三十六日間の忘れ物

 終業式はつつがなく終わった。通知票もおおむね良好で、安心して夏休みに入る事が出来る。今は帰る前に鞄の整理をしているところだった。
 聖はもう教室にはいない。いつも通り先に帰ったのだろう。
 特に今日の聖に変わった様子は無かった。朝あった時もごく普通に挨拶を交わしていたし、馬鹿な話も交えていた。
 だけどどこか遠くに感じられたのは、僕の気のせいだろうか。
 僕自身が無くしてしまった記憶の間で揺れているから、変に気にしてしまっているのかもしれない。だからどこが違うのかと言われれば、答えられないのに違和感を覚えずにはいられなかった。
 さようなら。ただの挨拶にしか過ぎないのに、昨日言われた台詞が何かまだ胸の中に残っている。
 ただ聖とは今日も普通に話していたし、何が変わったという訳でもない。ただ僕が一人何かを感じているに過ぎない。何がある訳でもないはずなのに、帰り支度がいまひとつ進んでいないのは、そのことを思い出しているからだろうか。
「友希」
 背中からかけられた声に思わず振り返る。
 見慣れた顔が僕をじっと見つめていた。美優だ。
 こうして見ていると、やっぱり整った顔をしていると思う。優しそうなお嬢様のような風貌は、彼女の才能の一つだろう。こうして目を合わせているだけで温かい気持ちになれる。
 もっとも油断すればすぐに殴られたりするから、決して安心することはできないのだけど。
「美優。パフェなら奢らないよ」
 僕は反射的に答えて、ほとんど丸めるようにして鞄にプリントを詰め込んでいた。
 同時に頭に強い衝撃が走る。みると美優が拳を握りしめていた。ひさしぶりに殴られたと思う。
「なにすんだよっ」
「友希は私の彼氏でしょっ。彼女にパフェの一つくらい奢れる甲斐性がなくてどうするの」
 美優は世の中の全ては私を中心に回っているといわんばかりの勢いで僕に語りかけてくる。
 そんなことを言われても僕の小遣いは有限だ。この間も美優にパフェをおごったばかりだから、さほどお金はない。僕は眉を寄せて、溜息を一つ。それから否定の言葉を変えそうとして口を開きかけたが、美優はそれを遮るようにして話し始めていた。
「って、そうじゃなくて。明日から夏休みだよ。知ってた?」
「当たり前だろ」
「ならどうして。私の予定がたたないでしょ。はやくちゃんとして」
「は?」
 今日が終業式なのだから、明日から夏休みなのは当たり前の話だ。美優が何を言いたいのかわからない。ただ美優の顔は本気で怒っているようで、少しその目がつり上がっていた。
 僕は美優に何かしただろうか。ふと思い返す。
 それと同時に僕の心の中に浮かんできたのは、記憶の中にあった少女ひなたの姿だった。
 僕はひなたの事で気持ちが揺れている。ただそれは失われた記憶の中で何があったのかを知りたい。そんな気持ちであって、美優の事が好きな気持ちが薄れているという訳ではない。
 美優は僕を必要としてくれていた。僕もそれに答えたいと思う。
 それなら僕はどうしてひなたを探そうと考えているのだろうか。失われた記憶の中で何があったのかを知りたい。どうでもいいと思っていた記憶の中で、何か大切な事が起きていた。
 何が起きたのかがわからないと、すっきりとしない。
 事故とは何だったのか。ひなたと僕はどうして連絡もとれなくなってしまったのか。
 記憶の中の僕はひなたに恋をしていた。だから今もひなたのそばにいたいと考えているのだろうか。
 けどそうではないはずだ。僕はひなたへの気持ちを思い出した。だけど美優への想いが消えて無くなった訳ではない。美優の事も大切に思っている。彼女を支えたいと今でも強く思う。
 だから僕は美優という彼女がいながらも、他の子に気持ちが揺れている訳じゃない。
 僕は自分に言い聞かせるようにそう強く思う。
 しかしそんな僕の内心を知ってか知らずか、美優はもういちど僕の頭を殴りつける。
「はやくしないと殴るから」
「って、いまもう殴っただろっ。相変わらず口より手が早いのな。で、一体何なんだよ」
 殴られて少し意識がこちら側に戻ってくる。気をつけていないと失った記憶の事をつい考えてしまう。どうでもいいと思っていたはずの記憶に惹きつけられていた。
 でも美優が何を言いたいのかはわからない。僕の心の中なんてわかるはずもなくて、つい考えてしまったひなたの事を責めようという訳ではないだろう。だとしたら僕は美優に怒られる理由が想像もつかない。
 しかし美優ははっきりと僕に対して怒りを覚えていた。それどころか困惑すら感じているようで、むしろ心配そうな顔すら僕に向けてくる。
「友希、ほんとにわかんないの。私をからかっている訳でなくて?」
「わかんないよ。美優の言う事はだいたいわかるつもりだったけれど、ここまで唐突ならわかるわけがないし」
 友希は美優へと顔を向けて、それから少しだけ身構える。わからないだなんて言えば、再び殴られる事は十分に想像がつく。
 だけど美優は少し落ち込んだような顔を見せて、呆れたように息を吐き出していた。
「友希に期待した私が馬鹿だったのかもしれない。そうよね。友希にそんな甲斐性あるわけなかった」
 ぶつぶつと口の中で文句をこぼしていたが、それでも納得がいったようで僕の顔をのぞき込んでくる。
「明日から夏休みで、私は水着も買ったし、友希は私の彼氏だし。それなら何か言う事あるでしょ?」
 淡々とした声で説明される。ここまで言われて、やっと美優が何を言いたかったか理解していた。確かに僕は抜けていたかもしれない。
「そうだったね。じゃあ、海にでもいこうか」
「うんっ。いつにしようか。早いうちがいいよね。のんびりしてるとくらげでちゃうし。でも明日はちょっと用事があるから、じゃあ明後日。時間は十時でいいよね。決まりね」
 美優はいつも通り勝手に日付まで決めて、僕が答えるよりも前に僕の背中を叩く。これで決まりということだ。
「じゃ、今日も私は用事あるから先帰るね。明後日あおうね」
 美優は言うなり振りかえり、顔だけをこちらに向けて別れを告げる。「じゃあね」と挨拶だけを告げて、手を振っていた。
 いつも通りの強引さにため息をもらすが、美優の用事はたぶんバイトだろうから、実際ある程度は予定が決まってしまっているのだろう。それだけに強引に決めざるを得ない面も有ることは理解していた。
 それに美優と一緒にいく海はきっと楽しいだろうと思う。とびきり可愛い彼女との海水浴デートだ。それに心が躍らない男はいないだろう。
 それでもひなたの事が、どこかで僕の心を揺らしていた。ひなたの事が無ければ僕は純粋にデートを楽しみに出来たと思う。
 だけどこのままどこか中途半端な気持ちを抱えた間までいる訳にもいかなかった。
 真実を知りたい。そう強く思う。
 胸の中が痛い。