部屋の外から足音が聞こえて、アオはどきりとして振り向いた。
近づいてくる人がもし椿であるなら、早く立ち去った方がいい。持っている本を戻す場所を探して、やや急ぎ足に、書斎の奥へ足を進める。
だが、本を戻す前に、書斎の扉が開かれた。
躊躇いはあったが、隠れる訳にもいかない。顔を確認するため、本棚から身を乗り出す。
「あ、お爺様でしたか」
「おう。勉強中かい」
虎太郎の手には本があった。自分と同じく、読み終わった本を戻しに来たらしい。書斎は真井家の区画にある上に二階なので、本の返却だけならば松田やアオに任せることが多いのだが、ちょうど呼んで聞こえる範囲に松田がいなかったのだろう。あるいは、自分の目で次に読む本を決めるためかもしれない。
「勉強……には違いありませんが、受験とは何ら関係のない、個人的な勉強です。と言いますか、お恥ずかしながら、ほぼ息抜きです」
「それも大事なことだ。それに、どこ狙うにしても点数は特に心配ねえって聞いたぜ」
「はい。おかげさまで」
進路について改まって話したのは、ほとんど、以前虎太郎の部屋に呼び出されたあの時以来だ。受験料や授業料、合格後の生活に、仮に不合格になった後の計画など、必要なことを伝えた際には、物足りないくらいに呆気なく、全て諾されて終わってしまった。
「今のところ先生には、余程のことがなければ志望校には合格できるだろう、とお墨付きをもらっています。もっと上を狙わないかというお話しもありましたが、他ですと、家を出なければいけなくなりそうなので、以前お話しした内容から特に変更する予定はありません。……もし、椿様やお爺様が変更しろと仰るのであれば、やぶさかではありませんが」
「お前さんが良ければいいさ。椿もそう言ってるだろう」
「ありがとうございます」
「しかし、何だったか。建築学だったか? そこに興味があるとは知らなかったから、ちょっと気になりはしたが」
正しい学部名は異なるが、おおよそその類について学ぶつもりではあるので、訂正はしない。
「親の心子知らずとは言うが、お前さんの場合は全く逆だな。俺が知らねえことばっかりだ」
「いえ。お爺様には、充分すぎるほど、お気遣いいただいています」
「堅いねえ」
しかし、とアオは思う。実際、物足りないとは思ったことについては、フォローできていない。虎太郎に知られてはいないから良いという問題ではない。これはいわゆる面従腹背と呼ばれる行いだ。
物足りないと思うくらいならば、自分から、もっと知ってほしいと言えば良かったのである。
今からでも遅くはないかと、口を開いた。
「志望については、私も夏頃、急遽決めたことでして。少しふざけた言い方をするのであれば――私自身、私がそうするとは、知りませんでした」
「衝動か」
「……そう言われる程、強い感情があった訳ではありませんが」
言葉を選ばずに言えば、どうでも良くなったので、どうでもいいなりに、その時最も「まあ悪くはない」と思えた道を選んだ、となる。ただ虎太郎にそのまま言うことは出来ない。
こういう時アオは、最後の決め手となった理由を、述べることにしている。
「椿様と同じ名をした木がある庭や、お世話になっているこの家を、自分の手で手入れできたらいい、と思っただけです。それに、椿様が以前、庭にはあまり興味がないと仰られていたので……興味のない分野であれば、椿様の足りない部分を補えて、より椿様のお役に立てるのではないかと。ついでに、直接的ではないかもしれませんが、工学系ではあるので、晴田見グループへの就職にも使えるかもしれない、という気持ちも少し」
「……あぁ、庭。ずいぶんと放って置いてるからなぁ」
庭が、虎太郎の妻である希彩の管轄であったことを、虎太郎の呟きで思い出した。
「あ、お婆様の庭であった、ということは存じております。そうでなくとも、お爺様の許可なく、好きに庭を作り変えるようなことは考えておりません。充分な能力が身につくのは、何年も先のことでしょうし……」
「いや、俺も庭は分からねえからな。今もほとんど庭師にお任せだ。お前さんがやりてえと言うのなら、止める奴は、この家にゃいねえよ」
本が日焼けしないよう、書斎の窓は塞がれている。だが虎太郎の視線は、壁の向こう側を見ているようだった。
「……それに。希彩の考えを、俺が勝手に代弁する訳にもいかねえが――あいつは、実力さえあれば、人は問わねえ奴だった。人間はいつでも零からだ、つってな。だから、能力さえ足りれば、文句は言わねえだろう」
