さよなら、真夏のメランコリー

高校でできた友達とは、以前のように接することができなくなった。


千夏のような水泳部員はもちろん、入学後に仲良くなった子たちだって私への態度が変わったからだ。
真菜だけが今まで通りでいてくれるけれど、彼女以外とは上手く話せなくなった。


中学までの友達も同じ。
みんな、私の水泳選手としての実績と選手生命を絶たれたことを知っているから、会う気にはなれなかった。


「予定のない日の過ごし方って、わからないものなんだね……」


今までは、ずっと泳いでいた。
明けても暮れても水の中にいるような生活。


インターハイを控えたこの時期は、特に練習に熱が入っていた。
だから、過ごし方がわからないなんてことはなかった。


朝起きて、部活やスイミングスクールに行って。帰宅後はほんの少しだけ夏休みの課題をこなして、まるで泥のように眠る。
毎日毎日、そんな日々の繰り返し。


夏休みなんて、あっという間に過ぎていった。
だけど、来週から始まる夏休みの予定は、今のところ空白だらけ。


いったいどんな風に過ごせばいいのかと思うと、途方に暮れるような気持ちにさせられた。

「夏休みも練習漬けで、練習が嫌になることもあったのに……。もうできないと思うと寂しくてたまらない。何回も逃げ出したくなったのに、変だよね……」


眉を下げる私に、輝先輩が首を振った。


「そんなことない。俺も同じだったよ」

「本当に?」


縋るような気持ちになると、彼は大きく頷いた。


「うん……。練習漬けだった日々は逃げ出したいと思ったことが何度もあったのに、試合どころか練習すらできなくなると、空いた時間をどう過ごしていいのかわからなくて気持ちのやり場がなかった……」

「そっか……。こういう気持ち、いつかはなくなるのかな……」


ぽつりと呟いてみたけれど、輝先輩は困ったように笑うだけ。
だけど、なにも答えてもらえなくても嫌じゃなかった。


彼もまだ苦しみの中にいるんだ、と思わせてくれたから。
それがほんの少しだけ安心できた。


「夏休みなんて来なくていいのかも……」


いつだって待ち遠しかった夏休みを、生まれて初めて楽しみだと思えない。


真菜と遊ぶ約束をしていても、心はずっと鈍色のまま。
彼女と会えない空白の日が怖くて、夏休みが始まることに不安すら抱いている。


「じゃあ、俺と遊ぶ?」


そんな私にかけられたのは、予想もしていなかった言葉だった。


「え?」

「夏休みって、今までは練習漬けだっただろ?」

「うん……」

「だから、今までできなかったことをふたりでやるんだ」

「で、でも……」

「俺は美波と遊びたい。夏休みも会いたいよ」


ストレートな言葉が、私の心を優しくくすぐる。

「まぁ、バイトとか受験勉強があるから、ずっとってわけにはいかないけど」


苦笑を零す輝先輩を前に、断り文句なんて思い浮かばなかった。


「……なにするの?」

「買い食いとか、食べ歩きとか?」

「食べることばっかりだね」

「遊園地でも水族館でもいいし、海に行くのもいいな。でも、遊んでばっかりなのはやばいから、たまには一緒に課題でもするか」


誘い文句は、特別なものじゃない。
それでも、私にとっては特別に思えた。


「うん」

「あ、あとは祭りとか花火大会だな」

「いいね、夏って感じ」


ここから程近い場所で開催されるお祭りも花火大会も、行ったことがなかった。
中学まではスイミングスクールの合宿の時期と被っていたし、高校に入ってからはインターハイ前でコーチの許可が下りなかった。


今思えば厳しいルールだったけれど、当時はそれが当たり前だった。
部員の中にはこっそり遊びに行っていた子がいるのも知っている。


だけど、私はその気の緩みがけがや事故に繋がらないかと不安で、どうしてもルールを破れなかった。
家の中にいても聞こえる花火の音に物寂しくなっても、インターハイ優勝という目標だけを心の支えにして、なにもかも我慢してきた。


