翔の思い付きは相変わらず突拍子もなかったが、外に出ると言う目的は一致していたので了承した。この時間に営業しているお店があるとも思えないが、ごっこ遊びが目的なら外に出さえすれば翔も満足するだろう。
大騒ぎしていたのが嘘のように、抜き足差し足忍び足で廊下を歩く。器用なことに、翔は歩きスマホをしている。
玄関の鍵や判子がたくさん入った小物入れから車の鍵を探そうとしたところ、翔がすっと車の鍵をとってくれた。気を聞かせてくれたのだろう。声に出してお礼を言うと、逆に怒らせてしまいそうなのでアイコンタクトをすると、翔は親指を立てた。音がしないように過剰なほど丁寧に玄関の扉を閉める。
定食屋の駐車場に、ポツンと一台停まっている祖母の車。僕の目的地であるそこに辿り着くと翔にハイタッチを求められる。
「よっしゃ! ミッション第一段階クリア!」
ハイタッチの音が綺麗になった後、翔が鍵についているボタンを押して、車のロックを開けてくれた。助手席側の後部座席のドアを開けたところ、翔が僕を呼び止める。
「おいおい、乗るとこ、そこじゃねえだろ」
翔が何を言っているのか分からなかった。
「どういうこと?」
「言っただろ。今からコンビニ行こうって。車運転してさ」
「はあ?」
つい、乱雑な口調になってしまった。小学生相手に大人げないが、これ以上くだらない冗談には付き合っていられない。
「ひいばあちゃんち行ったんなら、小遣いもらっただろ? いくらもらったん?」
「歩いていくものだと思ってたけど」
「東京じゃねえんだから、二十四時間営業のコンビニなんてこの辺にあるわけないだろ。歩いて行ったら朝になるって」
そう言って、翔が運転席まで僕を連れて行き、シートに座るよう促す。
「まあまあ、立ち話もなんだからおあがりになって。これ、井戸端会議始まりそうな時のおばあちゃんのモノマネ」
不意打ちの一発芸に、つい口元が緩んでしまった。祖母のモノマネは、だいぶ特徴をとらえていた。裏声は少し大げさだが、口調やセリフのテンポは祖母そっくりと言って差し支えがない。きっと、さっき披露した担任のモノマネもクラスのみんなには受けているのだろう。
少し脱力した僕の両肩に手をかけ、翔が僕を運転席に座らせる。その後、翔は助手席側に乗ると勢いよく扉を閉めた。
「よーし、出発進行!」
翔がはしゃいでいる。僕は翔の幼児性と非常識さに心の底から引いていた。
「警察に捕まっちゃうよ」
「夜中だし大丈夫だよ。警察だって寝てるよ」
「でも、もし本当に捕まったら、トロイメライランドも行けなくなるよ」
無神経かもしれないが、トロイメライランドの話を持ち出して正論を冷たく言い放った。
「俺たち子供なんだし、見つかってもごめんなさいで済むって。こんな夜中に歩いてる人なんていないから、人轢いたりもしないって」
根本的な常識が無いくせに、ところどころ妙に知識があるのが厄介だ。
「大体、車の運転とかやったことないし」
「じゃあ、俺が運転する!」
翔は絶対に僕を論破するつもりのようだ。
「翔に運転なんてできるわけないじゃん。もっと現実的に考えろよ」
自分だって出来ない癖に棘のある言い方をしてしまう。いつから僕は、こんなに嫌な奴になってしまったのだろう。翔が悪いはずなのに、自己嫌悪に襲われた。しかし、翔は傷ついている様子を微塵も見せなかった。
「さっき検索しといた! なあ、行こうよ」
翔が得意気な顔をして、スマートフォンを僕に手渡す。車の運転の方法がこれでもかというくらいに丁寧に書いてあった。
エンジンの入れ方、ハンドルの握り方、オートマチック車のクリープ現象、スクロールするたびに知らない単語が出てくる。
今、姉は自動車学校でここに書いてあることを勉強しているのだろうか。兄はここに書いてあることを簡単に覚えられたから免許を持っている。姉だってきっと一発で試験に合格するだろう。父も母も祖母も免許を持っている。僕以外なら、翔を夜のコンビニどころか車でトロイメライランドに連れて行ってあげられるのだ。家族、親族の中で僕だけがそれをできない。翔が気の毒に思えた。
「翔はさ、何で僕と修学旅行ごっこなんてしたいの?」
ゲームが得意な兄でも、トロイメライランドに詳しくて恋愛指南ができそうな姉でもない、たまたまここにいただけの僕。翔が行きたがっていた修学旅行を楽しんだことを後悔し、さらには欠席を決めた僕。空っぽで意地悪な僕。
「だって、清正くんと遊ぶの楽しいし」
翔は即座に答えた。シートベルトをしたまま、屈託のない笑顔を僕に向ける。
「清正くん真面目だから、ゲームとか全部本気でやってくれてすごく燃える」
兄みたいに器用に手加減が出来ないだけなのに、翔はそれを長所だと言ってくれた。