ただし、その能力は高い水準を求められるのだろうと思いつつ、アオは頭を下げた。
「足りるよう、努力します」
「無理はすんなよ。そこだけが、青の悪いところだ」
「はい、ありがとうございます。気をつけます」
椿も言いそうなことだ。やはり、祖父である。
思わず笑みがこぼれた。
「ところで、もし良ければ、本の返却は私がしておきます」
「ん、そうかい。じゃあお言葉に甘えて。ついでに、次に読む本も見繕ってくれや。俺の趣味なんか考えなくていいからよ」
「それは……少々お待ちくださいませ」
虎太郎は書斎に置いてある踏み台に腰を下ろした。
書斎は、本の購入者ごとに本棚が分かれている。虎太郎の本棚にある本から選ぼうとすると、どれが読んだことのある本で、どれが積読なのか分からない。仕方なく自分の本棚から本を選んでいると、書斎の外から、再び足音が聞こえてきた。
「……何だ、人数が多いな」
部屋の片付けでもしているのか、何冊も本を抱えた椿が、書斎に入ってきた。
同じ家に住んでいれば、たまにはこういうこともある。
ただ、今であってほしくはなかった。
アオは、まだ戻す場所を見つけられていない、自分が持ってきた本を、そっと椿にタイトルが見えないように持ち直した。
「椿さんも、本の返却ですか? 私が戻しておきますよ」
「いや、量あるし、ついでに本棚の整理もしようと思ってたから、いい。……にしても狭ぇな。増築してくれよ爺さん。それか、二階の階段上にある客間、潰そう。使う当てねえし」
「おめえ、ここの向かいの客間にも、勝手に本棚置いてんじゃねえか。知らねえと思ってんのか。ちょっとは減らせ。一階が潰れるぞ」
「あそこはもう、ほぼ俺の部屋みたいなもんだろ」
松田ならば上手くいなせるのだろうが、アオにはそのスキルはない。意見を求められると困るので、どちらかには早めに去ってほしいところだ。
「お爺様、本、こちらはいかがですか。私の購入した本なのですが、つい最近、著名な賞を獲得した漫画です。実際とても面白いですし、シリーズではなく、この一冊で完結するものですから、たまには良いかと」
強引に話をそらす形で割り込んだ。
「ほう。じゃあ借りてくかな」
「戻す時には、お声かけいただくか、私の部屋に置いておいてください」
「はいよ」
虎太郎が踏み台から立ち上がろうとする。腕を貸すため、アオは身をかがめた。
その拍子に、首元から、ネックレスが滑り出た。
「お? 珍しく、洒落たもんつけてるじゃねえか」
「あぁ……はい。触らないでくださいね。椿様からの贈り物ですので」
「ほーう?」
のばされかけていた手が引っ込んだ。
ネックレスの先には、夏休みの時に椿にもらった指輪を通している。指にはめて、家事などで傷つくことを防ぐためだ。さすがに平日は学校があるのでつけられないが、休日にはつけるようにしている。
「贈り物で指輪ねえ」
けらけらと虎太郎は笑う。
「とうとう、っつうよりは、やっと、だな。まあ、生きてる間で良かった。零子が結婚しねえのは、本人の自由だからまあ仕方がねえが、本音言や、娘の結婚式ってのが見てみたかったんだ、俺は」
「結婚するかは未定ですから、あまり期待しないでください。階段下までお送りした方がよろしいですか?」
「いい、いい。そこまで鈍っちゃねえし、あとは若ぇお二人で」
「……調子に乗るなよ爺さん」
抑えた声が聞こえて、椿のことを思い出した。
そう言えば椿には、あえて隠し通すこともないが、できれば大っぴらにはしないでくれ、と頼まれていた。
「あ、すみません、椿さん。バレました」
「……や、まあ、大概バレてたからいいけど」
「じゃああれだな。今度から、小さい頃からどれだけ椿が青のこと気にしてたか、隠す必要もねえってこったな!」
「言ッ――うなよマジで!」
「お爺様、椿様が嫌がっていらっしゃるので、その辺りで」
椿は本を抱えたまま、虎太郎を追い払うように、足で宙を蹴る。
ただ、虎太郎が書斎を出ていこうとすると、赤い顔で言った。
「……式は見せてやるつもりでいるから、精々長生きしろ」
虎太郎は上機嫌で歩いていった。
アオはやや居心地の悪さを覚える。
椿の言葉は嬉しいものの、まだ、確定ではない。恋人ですらまだない。
椿に対しては誠実でありたいので、恋でないと思ったら、あくまで断るつもりである。
だが、これで最終的に恋人にはなれないとアオが言ったら、各所を相当残念がらせてしまうだろう。椿と自分のことなのだから、他の人間のことなどどうでもいい、とは言えさすがのアオも心苦しい。
