゃん」
「めっちゃお気楽マン」
毎朝、死にたいと呟いた数だけ、柿谷は面白い出来事を見つけている。俺の人生死ぬほどつまんねぇよマジで。
「この前、お母さんと買い物に出かけたんだけど」
柿谷が面白い話を始める。母親のことをお母さんって呼んでいるのか、可愛いな。そういえば、俺はどれくらい母親のことを〝母さん〟と呼んでいないのだろう。
「土曜の昼時だったから、バイパス道路がめちゃくちゃ渋滞してて、お母さん車に乗ると人格変わるタイプだからだんだんとイライラし始めたんだ」
「へぇ、意外だな」
「イライラし始めると、童話を三倍速で歌い始める癖があるんだ」
「癖強っ」
「十八番は森のくまさん」
「森のくまさんの三倍速聞きたくねー」
「スタコラサッサッサのとこなんてシャーって言ってる」
「おじょうさんが速すぎて落とし物渡せねぇじゃん」
柿谷のお母さんが想像の斜め上を行く人でツッコミが止まらない。これでは、全く話が進まない。
「その話はまた後で聞くとして、そんで?渋滞しててどうしたんだよ」
「そう、イライラがマックスに達したお母さんの目にある看板が映りこんだんだ」
「どんな看板?」
「結婚相談所」
「……その何が面白いんだよ」
「その結婚相談所の看板は、うちの孫でも結婚できましたってコメントしている老夫婦が朗らかに笑っていたんだ。それがお母さんの癇に障ったのか、まずお前の孫誰やねん!って関西人バリのツッコミを始めて」
「お前の母ちゃん情緒えぐいやん」
「怖すぎて動画撮ったんだ。見る?」
「金払ってでも見たい」
即答で頷くと、柿谷は制服のポケットからスマホを取り出し、写真アプリのアルバムから撮った動画を見つける。そして、「お母さんごめん」と言って再生ボタンを押す。
車内で撮影したその動画には、赤い眼鏡をかけた柿谷とよく似た女性が映っていた。この人が柿谷のお母さんか。見るからに優しそうな顔つきをしているが、関西人バリのツッコミをするとは思えない。
と思った瞬間、画面の柿谷のお母さんが吠えた。
『祖父母の円満な笑顔よりもまずその孫の顔が見たいねん!そんで、もっと息子の詳細書きいや!ただ社会に埋もれていただけの磨けば光る原石か、ただのゴミカスニートかで大いに話は違ってくるやろが!そもそも祖父母が両親より先にコメントするってどういうことや!』
『……祖父母が育ての親かもよ?』
急に冷静な柿谷の声が入ってくる。
『あら、そうやったら悪いこと言ったかも』
『ゴミカスニートって言ってたよ』
『ん-、ギリギリセーフかな』
アウトだよ。
『これお父さんとばあちゃんに送っていい?』
……なんで、この動画を家族に拡散?
「この動画はここまでなんだけど、その後が面白くてさ、あはははっ……クックックッ……ごめっ、あはははっ、あはっ、ひぃーっ、ガハハハッ!」
「めっちゃ思い出し笑いしてんじゃん。最後山賊みたいな笑い方してたぞ」
「あははははっ!」
「涙流しながら思い出し笑いしてオチまでいけないのを見ているこっちの身にもなれよ」
「ん、すまない」
柿谷は心を落ち着かせて、なんとか最後まで話そうと気持ちを切り替える。
「それで、イライラが収まらないお母さんが、ははっ、渋滞抜けようとして、グフッ、下道に逃げ込んだんだけど、迷子になってパニックになったお母さんが、ははっ、迷うことなくガードレールに突っ込んで、結果帰宅したのが日没頃だったんだ」
オチさえも想像の斜め上だった。
「なっ、面白いやろ?」
自信満々に柿谷が感想を求めてくる。笑ってくれていいんだよ、という顔でチラチラと俺の表情を伺ってくる。
この悲惨な一日を面白い一日で済ませるコイツの感性が面白かった。そして、結婚相談所の看板のくだりは多分要らなかったな。
「俺だったら、百パー死にたくなってた」
「えぇ、こんな面白いのに?」
「もうやめてくれ、母親の失態を息子が同級生に話していると知った時の心情を想像して、さらに死にたくなる」
「……お前、優しいんだな。人の母親のために死ねるって」
違う、そういう意味ではない。
「世の中さ、案外楽して生きられないようになってんだよな。楽な道通っても壁は存在するからな。その壁がガードレールだったってわけだ」
「上手い感じで終わろうとするなよ。頼むから、柿谷のお母さんの運転技術の心配をしてくれ」
「お前つくづく優しい奴だな、心配までしてくれて」
だから違うっ、そういう意味ではない!