「明日もまた修学旅行ごっこやろうぜ。明日のミッションは、ばあちゃんからトランプ取り返すってことで。それでさ、毎晩スピード二人で特訓したら夏の終わりには賢正くんにも勝てるようになるだろ」
明日も、遊んでくれるのだろうか。翔と遊んでいる時は嫌なことも全部忘れてゲームに没頭できた。受験が終わるまでは何かを楽しんではいけない。そう思い込んでいたけれど、あの時だけは息が苦しくなかった。僕はようやく気付いた。修学旅行ごっこは確かに楽しかったのだ。
僕の頬を温かい涙が伝う。本当は苦しくて、誰かに助けてほしかったくせに、その手は全部拒んだ。修学旅行に行けない翔を救ったつもりでいたけれど、救われていたのは僕の方だった。何年も張りつめていた気持ちが緩んだせいで、涙が止まらなかった。
いつもふざけてばかりの翔は僕の泣き顔を茶化すことはしなかった。僕の手をとると、鍵を握らせて、上から両手で包み込んだ。
涙をパジャマの袖で拭って大きく深呼吸した。ドアを勢いよく閉める。外の虫の声や風の音が全部遮断されて、もう翔の期待の声だけしか聞こえない。
鍵を差し込み、運転の工程を反芻する。ブレーキペダルを踏みこんで、鍵を回して車のエンジンをかけた。エアコンが同時に起動して、冷たい風が体に当たる。サイドブレーキを解除して、ギアをパーキングからドライブに変えた。これで、いつでも車は動く。
大それたことをしている。僕が失敗すれば、大怪我をするかもしれないし下手をすれば死ぬかもしれない。こんな自暴自棄に見える人間に命を預けて、翔は怖くないのだろうか。
「いいの? 事故起こした時って、助手席の方が危ないんだよ」
翔が見せてくれたウェブサイトに書いてあったことを教え、最後にもう一度確認する。
「一連托生だよ、清正くん」
翔は無邪気に笑って親指を立てた。それを合図に、僕はブレーキペダルから足を離した。車はゆっくりと前へ動き出す。
「いやっほー!」
翔が手を叩いて大喜びする。アクセルを踏んでいないので、祖母の運転より遥かに遅いスピードでしか動いていないのに、まるでジェットコースターに乗っているかのようなはしゃぎようだ。
もう少しで公道に出る。例のウェブサイトに曰く、僕有地での運転は罪にならない。しかし、その境界を踏み越えれば、僕たちは無免許運転の共犯者となるのだ。
背徳的な響きにわくわくしていた。僕たち二人だけの世界から、未知の世界まであと五メートル、四メートル、三メートル……。
大騒ぎしていたのが嘘のように、抜き足差し足忍び足で廊下を歩く。器用なことに、翔は歩きスマホをしている。
玄関の鍵や判子がたくさん入った小物入れから車の鍵を探そうとしたところ、翔がすっと車の鍵をとってくれた。気を聞かせてくれたのだろう。声に出してお礼を言うと、逆に怒らせてしまいそうなのでアイコンタクトをすると、翔は親指を立てた。音がしないように過剰なほど丁寧に玄関の扉を閉める。
定食屋の駐車場に、ポツンと一台停まっている祖母の車。僕の目的地であるそこに辿り着くと翔にハイタッチを求められる。
「よっしゃ! ミッション第一段階クリア!」
ハイタッチの音が綺麗になった後、翔が鍵についているボタンを押して、車のロックを開けてくれた。助手席側の後部座席のドアを開けたところ、翔が僕を呼び止める。
「おいおい、乗るとこ、そこじゃねえだろ」
翔が何を言っているのか分からなかった。
「どういうこと?」
「言っただろ。今からコンビニ行こうって。車運転してさ」
「はあ?」
つい、乱雑な口調になってしまった。小学生相手に大人げないが、これ以上くだらない冗談には付き合っていられない。
「ひいばあちゃんち行ったんなら、小遣いもらっただろ? いくらもらったん?」
「歩いていくものだと思ってたけど」
「東京じゃねえんだから、二十四時間営業のコンビニなんてこの辺にあるわけないだろ。歩いて行ったら朝になるって」
そう言って、翔が運転席まで僕を連れて行き、シートに座るよう促す。
「まあまあ、立ち話もなんだからおあがりになって。これ、井戸端会議始まりそうな時のおばあちゃんのモノマネ」
不意打ちの一発芸に、つい口元が緩んでしまった。祖母のモノマネは、だいぶ特徴をとらえていた。裏声は少し大げさだが、口調やセリフのテンポは祖母そっくりと言って差し支えがない。きっと、さっき披露した担任のモノマネもクラスのみんなには受けているのだろう。
少し脱力した僕の両肩に手をかけ、翔が僕を運転席に座らせる。その後、翔は助手席側に乗ると勢いよく扉を閉めた。
「よーし、出発進行!」
翔がはしゃいでいる。僕は翔の幼児性と非常識さに心の底から引いていた。
「警察に捕まっちゃうよ」
「夜中だし大丈夫だよ。警察だって寝てるよ」