椿だけのせいではないが、外堀を埋められた感があった。
なお、各所と言っても、今のところ報告しているのは、喜多野と松田と虎太郎、それともう一人。
「美鶴と同じこと言いやがって」
「そう言えば、言われましたね」
正確に言えば、美鶴には「真井くんからされたノロケ、聞かせてあげる」と言われた。その時も椿に止められたので、アオは何も聞けていない。
椿のアオへの恋心は、周知の事実であったらしい。知らぬは亭主ばかりなりということわざは、妻の不貞が元だそうだが、これはその逆である。アオばかりが椿の気持ちを何も知らなかった。
どさりと、本が置かれる音がした。椿が自分の棚に、本を戻している。
「女子高生と同じ感性だぞ、って言ってやりゃ良かったか。……何かそれはそれで喜ばれそうだな」
そう言えば、とアオは自分の手にある本を見た。
アオが戻しにきた本は、無断で、椿の本棚から借りたものである。書斎に置いてある本は、誰の棚に置いてあろうと、全員の共有財産だという不文律ができてはいるものの、本を借りた動機が動機のため、椿の前では本棚に戻しにくい。
ただ、虎太郎が戻るのを見送ってしまったので、では自分もこれで、とも言いにくい。
単純に、椿と一緒にいたくもある。
「すみません、隠せなくて」
本気で怒っているようには見えなかったので、アオは軽く笑って応じた。
「けれど、申し訳ないのですが、安心しました。仮に結婚に至るとしても、お爺様に反対されることはなさそうで」
「……そうですね。真井も含めて、うちはないから、財産争いとかそういうの。アオを養子に取る時にも反対なかったし。みんな揃って独立独歩……人間はいつでも零から、ってな」
「奇遇ですね、ついさっき、お爺様もそれを。お婆様の言葉ですよね」
今までも何度か聞かされたことがある。晴田見家に引き取られたばかりの時にも言われたことを、鮮明に覚えている。
「元々、結構な家柄だったらしい婆さんが、家に頼らずに生きていきたい、つって爺さんと始めたのが、今の会社だから。子どもにも空斗と零子、ってつけるくらいだし、筋金入りだ。俺はともかく、父さんは家に頼ろうとするとぶん殴られてた――は言い過ぎだが、叱られてはいた。零子さんは零子さんで、自由すぎるって文句言われてたけど」
「そうすると、私など、かなり怒られそうですね。椿さんに依存してばかりで」
「アオは大丈夫じゃねえ? 零からって言っても、何にも頼るな、ってことじゃない」
本を片付ける手が止まり、椿の目は閉じられた。
「つまり、一生懸命やれ、ってことだったと思う。自分は何にも持ってない人間だって言い聞かせて退路を断ち、思い上がらず、常に真面目に、馬鹿にせずに、まっさらな気持ちで取り組む。そんな感じ。――似てたよ、アオと。だから大丈夫どころか、むしろ気に入られるんじゃないか」
「そこまで立派な人間ではありませんが……そういう方と似ていると言われるのは、嬉しいです。ありがとうございます。頑張ります」
「頑張るのはいいけど、頑張りすぎるなよ。そこだけが信用ならねえんだよ、アオは」
「ふふ、はい。ご心配なく。今日もちゃんと息抜きしています。それでここにいるのです」
そこに椿が来てしまったため、本を戻せず、やや困っているところである、とは言えない。
ひとまず虎太郎から預かった本を、作者の名前順に並んだ虎太郎の本棚に戻す。元々持ってきた本は一旦持ち帰って、また椿のいない時に戻す方が良いかもしれない。
ただしその場合は、この本がないことに椿が気づかないように、自室で祈らねばならない。
「……あの、椿さん。何かお手伝いできることはありますか?」
「ない。しいて言えば、ここにいて話し相手になってくれると嬉しい。忙しいなら引き止めはしないが」
「いえ……。ひとまず今日の目標は達成したので……忙しいと言う程のことは」
自ら退路を断ってしまった。退路を断ち、と言っても、こういうことではないように思う。
先程、虎太郎が腰かけていた踏み台に、アオも腰かける。
椿は床に置いた本を棚に戻し、時々取り出して、別の本棚へ移す。書斎で最も面積を取っているのは、椿の本棚だ。
ぼんやりとその横顔を見る。
夏休みが終わり、近頃は秋の気配が漂うようになったが、いまだに恋とは何か分からない。
変化はあった。距離が近づくと緊張するようになった。二人きりになると、話す内容に気を遣うようになった。
