カラオケボックスに入って、十五分。
「だから、輝先輩と話したのはたまたまっていうか……」
ドリンクバーからドリンクを取って部屋にこもると、私は結局逃げ切れなかった。
事の一部始終を話すはめになり、諦めて一昨日と昨日のことを白状した。
そのためには、部活での出来事や私が泣いたことも言わざるを得なくて……。最後に、真菜は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん……。事情は知らなかったとはいえ、話したくなかったよね……」
「ううん、いいよ」
笑みを浮かべ、首を横に振る。
彼女はずっと、一昨日のことも昨日のことも訊いてこなかった。
私が退部届を出したことも、昨日は部活に顔を出したことも知っているのに、あえて触れずにいてくれた。
それが真菜の優しさだとわかっているからこそ、嫌な気持ちになったりはしない。
「真菜にはいつか部活のことは話さなきゃって思ってたし……。心配してくれてたのに、むしろ私から言えなくてごめんね」
「ううん……。そんなの言いづらいに決まってるよ」
彼女が私の心を慮るように俯く。
ふたりだけの密室のせいか、空気がどんどん重くなっていく。
昨日の嫌な出来事に責め立てられる気がして、息が苦しくなりそうだった。
「でも……その一年、ムカつく! 美波と仲良かったわけじゃなくても、部員なんだから……」
そこで言葉に詰まった真菜が、なにを言わんとしているのかはわかる。
『そんなこと言わなくてもいいのに』といったところだろう。
「でも……悪気はなかったんだと思う……」
未恵の言葉に心をえぐられたのは、事実だ。
だけど、彼女に悪気がなかったことくらい、冷静になった今はわからないわけじゃなかった。
きっと、私に憧れていて……。憧れの人に会えた喜びと興奮が先立っただけ。
もちろん、悪気がなければなにを言ってもいいわけじゃないし、やっぱりまだ許せなかったけれど。
「無神経すぎるよ……! 私がその場にいたら殴ってやった!」
涙目の真菜に、眉を下げる。
私の分まで怒ってくれている。
そんな彼女の優しさに、深い傷を刻まれた心が少しだけ癒されていく。
「泣かないでよ……。私まで泣きそうになるじゃん」
「泣いてないし! 超元気だし!」
空元気が丸わかりなのに、真菜はコーラを一気飲みして立ち上がった。
「歌う! めちゃくちゃ歌う! それで、嫌なことは忘れよう!」
「うん」
どれだけ歌っても、昨日のことは忘れられない。
私を苦しめている理由が解決しない限り、心は癒されないとわかっている。
それでも、私は真菜に心配かけないように笑顔を見せる。
マイクを持った彼女とふたりで、うそくさいくらいに騒いだ。
無理にでもはしゃげば、笑顔だって繕える。
賑やかに過ごしている間だけは、つらい現実を忘れさせてくれた。
だけど、真菜と別れたあとの帰り道は妙に心細くなった。
雨が降り出しそうな空のせいか、空気には湿っぽい匂いが混じっている。
梅雨と初夏の香りがない交ぜになった、十八時半。
周囲の喧騒に紛れて、訪れてほしくない夏の足音が聞こえてくる気がした。
翌日は雨だった。
輝先輩との約束は気になったけれど、第三倉庫の裏には雨除けがない。
さすがに彼は待っていないだろうと考えながら昇降口に向かい、そのまま帰るつもりだった。
「お、美波!」
だけど、私の行動を読むように、昇降口に輝先輩が立っていた。
「なんで……」
「雨が降ってるから帰りそうだなと思って」
彼は「予想通りだった?」と苦笑して、私を見下ろす。
「ちゃ、ちゃんと行くつもりだったし」
「マジかよ? でも、俺らってお互いの連絡先も知らないじゃん。不便だし、美波のライン教えてよ」
「えっ?」
「これ、俺のね」
戸惑っている間に、QRコードを表示させたスマホを向けられる。
「いや、連絡先なんて別に……」
「知ってた方が便利だって。それとも、教室まで誘いに行った方がよかった?」
「それは嫌!」
反射で語尾がきつくなってしまい、慌てて口を閉じた。
「即答かよ」
輝先輩が肩を竦めて眉を寄せる。
だけど、彼は笑っていて、失礼な私の態度にも怒るようなことはなかった。
「じゃあ、教室まで行かなくて済むように交換しよ」
「……わかった」