「俺、去年と一昨年は祭りも花火も行かなかったんだよな」

「私も」


夏にも共通点があったことに、どちらからともなく笑ってしまう。


予定のない日の過ごし方がわからなかった。
空白だらけの夏休みが来るのが怖かった。


それなのに、今は少しだけ楽しみに思える私がいた。

七月の半分以上が過ぎ、夏休みに入った。


初日は真菜とかき氷を食べに行き、二日目と三日目は一緒に課題をこなした。
三日連続会うというまさかの出来事に、彼女と『学校がある日と変わらないね』と笑い合った。


だけど、真菜が誘ってくれることが嬉しかった。
ぽっかりと開いた穴を埋めるようであっても、彼女と過ごす時間は私を笑顔にしてくれたから。


それから、バイトを始めることになった。
真菜のバイト先で立て続けに高校生が辞め、人手不足になったのだとか。


『美波もバイトしたいんだよね? よかったら一緒にやろうよ!』


明るく声をかけてくれた彼女は、きっと私を心配してくれているのだろう。
ありがたいというのはもちろん、素直に嬉しかった。


それに、バイト経験がない私にとっては、心強くもあった。
特になにがやりたいかもわからなかったし、自分に務まるのか自信もない。


そんな気持ちでいたからこそ、真菜と一緒に働けるのなら不安は和らぐ。
緊張したけれど、夏休み四日目に彼女と買いに行った履歴書を丁寧に埋め、その翌日に面接を受けて無事に採用が決まった。


そして、夏休みに入ってちょうど一週間の今日は、バイト初日だ。

「みんな優しいから大丈夫だよ。わからないことがあれば、私も教えるし」

「う、うん」

「リラックスリラックス! あと、笑顔でね!」

「頑張る……」

「じゃあ、行きますか。おはようございまーす!」


昨夜からすでに緊張している私を余所にバイト先に着き、バックヤードを通って事務所のドアを開けた真菜の元気いっぱいの声が響いた。


バイト先は、ファミリーレストラン『ビヨンド』だ。
彼女は、シフトの調整がしやすいという理由で選んだらしい。
高校生だと採用してくれる職場は限られているため、家から近くて短時間からでも働けるというのは魅力的だと思った。


