終業式はつつがなく終わった。通知票もおおむね良好で、安心して夏休みに入る事が出来る。今は帰る前に鞄の整理をしているところだった。

 聖はいつも通り先に帰ったようだ。
 今日の聖に変わった様子は無かった。朝あった時も挨拶を交わしていたし、馬鹿な話も交えていた。
 だけどどこか遠くに感じられたのは、僕の気のせいだろうか。
 どこが違うのかと言われれば、答えられない。ただ何か違和感を覚えずにはいられなかった。
 さようなら。ただの挨拶にしか過ぎないのに、昨日言われた台詞が何かまだ胸の中に残っている。

「友希」

 背中からかけられた声に思わず振り返る。
 見慣れた顔が僕をじっと見つめていた。美優だ。

「美優。パフェなら奢らないよ」

 僕は反射的に答えて、ほとんど丸めるようにして鞄にプリントを詰め込んでいた。
 同時に頭に強い衝撃が走る。美優が拳を握りしめていた。

「なにすんだよっ」
「友希は私の彼氏でしょっ。彼女にパフェの一つくらい奢れる甲斐性がなくてどうするの」

 美優は世の中の全ては私を中心に回っているといわんばかりの勢いで僕に語りかけてくる。
 そんなことを言われても僕の小遣いは有限だ。否定の言葉を返そうとして口を開きかけたが、美優はそれを遮るようにして話し始めていた。

「って、そうじゃなくて。明日から夏休みだよ。知ってた?」
「当たり前だろ」
「ならどうして。私の予定がたたないでしょ。はやくちゃんとして」
「は?」

 今日が終業式なのだから、明日から夏休みなのは当たり前の話だ。美優が何を言いたいのかわからない。ただ美優の顔は本気で怒っているようで、少しその目がつり上がっていた。
 僕は美優に何かしただろうか。ふと思い返す。
 それと同時に僕の心の中に浮かんできたのは、記憶の中にあった少女ひなたの姿だった。
 僕はひなたの事で気持ちが揺れている。ただそれは失われた記憶の中で何があったのかを知りたい。そんな気持ちであって、美優の事が好きな気持ちが薄れているという訳ではない。
 美優は僕を必要としてくれていた。僕もそれに答えたいと思う。
 僕にとって美優は大切な幼なじみで、ほんの少し前から僕の彼女になった。嘘ではない。本当の気持ちだ。
 だけどそれなら僕はどうしてひなたを探そうと考えているのだろうか。失われた記憶の中で何があったのかを知りたい。それは本当だ。どうでもいいと思っていた記憶の中で、何か大切な事が起きていた。
 何が起きたのかがわからないと、すっきりとしない。心の中に何かもやのようなものが残って、それを晴らすまでは自分の気持ちすらわからない。
 だから知りたい。そのためにひなたを探したい。
 事故とは何だったのか。ひなたと僕はどうして連絡もとれなくなってしまったのか。どうして僕はひなたのことを忘れてしまったのか。
 記憶の中の僕はひなたに恋をしていた。だから今もひなたのそばにいたいと考えているのだろうか。
 たけどそうではないはずだ。僕はひなたへの気持ちを思い出した。だけど美優への想いが消えて無くなった訳ではない。美優の事も大切に思っている。彼女を支えたいと今でも強く思う。
 だから僕は美優という彼女がいながらも、他の子に気持ちが揺れている訳じゃない。
 僕は自分に言い聞かせるようにそう強く思う。
 しかしそんな僕の内心を知ってか知らずか、美優はもういちど僕の頭を殴りつける。

「はやくしないと殴るから」
「って、いまもう殴っただろっ。相変わらず口より手が早いのな。で、一体何なんだよ」

 殴られて少し意識がこちら側に戻ってくる。気をつけていないと失った記憶の事をつい考えてしまう。どうでもいいと思っていたはずの記憶に僕はただ惹きつけられていた。
 でも美優が何を言いたいのかはわからない。僕の心の中なんてわかるはずもなくて、つい考えてしまったひなたの事を責めようという訳ではないだろう。だとしたら僕は美優に怒られる理由が想像もつかない。
 しかし美優ははっきりと僕に対して怒りを覚えていた。それどころか困惑すら感じているようで、むしろ心配そうな顔すら僕に向けてくる。

「友希、ほんとにわかんないの。私をからかっている訳でなくて?」
「わかんないよ。美優の言う事はだいたいわかるつもりだったけれど、ここまで唐突ならわかるわけがないし」

 友希は美優へと顔を向けて、それから少しだけ身構える。わからないだなんて言えば、再び殴られる事は十分に想像がつく。
 ただ美優は少し落ち込んだような顔を見せて、大きくため息をもらす。

「友希に期待した私が馬鹿だったのかもしれない。そうよね。友希にそんな甲斐性あるわけなかった」

 ぶつぶつと口の中で文句をこぼしていたが、それでも納得がいったようで僕の顔をのぞき込んでくる。

「明日から夏休みで、私は水着も買ったし、友希は私の彼氏だし。それなら何か言う事あるでしょ?」

 淡々とした声で説明される。ここまで言われて、やっと美優が何を言いたかったか理解していた。確かに僕は抜けていたかもしれない。
 今まで恋人だなんていたことはなくて、世の恋人が夏休みをどう過ごすかなんてわからなかったし、普段も僕からどこかに出かける事を提案する事なんてほとんどなかった。それでもすべき約束はあるとは思う。

「そうだったね。じゃあ、海にでもいこうか」
「うんっ。いつにしようか。早いうちがいいよね。のんびりしてるとくらげでちゃうし。でも明日はちょっと用事があるから、じゃあ明後日。時間は十時でいいよね。決まりね」

 美優はいつも通り勝手に日付まで決めて、僕が答えるよりも前に僕の背中を叩く。これで決まりということらしい。
 ただ美優が勝手に予定を決めるのなんていつもの事だ。特に文句がある訳でもない。

「じゃ、今日も私は用事あるから先帰るね。明後日あおうね」

 美優は言うなり振りかえり、顔だけをこちらに向けて別れを告げる。挨拶だけを告げて、手を振っていた。
 いつも通りの強引さにため息をもらすが、美優の用事はたぶんバイトだろうから、実際ある程度は予定が決まってしまっているのだろう。それだけに強引に決めざるを得ない面も有るとは思う。
 それに美優と一緒にいく海はきっと楽しいだろうと思う。とびきり可愛い彼女との海水浴デートだ。それに心が躍らない男はいないだろう。
 ただそれでもひなたの事が、どこかで僕の心を揺らしていた。ひなたの事が無ければ僕は純粋にデートを楽しみに出来たと思う。
 だけどこのままどこか中途半端な気持ちを抱えた間までいる訳にもいかなかった。
 真実を知りたい。そう強く思う。
 ただ胸の中が痛い。