二年半前、中学受験に失敗した。王緑(おうりょく)大学附属中学に入れなかった。
 両親はともに私学の雄として名高い王緑大学の出身で、五歳上の兄も三歳上の姉も中学から王緑に通っている。
 小学校六年生の秋、日曜日をはさんで行われた修学旅行が塾の組分けテストと被った。テストを受けられなかった僕は選抜クラスから転落した。塾の広告塔としての役割が期待される生徒が集まる選抜クラスとそれ以外では、講師陣の目の掛け方も授業のクオリティも天と地ほどの差がある。
 受験直前の大事な時期を棒に振った僕は受験に落ちた。もっと勉強すればよかった。もう少しだけ我慢すればよかった。例年より規模の縮小したしょぼくれた修学旅行なんて行かなければよかった。
 王緑大学附属中学の修学旅行の行き先も、僕の小学校の行き先もどちらも京都だった。僕が帰って来て一週間後に京都に行った姉は、僕のお土産と同じメーカーの八ッ橋を買ってきた。どうせ同じところに行くのなら、ちゃんと王緑に入ってから行けばよかった。
 五年生の冬に妙な新型感染症が世界中で流行し始めたときは、このまま世界が終わってしまうのではないかと怖かった。世界滅亡が怖くて泣いたこともあるくせに、不合格発表を見た瞬間、いっそ世界なんて終わってしまえばいいと思った。あれから二年半、世界は終わらなかった。
 コロナ禍以前の中学校生活がどんなものだったかは知らない。どうせ世界が平和でも僕の生活は何も変わらない。遊んでいる暇があったら高校受験の勉強に励むべきだ。
 パンデミックは終息しつつある。兄や姉と同じように王緑大学附属高校でキラキラした青春を送るんだ。
 そう思って寝る間も惜しんで勉強していたのに、三年生の一学期に成績が少し落ちた。取り戻すために、今までの三倍勉強した。それなのに、塾の夏期講習の日々のテストの順位は下がるばかりだ。
 少し前に勇樹が親御さんに京都のガイドブックをもらったらしい。よりにもよって小学校と同じ行先だ。一緒に自由行動の計画を立てないかと勇樹の家に誘われた。僕は断って、修学旅行そのものを欠席する旨を伝えた。修学旅行なんて行っている暇はない。それに、僕にとって勇樹は唯一の友人だけれども、勇樹には僕以外にもたくさん友達がいる。

 夕食の餃子の味も、祖父の僕を気遣う言葉も全部どこか他人事に感じられた。スマートフォンを車の中に忘れたことに気づいたのは、夕食もお風呂も済ませた後だった。取りに行こうと思ったが、高地の天気は変わりやすいのか、雨が少しパラついている。せっかくお風呂に入ったのに、また濡れるのは嫌だったので回収は明日にすることにした。
「おばあちゃん、コーヒー飲みたい」
 夜中の勉強のお供にはコーヒー。東京ではいつも父が淹れてくれていた。
 僕が父の栄養ドリンクを勝手に飲んでいるのが発覚したのがきっかけだった。肝臓や腎臓への悪影響があるから子供が飲んではいけないものだと、保健体育の授業のように諭された。代わりに、コーヒーを淹れてくれるようになった。
 適当なお菓子で糖分を補給しながら深夜まで勉強することが日課だった。時折母が作ってくれた鮭のおにぎりはコーヒーとは合わなかったけれどとても好きだった。
「ごめんね。うちにはないのよ。おじいちゃんもおばあちゃんもコーヒー飲まないから。麦茶じゃだめかしら?」
 祖母の家に来ると、いつも祖母が父にコーヒーを淹れていた。あの頃は父のために買っていたのだろう。今回の訪問に父は同行していないので準備していないのも仕方がない。しかし、麦茶では眠気を飛ばせない。
「じゃあ、自販機で買ってくる。ここから一番近い自販機どこ?」
「この辺りには自動販売機はないのよ」
 麦茶をコップに注ぎながら祖母が答える。なんて不便なのだろう。父が出張でドリップコーヒーが飲めない夜は、マンションの一階の自動販売機で缶コーヒーを買っていた。ロビーのそれを含めて、僕の住んでいる一九〇二号室から中学校までわずか徒歩八分の通学路には五台も自動販売機があるのだから、一台くらい今この地域に分けてくれればいいのに。
「じゃあ、明日でいいや。明日スーパー連れてってよ」
「分かったわ。明日の朝、一緒に行きましょうか」
 コップに入った麦茶を一気飲みして、僕は布団の敷いてある離れに行った。
 田舎の悪いところは自動販売機もスーパーもコンビニも徒歩圏内にないところ。いいところはクーラーが無くても窓を開ければ涼しい夜を過ごせるところ。エアコンの風による乾燥に邪魔されることなく勉強ができる。
 しかし、いくら環境が良くともカフェインが切れると苛々する。つい嫌なことばかり思い出してしまう。息苦しさが僕を襲った。

 勇樹の誘いを断った数日後、塾で急にお腹が痛くなって倒れた。塾には救急車が来た。ストレス、過労、睡眠不足。総括すると受験ノイローゼ。両親は過度なスパルタ教育の疑いをかけられた。担当医、塾の先生、どこからか聞きつけた養護教諭と担任。完全な冤罪であるにもかかわらず、母は四度も同じ弁明を強いられた。
 中学に入ってから、両親は僕に勉強を強要したことは一度もなかった。両親の顔に泥を塗ったことも、僕だけが落ちこぼれていることも申し訳なくて仕方がなかった。
「ゆっくりしてきなさい」
 両親も思うところがあったのか、お盆までの残りの夏期講習をキャンセルして、父の実家で療養することになった。もうどこも悪くないのに。
 朝から晩までかじりついていた勉強用のタブレットは置いていくように言われた。デジタルデトックスと母は表現したが、学校の友達との関係には配慮してくれたのか、スマートフォンは持ち込みが許された。とはいっても、僕のスマートフォンには家族と勇樹以外から連絡は来ない。
 ついでに数学の問題集をこっそり一冊だけ持ち込んだ。僕は空がほんのり明るくなるまでそれを解き続けた。