「でも、もし本当に捕まったら、トロイメライランドも行けなくなるよ」
無神経かもしれないが、トロイメライランドの話を持ち出して正論を冷たく言い放った。
「俺たち子供なんだし、見つかってもごめんなさいで済むって。こんな夜中に歩いてる人なんていないから、人轢いたりもしないって」
根本的な常識が無いくせに、ところどころ妙に知識があるのが厄介だ。
「大体、車の運転とかやったことないし」
「じゃあ、俺が運転する!」
翔は絶対に僕を論破するつもりのようだ。
「翔に運転なんてできるわけないじゃん。もっと現実的に考えろよ」
自分だって出来ない癖に棘のある言い方をしてしまう。いつから僕は、こんなに嫌な奴になってしまったのだろう。翔が悪いはずなのに、自己嫌悪に襲われた。しかし、翔は傷ついている様子を微塵も見せなかった。
「さっき検索しといた! なあ、行こうよ」
翔が得意気な顔をして、スマートフォンを僕に手渡す。車の運転の方法がこれでもかというくらいに丁寧に書いてあった。
エンジンの入れ方、ハンドルの握り方、オートマチック車のクリープ現象、スクロールするたびに知らない単語が出てくる。
今、姉は自動車学校でここに書いてあることを勉強しているのだろうか。兄はここに書いてあることを簡単に覚えられたから免許を持っている。姉だってきっと一発で試験に合格するだろう。父も母も祖母も免許を持っている。僕以外なら、翔を夜のコンビニどころか車でトロイメライランドに連れて行ってあげられるのだ。家族、親族の中で僕だけがそれをできない。翔が気の毒に思えた。
「翔はさ、何で僕と修学旅行ごっこなんてしたいの?」
ゲームが得意な兄でも、トロイメライランドに詳しくて恋愛指南ができそうな姉でもない、たまたまここにいただけの僕。翔が行きたがっていた修学旅行を楽しんだことを後悔し、さらには欠席を決めた僕。空っぽで意地悪な僕。
「だって、清正くんと遊ぶの楽しいし」
翔は即座に答えた。シートベルトをしたまま、屈託のない笑顔を僕に向ける。
「清正くん真面目だから、ゲームとか全部本気でやってくれてすごく燃える」
兄みたいに器用に手加減が出来ないだけなのに、翔はそれを長所だと言ってくれた。
「明日もまた修学旅行ごっこやろうぜ。明日のミッションは、ばあちゃんからトランプ取り返すってことで。それでさ、毎晩スピード二人で特訓したら夏の終わりには賢正くんにも勝てるようになるだろ」
明日も、遊んでくれるのだろうか。翔と遊んでいる時は嫌なことも全部忘れてゲームに没頭できた。受験が終わるまでは何かを楽しんではいけない。そう思い込んでいたけれど、あの時だけは息が苦しくなかった。僕はようやく気付いた。修学旅行ごっこは確かに楽しかったのだ。
僕の頬を温かい涙が伝う。本当は苦しくて、誰かに助けてほしかったくせに、その手は全部拒んだ。修学旅行に行けない翔を救ったつもりでいたけれど、救われていたのは僕の方だった。何年も張りつめていた気持ちが緩んだせいで、涙が止まらなかった。
いつもふざけてばかりの翔は僕の泣き顔を茶化すことはしなかった。僕の手をとると、鍵を握らせて、上から両手で包み込んだ。
涙をパジャマの袖で拭って大きく深呼吸した。ドアを勢いよく閉める。外の虫の声や風の音が全部遮断されて、もう翔の期待の声だけしか聞こえない。
鍵を差し込み、運転の工程を反芻する。ブレーキペダルを踏みこんで、鍵を回して車のエンジンをかけた。エアコンが同時に起動して、冷たい風が体に当たる。サイドブレーキを解除して、ギアをパーキングからドライブに変えた。これで、いつでも車は動く。
大それたことをしている。僕が失敗すれば、大怪我をするかもしれないし下手をすれば死ぬかもしれない。こんな自暴自棄に見える人間に命を預けて、翔は怖くないのだろうか。
「いいの? 事故起こした時って、助手席の方が危ないんだよ」
翔が見せてくれたウェブサイトに書いてあったことを教え、最後にもう一度確認する。
「一連托生だよ、清正くん」
翔は無邪気に笑って親指を立てた。それを合図に、僕はブレーキペダルから足を離した。車はゆっくりと前へ動き出す。
「いやっほー!」
翔が手を叩いて大喜びする。アクセルを踏んでいないので、祖母の運転より遥かに遅いスピードでしか動いていないのに、まるでジェットコースターに乗っているかのようなはしゃぎようだ。
もう少しで公道に出る。例のウェブサイトに曰く、僕有地での運転は罪にならない。しかし、その境界を踏み越えれば、僕たちは無免許運転の共犯者となるのだ。
背徳的な響きにわくわくしていた。僕たち二人だけの世界から、未知の世界まであと五メートル、四メートル、三メートル……。