ただ、果たして恋かと言われれば、断言はできない。一緒にいたいのは椿が一番だが、楽しさという点で言えば、喜多野といた時の方が、楽しかったと思う。
ちなみに喜多野に相談したところ「キスできるかどうかで判断したら? あと、できれば俺には相談しないでね」と言われたが、できるかどうか以前に、想像ができない。
「……さっき、結婚式、見せてやるつもり、と言っていましたが」
「あぁ悪い。勢いで」
口だけだ。表情は全く悪びれていない。
「私に言う分には構いませんが、まだ未確定ですから。恋人よりも先の話ですし。期待をさせて、そうならない、となったら申し訳ないですし、私も外堀を埋められている感があって、複雑です」
「それは……本気で申し訳ない。ごめんなさい」
本を棚に置いて、頭を下げられたので慌てた。
「あっ、謝る程のことではないです。それに、恋人になるかどうかという決断自体は、卒業を待たなくてもいい訳で、それがまだできていないのは、私があやふやなせいなので」
「まだ迷ってるのか。いや、アオが納得するまでは待つが。卒業後に告白するからってだけで、その時に返事くれとは、一言も……言ってないから……」
「ちゃんとその時までに、私なりの答えは出しますよ! 答えのない問題なのに、期限までうやむやになったら、一生考え続けることになってしまいます」
顔を上げながら、椿は微妙な表情を見せる。何か言いたげだ。迷うように目をそらした後、結局、言いにくそうにではあったものの、口にした。
「それ、そんなに難問か?」
「えぇ? 歴史に名を残せる、と言ったじゃないですか」
「それは恋とは何か、他人に教える場合。今アオが考えてるのは……アオ自身が、俺に恋をしているか、という問いだろ」
うなずきながら、そうだった、とこっそり思う。
「それが分からない、一切感じない、という人間もいる。だから、誰にでも分かるとは言えない。ただ、俺から見ると、アオは……」
眉間をに皺を寄せて、椿は言葉を切った。
「これも押しつけだな。ここまで言ったら全部言ったも同然だが、悪い。忘れてくれ」
素っ気なく言って、止まっていた手を再び動かし始める。
そもそも、考えるべきは自分だ。答えがぼかされたことに不満はない。
だから、単なる戯れとして、アオは問いかけた。
「ちなみに、椿さんが、それが恋だと気づいたきっかけは何でしたか?」
椿が咳き込んだ。慌てて駆け寄って背をさする。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫。気管に入っただけ、だから。着席」
踏み台に座り直す。ささいな戯れのつもりが、思ったよりも衝撃を与えてしまった。
「テンプレみてぇなことしちまった」
「すみません。いつから好きだった? みたいな質問、漫画などでたまに見かけていて、気になって。ついでに、自分が恋をしているか判断する手がかりになりそうだったので、聞いてしまいました」
「謝らなくていい。分かる分かる」
苦笑いは困り顔に変わった。はしばみ色の目は宙をさ迷う。
「分かるけど……」
最近はこの顔をよく見る。
「いいですよ、言わなくて。恋人でもない下僕が尋ねていいことではありませんでした。またいつか、無事に恋人になれたら、聞かせてください」
「恋人になれなかった場合は?」
「……永遠の謎として、諦めます」
諦める他ない。
椿の目は不満そうに細められた。
「知られるのも嫌だが……無関心も癪に障るな」
「関心はありますよ?」
「諦められる程度の関心だろう。……まあ、それでもアオにしては、関心がある方かもしれないが」
全然片付けにならない、と呟きながら、椿は持っていた本を床に積む。
そしておもむろに、アオの前にひざまずいた。
首に下がったままのネックレスが、軽く引っ張られる。顔が近づき、喜多野の助言を思い出してしまう。
だが、椿はハードカバー六冊分の距離を保って、口を開いた。
「I saw thee weep–the big bright tear
Came o'er that eye of blue;
And then methought it did appear
A violet dropping dew:
I saw thee smile–the sapphire's blaze
Beside thee ceased to shine;
It could not match the living rays
That filled that glance of thine.