店長は三十代後半の男性。
スタッフはパートの女性たちを始め、高校生と大学生が多いのだとか。
大学生のほとんどは、高校生の時からここで働いていると聞いている。


「おはよう、真菜ちゃん。あ、その子が新しい子?」

「はい。親友の美波です。美波、この人は菜々緒(ななお)さんだよ。うちらの三つ上で、高一からここで働いているんだって」


菜々緒さんと呼ばれた女性は、美人系の顔立ちだった。
くっきりとした二重瞼の猫目で、赤いリップがよく似合う。


明るいブラウンの髪はポニーテールにしているけれど、毛先まで艶がある。
三歳しか違わないはずなのに、とても大人っぽく見えた。

「牧野美波です。よろしくお願いします」

森脇(もりわき)菜々緒です。美波ちゃんでいい?」

「は、はい」

「私も名前で呼んでくれていいよ。美波ちゃんの教育係になったから、よろしくね」

「よろしくお願いします!」


緊張で声が上ずると、菜々緒さんがクスッと笑った。


「そんなに硬くならなくていいよ。ここのスタッフはみんな仲がいいし、たまにご飯会とかもするから、美波ちゃんもすぐに溶け込めると思うよ」

「そうそう! スイーツ好きのメンバーでカフェに行ったりね」

「この間はパフェ食べに行ったよねー」

「はい! あれ、おいしかったなぁ」


菜々緒さんと真菜は仲がいいらしく、他にも数人を含めたメンバーでスイーツ会を定期的に開催しているのだとか。


「よかったら、美波ちゃんも入ってね」


笑顔で誘ってくれた菜々緒さんは、年上だけれどそれを感じさせない気さくな雰囲気で接してくれた。


「はい、ぜひ」

「真菜ちゃんみたいにバイト代を注ぎ込みすぎるのはおすすめしないけどね」

「もうー、菜々緒さんってば! それは言わないでくださいよ」


和気藹々とした雰囲気に、緊張感が解れていく。

「じゃあ、そろそろ着替えておいで。店長はもう少ししたら来るから、着替えたあとでみんなにも紹介するね」


菜々緒さんから制服を受け取り、真菜とともに更衣室に向かう。
更衣室は、三畳ほどのスペースにロッカーが並んでいるだけの殺風景な部屋だった。


「ロッカーはふたりでひとつだから、美波は私と共用だって。一応、鍵はかけてね」

「うん、わかった」


彼女と共用なら変な気を遣う必要もなく、安心できる。
ロッカーの鍵を受け取り、テキパキと着替えた。


ビヨンドの制服は、白いシャツにブラウンの膝丈のスカート、そしてパステルオレンジと白のチェックのエプロンだ。
たとえるのなら、カントリー調のデザインという感じだった。


靴は自前のものでいいらしく、真菜のアドバイス通りローファーを持ってきた。
髪はひとつに纏める決まりなのだとか。


慣れた手つきで髪を結ぶ彼女に倣うように、私もミディアムボブの髪を後ろで一纏めにした。


学校以外の制服を着るのは初めての私は、なんだかソワソワしてしまう。
着替えてから見た鏡を前にして、気恥ずかしさでいっぱいになった。

「これで人前に出るんだよね……」

「そりゃあそうだよ。私たち、ホール担当だもん」

「変じゃない……?」

「全然! むしろ似合ってるよ! 輝先輩に見せてあげたいくらい!」

「なっ……! なんでそこに輝先輩が出てくるの!?」


真菜はわざとらしく「えへっ」と笑うと、私の手を引いて更衣室を出た。


「菜々緒さん、着替えましたー」

「じゃあ、とりあえず今日は私が説明するね。あ、その前に自己紹介か」


菜々緒さんの指示で、真菜は仕事をするためにホールへと行った。
私は、菜々緒さんに促されてホールやキッチンを回っていく。


その間に色々な説明を受けながら、持ち場にいるスタッフたちに挨拶をしていった。
持参したメモには、あっという間に書き込みが増えた。


「とにかくお客様への対応が最優先ね。料理は少しでも早く運ぶことと、注文は必ず繰り返して。あと、メニューについて質問されることが多いから、メニューに関することはできるだけ早く覚えてね」

「は、はい……!」

「うちは勤務時間が七時間を超えると賄いが出るから、順番に食べてみるといいよ。そうすればメニューのことも覚えやすいし。百聞は一見に如かずってね!」

ビヨンドでは、八百円までのメニューなら賄いとして食べられるらしい。
それ以上の金額のものでも、バイト代から差し引いてもらうという条件下でなら好きなメニューを注文できるのだとか。
日替わりランチがちょうど八百円らしく、だいたいのスタッフはそれを選ぶことも教えてくれた。


ファミレスもたまにしか行くことがなかった私からすれば、とても魅力的に思える。
ひとつ楽しみができたことで、やる気が増していった。


「テーブルは早く片付けて、しっかり拭いて消毒ね」

「はい」

「混んでる時間帯だと片付けまで手が回らなかったりするけど、テーブルが片付かないとお客様を通せないから注意してね」


頷いて、メモを取って、スタッフに挨拶をして……。目まぐるしく時間は過ぎていき、気づけば一時間が経っていた。


「今日はとりあえず全体の流れと雰囲気を覚えて。レジは何回かバイトに入ってもらってから覚えてもらうから、まずは注文の取り方と料理の運び方ね」


菜々緒さんは、最後に全体の流れをもう一度説明してくれた。


「ここまででなにか質問はある?」

「えっと……」


メモを見返してみたけれど、質問が浮かんでこない。


「なんて訊かれても、まだわからないよね」


私が戸惑っていると、彼女がすかさずフォローを入れてくれた。