あの時、俺は死のうと思っていた───。


昼休憩、午前の授業が終わるチャイムがまだ鳴り響いている中、教室から続々と生徒達が廊下に出てくる。売店に行く生徒、食堂に向かう生徒、トイレに用を足しに行く生徒、弁当を手にし友達と肩を並べながら中庭に向かう生徒……そして、俺も然り、教室を出て屋上まで続く階段を駆け上がっていく。
最上階まで来ると、鍵も差し込めないほど鍵穴が錆びてしまった古びた扉を開けた。俺の長年使っている自転車から、ブレーキを踏んだ時に出る不快な音と全く同じ音が扉から聞こえる。顏を顰めながら扉を閉め、一息ついて顔を上げれば、青々とした空が青春を詰めこんだ俺達の校舎を見下ろしている。今日も快晴だ。
俺は屋上のアスファルトを踏み鳴らしながら、もう既に来ているソイツに近寄り、挨拶すらせずにソイツの隣に当然のように腰を下ろした。
持ってきた弁当はしばらく地面に置かれたまま、俺達は微かだが確かに動いている雲を目で追う。
あまりの静寂に耐えかねたように、屋上を覆うフェンスに止まったスズメがチュンチュンと鳴き始める。それが合図のように、ソイツは体と一部化した眼鏡をクイっと上げ、小さな口を開いた。
「昨日の休み、眼鏡屋行ったんだけど」
ソイツとの会話が始まる。
「新しくすんの?」
「いや、ただ俺も佐々木みたいな眼鏡男子でもモテる人間になりたいなって思って」
「……あー、佐々木眼鏡だけどモテるよな」
佐々木とは、お洒落な眼鏡をかけた三組の男子生徒だ。
ソイツは続ける。
「んで、俺も佐々木みたいなお洒落眼鏡買えば佐々木になれると思ったんだ」
「……おう」
まあ、最後まで聞いてやろう。
「行きつけの眼鏡屋で、佐々木みたいな眼鏡ありますかって店員に聞いたら」
「いや、店員佐々木が誰か分かんねぇだろ」
「でしたらコレですね、って持ってきたんだ」
「なんでわかるんだよ」
「そしたらびっくり、佐々木俺と同じ眼鏡してたんだ」
「……」
ソイツはまた佐々木と同じ眼鏡をクイっと上げた。急になんでもない仕草が目に滲みた。
「要するに、佐々木にとって眼鏡は顔の付属品であって、お前は顔が眼鏡の付属品になってるって訳だな」
ソイツは見せつけるように佐々木と同じ眼鏡を向けてくる。眼鏡の奥の目が死んでいた。
さすがに現実を突きつけすぎたかなと、言い終わった後で反省する。
「佐々木って、多分俺に憧れていたんだと思う」
おっと。
ここで話が終わらないのが、ソイツだ。
「俺は眼鏡歴十年だけど、佐々木はせいぜい二、三年程度だから。真似をしたのは佐々木の方なんだよ」
「すげぇ虚しい詭弁」
ソイツは黙りこくり、また天を仰ぐように空を見上げた。
またスズメがチュンチュンと泣き出す。きっとソイツの心も泣いているのだろう。
「お前って、死にたいって思ったことねぇの?」
アホみたいな話のあとにしては、割かし重い質問を投げた。
ソイツは度がつくほどポジティブな思考を持っていた。今みたいな。死のうかな、と毎日考えるネガティブな思考を持った俺は、ソイツの思考を知りたくなったのだ。
でも、ソイツは、
「ないね」
そう、即答した。
今死にたくなるような人間の顔面格差の話をしていた直後にでも即答できるソイツは、もはやアホ以外の何者でもないと思う。
「じゃあ、死んだ方がマシだって思う瞬間はねぇの?」
「……」
さすがにそれくらいはあるだろう。
「あー」
「あるのか?」
「今はまだ思わないけど、なんとなくその時期がくれば思うだろうなっていうのはある」
「ほう、聞かせろ」
やはりどんなにポジティブな人間でも死ぬことを考えない人間なんていないんだ。俺は、ソイツの声に耳を澄ました。
「将来、頭頂部だけがハゲたとき」
……………………は?
耳を疑った。
今、俺はそんな冗談を言うような空気を醸し出していただろうか。いや、大真面目に聞いたはずだ。なのになんだ?頭頂部だけがハゲたとき、だと?
「お前が女だった時、デブの男とハゲの男だったらどっちと付き合える?」
「……は?」
なんだそのどうでもいい質問は。
「なあ、迷うだろ?」
いや、俺はお前の質問に迷ったわけではなく、お前の発言に戸惑っているんだが。
「そういう究極の二択をして盛り上がっている女子の話を盗み聞きしてたんだけど」
「盗み聞きしてたのかよ、きもいな」
「女子達は迷った挙句みんなデブを選んだんだ。なぜだと思う?」
「デ」
「はい時間切れ~」
「シンキングタイムないのかよ」
「デブは本人を煽ててその気にさせれば痩せるかもしれないだろ?でも、ハゲは成すすべがないんだ。髪に費やせるお金もないとなればもう受け入れるほかない」
「マジで何の話?」
「しかも俺は考えたんだ。頭頂部だけがハゲるって絶望的だなって」
「……波平スタイルだもんな」
「波平さんになった気で俺は想像した。美容院で後頭部の髪の毛を切ってもらっている時の心情を。頭頂部ないのに、後頭部は伸びてくるってめっちゃ不便じゃね?うける、って心の中で笑っている美容師を……その時、軽く死ねるなって」
毎日のように死にたくなる瞬間に直面している自分の隣では、心底しょうもないことを想像し大袈裟に肩を震わせているソイツがいた。