「某人気アニメの主人公も言っていた。俺が知りたいのは楽な道のりじゃねぇ、楽な道の歩き方だ!って。下道通っても、調子に乗って運転したら痛い目合うんだな」
「人が作った名言にあやかりだしちゃったよ。面白い話にできなかったからって、いい話で締めようとするな。修復不可能だ、諦めろ」
「諦めたらそこで試合終了だろ!?」
「うるせえ!」
結局、その後も柿谷の面白い引き出しを三つほど開けて話してくれたが、全て想像の斜め上をいきイマイチ盛り上がらなかった。最後にはヤケクソで下ネタ話を持ってきたが、柿谷の性癖を暴露しただけで笑えるわけもなく、恥をかいた結果で終わった。そこで面白いエピソードトークは俺が強引に終わらせた。
「お前、今日恥しかかいてないぞ」
「そうだな」
「恥ずかしくて死にたくならねぇの?」
性癖も自分の口から暴露したというのに、柿谷は引くくらいに一仕事終えたような清々しい顔をしていた。
「俺は恥しかかいていないからな、慣れている」
「メンタル鋼かよ」
「恥かきたくないからって自分制限していたら人生面白くないからな」
俺は違う。面白い人生を求めるよりも、恥ずかしくない人間でいたい。不倫した父親にも、夜の仕事をする母親にも、俺はなりたくない。あんな恥ずかしい大人にだけは御免だ。
「俺は、恥はかくけど、自分を恥じたことはない」
柿谷はまっすぐに前だけを見据えて言った。
そして、首をひねり、俺の顔を見つめる。
「恥をかくことは、悪いことじゃない。
恥をかいたお母さんは心を改めて、落ち着いて運転するようになった。
自分の価値を恥じて、人の価値も恥じた時に、恥ずかしい人間になるんだよ」
柿谷の言葉が体の奥底で反響した。
俺は、両親を恥じている。そして、何より俺自身を恥じている。俺はもう既に恥ずかしい人間になってしまったのか。俺は、どんな大人になりたくて今の俺を否定し続けているのだろう。
「浅見」
「……んだよ」
柿谷のまっすぐな目が見れず、俯いて返事をする。
「お前は俺の恥もお母さんの恥も笑わなかった。お前はいい奴だよ」
夜空に流れ星でも見つけたかのように、顔を上げ柿谷を見る。朗らかな優しい顔をしていた。結婚相談所の看板の老夫婦が頭を過る。
不意打ちだからか、不覚にもその顔と言葉に泣きそうになった。
柿谷はフッと笑って、なぜか眼鏡をとる。相変わらずきゅるんきゅるんな目を見た瞬間、スーと涙が引っ込むのがわかった。
「かけるか?」
「なんでこのタイミングでお前の眼鏡を俺がかけると思ったんだよ」
「なんか視界を歪めさせたいかと思って」
泣きそうになっただけで、泣きはしねぇよ。アホが。
「要らねぇよ」
「そうか」
「……サンキュ」
「うん」
ホントにコイツといると調子狂う。
だけど……あの時、死ななくてよかったって思っている自分と出逢えるから不思議だ。