さよなら、真夏のメランコリー

「してるよ。勉強は好きじゃないけど、選手じゃない以上はちゃんと勉強しないわけにはいかないし」

「いや、選手でも勉強しなきゃいけないだろ」

「そういう輝先輩は勉強してるの?」

「……俺、勉強は嫌いなんだよなー」

「なにそれ。人のこと言ってる場合じゃないじゃん」

「でも、ちゃんとしてるよ。選手じゃなくなったんだから、せめて成績は学年で真ん中くらいにはいないとな」

「真ん中かぁ……」

「それより下?」


ニッと笑われて、さっきよりも深く眉間に皺が寄る。


「微妙に下ですけど」

「やばいじゃん! 油断してると、どんどん落ちるぞ」

「うるさいな。これからちゃんとやるもん」


今までは部活を言い訳にできた。
スイミングスクールにも通っていたし、私の毎日は水泳一色だった。


課題をこなすのが精一杯で、予習も復習もほとんどしたことがない。
おかげで、お世辞にも成績はそんなにいい方じゃなかった。


だけど、もう言い訳はできない。


時間は充分にあるし、私が水中に戻ることはないのだ。
せめて、普通程度の成績を収めておかなければいけないだろう。

「そんな顔するなって。俺も似たようなもんだったし」

「本当に人のこと言えないじゃん」

「ところが今は言えるんだな、これが。二年まではそんなに成績がよくなかったけど、走らなくなったら時間持て余してさ。バイトと勉強の日々よ」

「ふぅん……」

「真ん中より結構下だったけど、今は学年で百位以内には入ってる」


すごいじゃん、と心の中で呟く。


うちの学校は、たぶん生徒数が多い。
一クラスは約四十人、一学年ではだいたい三百人弱になる。


真ん中より結構下だった成績が百位以内になったということは、二百位以下くらいから百番くらいは上がったということ。
勉強をそっちのけで来た私には、百位以内なんてまだまだ遠い。


「部活一色だった時は、帰ったら寝るだけで課題もしてなかったんだけどな」

「課題もしてなかった人がよくそこまで成績上がったね」

「親が家庭教師つけてくれたんだ。俺、塾とか予備校とか行っても、たぶんついていけないからさ。かと言って、オンライン授業も集中できなさそうだったし……」


それはわかる。
私は、勉強でありがちな『どこがわからないかわからない』状態も珍しくない。


きっと、塾や予備校に行っても、授業についていけないだろう。
そういう人間にとっては、家庭教師の方が向いているのかもしれない。

「その点、家庭教師なら家まで来てくれるし、一対一だから質問もしやすいんだ。あと、可愛い女子大生が先生だったらやる気倍増するし」


満面の笑みを向けられて、胸の奥がモヤッとした。


「動機が不純ですね……」

「なんで敬語だよ」

「別に深い意味はないですけど」

「言っとくけど、先生は男だからな」


その言葉で、モヤモヤしていたものが消えていく。


「てっきり真面目な堅物みたいな奴が来るのかと思ったら、わりとイケメンの陽キャな大学生。でも、頭はいいし、話はおもしろいし、授業もわかりやすい」


家庭教師が男子大学生だと知り、自然と安堵している私がいた。


その理由はわからないけれど、なんとなく輝先輩にはバレたくなくて、それを隠すようにバスクチーズケーキを頬張る。
油断すれば笑みが零れてしまいそうで、必死に咀嚼してごまかした。


「あ、全部食った? 次はどれにする?」


当たり前のように優しい笑顔を寄越されて、今度は心がむずがゆくなる。
彼とは別に友達でもないのに、この慣れない時間がなぜか嫌じゃなかった。

七月に入ると、本格的に暑さが増した。


今年は五月に入る頃には気温が高かったけれど、やっぱり夏本番は一味違う。
猛暑日が続く日々に疲労感が溜まり、勉強にもなかなか身が入らなかった。


おかげで、期末テストはあまりいい結果になりそうじゃない。
もっと頑張らなかったことを少しだけ後悔しつつも、テストが終わった解放感を前にすると、そんなことはすぐに忘れた。