そう、ソイツ───柿谷は出逢った時からしょうもないことをしていた。


サッカー部を逃げるように退部したあの時の俺は、毎日学校にいるとどうしても死にたい衝動に駆られた。ある日、その死にたい衝動がピークに達した。もうそれだけを考え、昼休憩に入った瞬間階段を駆け上がり屋上に足を踏み入れた。

死んでやる。死んでやる。死んでやる。そして、全員呪い殺してやる。

晴天の空なんて見向きもせずに俺は屋上のフェンスに手をかけ、右足もかけた。このフェンスを出て、飛び下りてしまえばあっという間に死ねる。簡単だ。死ぬことなんて簡単に手に入る自由だ。
それなのに、柿谷は俺を邪魔した。
雑音のような、人の声が扉の向こう側から聞こえてくる。そして、錆びている古びた扉を誰かが大熱唱しながら開けた。いや、熱唱ではなかった。雄叫びだった。
「ぐうおおおおおおお」
ソイツは頭を前後に振りながら、唸り声のような汚い声で叫んでいた。揺れる頭でも接着剤で固定したのかと疑うほど眼鏡は動かない。耳には有線のイヤホンがねじ込んであり、線が空中をブラブラと暴れ、ソイツの顔面に容赦なく当たっていたが、ソイツは気にも留めず無心で頭を振っている。
俺はというと、フェンスに体を預けたまま固まってその不審な動きをドン引いて見ていた。ソイツは、頭を振りながら俺の存在が目の端にでも映ったのか、電源を落としたようにピタリと動きを止めた。眼鏡をクイっと掛け直して、不審すぎるソイツは俺をまじまじと見てくる。
「いや、お前誰ぇ~?」
瞬間、ソイツはその場で倒れた。
「はあ!?おい!大丈夫か!」
フェンスから手を離し、俺は慌ててソイツに駆け寄る。横たわったソイツを上から覗き込むと、目をぐるぐると回していて、どうやら三半規管をやられているようだった
ポロッとソイツの耳から零れたイヤホンから爆音の音楽が流れてくる。めちゃくちゃパンクバンドだった。さっきの雄叫びはダミ声を真似ていたのだろう。それにしても酷すぎた。どこの野生動物かと思った。
「なあ、お前」
まだ目は回っているが少しはマシになったのか、ソイツは俺に必死で焦点を合わせようとしていた。
何を言われるのかと焦った。フェンスに足をかけ今にも飛び降りようとしていた光景を見られたんだ。教師に報告し親にでも連絡がいったら面倒だ。また母親が泣きついてくるかもしれない。なんとか誤魔化せる言い訳を考えている俺にソイツが声を放つ。
「名前、なんて言うんだ」
「……は?」
よくこんな恥ずかしい自分を俺に見られて、何も無かったかのように自己紹介しようと思うなぁ、と感心した。
それが、柿谷とのしょうもない出逢いだった。
それから俺達は、毎日の昼休憩中こっそりひっそりとこの屋上でしょうもない話を始めることになる。


「そもそも浅見くんよ」
柿谷に名前を呼ばれ、昔の記憶から抜け出し我に返る。
「死にたいと思うこと自体俺にとってはしょうもない質問なんだよ」
「……しょうもない?」
お前と俺の出逢いくらい、しょうもないことなのか?
「そんなこと思って死んでも死ななくても、人はどうせいつか死ぬ。死に急がなくても大丈夫だ。俺達はいずれ死ぬんだから、ここぞって時に残しておかなくては」
体と一部化した眼鏡をなぜか外しながら、柿谷は哲学者みたいな面持ちで当たり前なことを口にした。
今死んでも、明日死んでもきっと変わらない。柿谷の言う通りここぞって時に死んだらいい。楽観的なのか、それとも俺の心理を突いて言ったのか、はたまた何も考えていないのか。柿谷の考え方は俺という人間を否定も肯定もしないから一緒にいて心地よかった。
そんで、眼鏡を外した姿は意外と目がきゅるんきゅるんで可愛い。
「もしかして、それ俺に寄り添ってくれてるつもり?だとしたら、お前相当ヘタクソだぞ」
「あっ」
「なんだよ」
「死にたいって思った瞬間あった」
「何?」
「浅見に初めて会った日、パンクバンド熱唱してるところ見られたとき」
「お前、あの時死ぬほど恥ずかしかったんだな」
俺達のしょうもない会話を盗み聞きし、鼻で笑ったようにスズメがまた鳴いた。