As clouds from yonder sun receive
A deep and mellow dye,
Which scarce the shade of coming eve
Can banish from the sky,
Those smiles unto the moodiest mind
Their own pure joy impart;
Their sunshine leaves a glow behind
That lightens o'er the heart.」
流暢な英語だ。短く区切られてはいたが、ところどころに聞き慣れない単語があり、また抽象的な内容だったこともあって、全てを理解することはできなかった。
だが、それで充分だった。
顔が真っ赤になっているのが、自分で分かる。
「……椿さん」
「……何か、分かってる顔してないか?」
「一応受験生なので、ある程度は分かります。それと、ですね。大変申し上げにくいのですが」
本棚に戻そうにも戻せず、ずっと手元に置いて、タイトルを隠していた本を、椿の目の前に掲げた。
イギリス出身の詩人バイロンの詩集である。さすがにアオが借りたのは原著ではなく、複数の著作から一部を抜粋して翻訳したものだ。
「先日、椿さんの本棚からお借りして、ちょうど読み終わったところでして……」
「見かけねえと思ったら!」
「お返しします」
勢いはあったが、あくまでも本を傷つけないように、本を取られた。ともあれこれで気がかりはなくなった。
「事後報告になってしまい恐縮なのですが、以前、恋愛を題材にした詩に共感するようになった、といったことを言って――言いかけていたので、興味本位と勉強がてら、時々お借りしております。あぁいえ、それ以前から、度々借りてはおりましたが」
「……俺もアオの漫画借りたりしてるから」
「はい。それで……翻訳されていたとは言え、いくつか記憶にある文章があったので、分かってしまいました」
確か詩のタイトルは、「I SAW THEE WEEP.」。
まだ、顔の熱は引かない。
さすがに椿のように一字一句ではないが、印象深い詩だったので、内容は覚えている。「君」の涙をスミレにしたたる露にたとえ、笑みと眼差しをサファイアの光よりも美しいとして、最後には夕暮れの情景と「君」を並列させてうたっていた。印象に残ったのは、スミレ、サファイア、夕暮れと、ふんだんに「青」が使われていたためだ。
アオの前にひざまずいたまま、椿はため息をつく。
「分かっていいんだよ。伝えたんだから。……分からなくてもいいとは思っていたが」
「けれど、きっかけ、ですか?」
自分の感情が恋だと気づいたきっかけ、という問いかけに、そのまま対応する内容の詩ではない。
椿の目は微かに笑みを含んだ。
「明確な、その瞬間はなかった。気づいたら好きだった。ただ、しいて言えば、花や宝石よりも、アオを見ている方がいいと思った回数だけ、これは恋だと思った。どうだ? 足りなければ、まだ言うが」
「い、いいです。充分です」
これ以上言われたら、書斎から駆け足で逃げ出してしまいそうだ。
だが、アオはまだ書斎に、椿といたい。逃げ出したいけれど、こんなに心地の良い空間は他にない。
「……」
ふと、ひょっとすると、この気持ちが恋なのかもしれないと思った。
忠誠とも恩義とも関係がない。忠臣になるには邪魔な自分本位の欲望と、飲み込もうとしていた。だが、ずっと胸にあって、進路を決めなければならない時にもずっと思考を妨げてきた。
花や宝石は無論、どんなものよりも尊く思えるから、そばにいたい。
思えば、椿の宣言があってから、その欲は鳴りを潜めていた。無理に自分に言い聞かせなくても、物理的にそばにいられなくてもいいと、自然と思えるようになった。
ふわふわと心が宙に浮く。
これが恋であるなら、喜ぶべきことであるはずで、椿にも伝えるべきなのだが、中々口から出てこない。
「椿さん、詩の引用をするの、避けていたのでは」
ごまかすために咄嗟に言った。以前、詩の引用を厭うようなことを言っていた覚えがある。
「大して思い入れもない詩を、道具のように使うのが嫌なだけだ。俺はこの詩を読んだ時、心底共感したし、この感情をアオにも伝えたくなった。だから……許した。あと、なりふり構ってもいられないしな」
椿は立ち上がって、本棚の整理に戻った。
しらっとした顔をしているが、椿もずっと耳が赤い。
迷惑でも不敬でも、そばに行って、唇――はまだ早くとも、触れ合いたいと感じた。
「……嬉しいです」
だが、それをするといよいよこの場にいられなくなりそうだったので、代わりに、ネックレスの先に通した指輪を握りしめた。
まだ少し待っていてください、と内心で呟く。この気持ちが確かになり、そして、口に出せるようになるまで。
そう時間はかからないはずだ。