「美波―! お疲れ様!」

「真菜もお疲れ」

「もう帰るの?」

「うん。朝方まで勉強してたから、今日は昼寝したいし」

「いいなぁ、昼寝。私も委員会が終わったら、ダッシュで帰って寝ようかな。っていうか、一夜漬けって意味なくない?」

「ないね」

「だよね~。私も生物と日本史は一夜漬けだったから、もう全部忘れた」


真菜と笑い合いながら、帰り支度を進めていく。


「夏休みはどこか行こうね」

「うん、そうだね」

「楽しみだなぁ。美波と行きたいところ、たくさんあるんだよね」

「カラオケ?」

「それはもちろん! あとは、水族館とか遊園地……あっ、食べ歩きもいいなぁ」

「そんなにお金ないよ」

「確かに。やっぱりバイト増やそうかな」


彼女は、少し前からバイトの日を増やしたいと言っていた。
私も、輝先輩の話を聞いて興味が出てきたところ。


最近は、真菜とバイトについて話すことが多い。
もっとも、私も彼女も話をしているだけで、実行には移せていないけれど。

「そういえば、輝先輩とは遊びに行かないの?」

「えっ……」


唐突に彼の話題になって動揺してしまうと、真菜がにこにこと笑った。


「最近、仲良さそうだし」

「別に普通だよ」

「普通、ねぇ」

「……変な勘繰りはやめてってば」

「でも、コンビニで仲良くスイーツ食べたんだよね?」

「スイーツは食べたけど、仲良くってわけじゃ……」

「第三体育倉庫の裏で会ってるのに?」

「スイーツを食べたあとで一回だけね」

「ラインはよくしてるよね?」


なにか言いたげな彼女の目が、私を見透かすように弧を描いている。


「輝先輩が送ってくるから返事してるだけで……」


真菜には、輝先輩とのことを話している。
というよりも、質問攻めにあって言わざるを得なかった。


彼女は、人を傷つけるようなことはしないけれど、こういう時には容赦がない。
私が戸惑っているのは察していたはずなのに、根負けして彼とのことを話していくと、とても楽しそうだった。

「適当にスルーしないところが、真面目な美波らしいよね~」

「適当って……どうすればいいのかよくわからないし……」

「でも、嫌だったら既読スルーでもよくない?」

「それは……」

「そうしないってことは、美波も満更じゃないんでしょ?」

「あのね、そういうのじゃなくて……」

「うん?」

「輝先輩とは境遇が似てるから、変な気を遣わなくていいっていうか……」


真菜は空気を読むように微笑み、「そっか」と零した。


彼と私の今の環境が似ていることは、彼女だってわかっているはず。
だからなのか、それ以上は追及してこなかった。


「まぁ、美波が嫌じゃないならよかった。せっかくだから、自分から遊ぼうって言ってみたら? 喜んでくれるかもよ」

「そんなことしないよ。輝先輩だって、別に遊びたいとか思ってないだろうし」


その言葉に、胸の奥がチクチクと痛んだ。


なにも傷つくことなんてないはず。
それなのに、自分で自分が発した答えに落ち込んでしまいそうになる。


だけど、そこを深く考えるのはやめて、スクールバッグを持った。

「そろそろ行くね」

「また明日ね」

「うん、ばいばい」


真菜と軽く手を振り合い、教室を後にする。
テスト期間が終わった廊下は、どこか浮足立ったように賑わっていた。


生徒たちはみんな、解放感に包まれた顔で笑っている。
反して、予定のない私は、昇降口に向かいながら気分が沈んでいく。


それでも、なんでもないふりをして歩いていた時。

「美波?」

真正面から、千夏が歩いてきた。


「あっ……千夏……」

「これから帰るの?」

「う、うん……」

「そっか」


彼女も私も、声に気まずさが混じっていた。
賑やかな廊下で、私たちの間にだけ重苦しい空気が流れる。


「あのさ……この間、ごめんね……」


そんな中、千夏が発した言葉に、胸の奥がざわめいた。


「……っ」


無神経な未恵の態度のことか、あの場にいて彼女を止められなかったことか。
どちらに対する謝罪はわからなかった。


ただ、眉を下げる千夏を前に心穏やかではいられない。
なんとか忘れていたことを思い出すはめになったせいで、やり場のない感情が込み上げてきた。

「いいよ、もう……」


精一杯の優しさのつもりだった。
こう言うだけで限界だったのに……。


「でも、あんなこと言うなんて……。美波はもう泳げないって、未恵にはちゃんと話しておいたのに……」


彼女の言葉が、さらに私を追い詰めた。


「ッ……!」


現実はもう嫌というほどにわかっている。
それでも、他人の口から紡がれると、心は簡単にえぐられる。


ましてや、その相手は元チームメイト。
もう泳げない私の気持ちなんて絶対にわからない人間に、怒りや憎しみがない交ぜになったどす黒い感情が押し寄せてくる。


傷つけたいわけじゃないのに、頭の中にはひどい言葉ばかりが浮かび始めた。


「でもさ……うちら、チームメイトだったんだし、美波さえよければいつでも顔出してよ。みんなも喜ぶと思うし」

(やめて……)

「マネージャーとかコーチの補佐っていう手もあると思うんだ。だから――」

「っ――」


偽善かと思うほどの千夏の態度に、とうとう耐え切れなくなった刹那。

「美波?」

彼女に対して叫び出しそうだった私は、自分を呼ぶ優しい声にハッと我に返った。

振り向いた私の視界のど真ん中にいたのは、明るく笑う金髪の男子。


「輝先輩……」


私がよほどひどい顔をしていたのか、輝先輩が目を小さく見開く。


「えっ? 夏川先輩ですか?」


そんな私を余所に、千夏が驚きと緊張を混じらせたような笑みを見せる。


「うん、君は二年?」

「あ、はい!」


そういえば、彼女は輝先輩のファンだったはず。
部活ではよく輝先輩の話をしていたし、彼が走れなくなった時には落胆していたうちのひとりだった。


「そっか。美波の友達?」

「はい! 私たち、部活でも仲がよくて!」


自分の顔色が変わったのがわかった。
千夏の顔が見られない私の様子から、輝先輩はなにかを察したのかもしれない。


「美波、もう帰るとこ? ちょっと付き合ってよ」


彼は私を見ると、まるで『大丈夫』とでも言うように瞳を優しく緩めた。


「う、うん……」


思わぬ助け船に、内心では安堵感でいっぱいだった。


千夏には特に声をかけられない私の代わりに、輝先輩は彼女に「またね」と笑う。
私は、振り返ることもなく歩き出し、彼の背中を追った。