輝先輩と一緒にいると、なんだか調子が狂う。
思えば、彼には出会った日に泣き顔を見られ、次に会った時には情けない姿をさらしている。
だから、こんな風に話せるのかもしれない。
「これでいつでもラインできるな」
私のスマホの画面には、新たに『ともだち』に追加された名前がある。
『輝』とだけ表示された猫の写真が設定されたアイコンに、なんだか胸の奥がムズムズした。
「猫、可愛い……」
ぽつりと呟くと、輝先輩の表情が柔らかくなった。
「ああ、そいつ? トラって名前なんだ」
「トラ模様だから?」
「うん。母さんがつけたんだけど、安直だろ?」
おかしそうに笑う彼に、やっぱり心が落ち着かない。
気のせいか、視線を浴びている気もしていて、余計にソワソワした。
「あの……昨日の約束はもういいから、帰ってもいい?」
「え?」
きょとんとした顔を向けられて、次の言葉が出てこなかった。
もともと、私は人の視線には慣れていた。
水泳の試合では多くの人の前で泳ぎ、上位に入賞するのが常だった。
地区大会で一位になった時には、全校集会で表彰されたこともある。
一度、地元情報が載った広報誌のインタビューも受けたことがある。
そういう日々の中では注目されるのは珍しくなく、注目されるのが得意なわけじゃなくても少しずつ慣れていった。
だけど……。
「人に見られてる気がして……」
選手生命を絶たれた今、周囲の視線はどことなく同情や好奇を孕んでいる。
そのせいで、すっかり注目されることが苦手になっていた。
人の目が怖い。
どんな風に見られているのか、どんなことを思われているのか……。
考えたくないのに悪いことばかりが脳裏に過って、余計に不安と恐怖心が増す。
ましてや、目の前にいる輝先輩も、陸上選手としての未来を絶たれた人。
彼は校内外で有名だったし、注目度を増していた。
「気にする必要はないけど、気になるよな」
共感してもらえたことにホッとする。
たとえば、ここに真菜がいればきっと違ったと思う。
周囲もさほど私たちを気にしなかったかもしれないし、私も彼女が一緒にいてくれれば不安や恐怖心は和らいだだろう。
反して、今は輝先輩とふたりきり。
好奇心に満ちた目を向けてくる人たちから、早く逃げたくて仕方がなかった。
彼は周囲を一瞥すると、「とりあえず行こう」と言って歩き出した。
「え? えっ?」
困惑しながらも、輝先輩を追うしかないみたい。
慌てて傘を差し、ビニール傘に少し隠れた彼の背中を追った。
私の傘はネイビーに水玉模様が描かれている。
ビニール傘よりは周囲の視線を避けられる気がして、さっきよりもわずかに心がラクになった。
直後、スマホが鳴った。
傘を左手に持ち替えてスマホを確認すると、輝先輩からラインが来ていた。
【最寄り駅はどこ?】
不思議に思いながらも、家の最寄り駅を打って返信する。
前を歩く彼がスマホを確認しているのは、なんとなくわかった。
ただ、それ以降、輝先輩の返事はないままに駅に着き、彼は改札を抜けた。
後を追っていけば、輝先輩が私の最寄り駅に向かう方面の電車に乗った。
電車の中には、同じ学校の生徒の姿があった。
なんとなく輝先輩には近づけなくて、彼も私の方には来ようとしない。
お互い、視線を交わすことはあっても、一定の距離を保っていた。
【次で降りる】
再び送られてきたラインには、そう書かれていた。
次は私の家の最寄り駅で、輝先輩があんな質問をしてきた意味を察する。
彼に続いて電車から降りると、改札口を出たところでようやく合流した。
「……わざと、だよね?」
「人の目が怖い気持ちなら、俺もわかるからな」
輝先輩の声音は静かで悲しげで、それでいて言葉には重みがあった。
彼の過去の栄光と選手生命を絶たれてからの経緯を想像すれば、どんな思いをしてきたのかはすぐにわかる。
だって、きっと私と同じだったと思うから。
今の輝先輩からはそんな雰囲気は見えないけれど、彼が私に共感した時の表情はそう物語っていた。
「美波、このへんでおすすめの店はある?」
「え?」
「ほら、昨日なんか奢るって約束しただろ」
「そんなのいいよ……」
「遠慮するな。なんでも好きなものリクエストしろよ。カフェくらいあるだろ?」
突然そんなことを言われると、困ってしまう。
私が住んでいる街は、都会でも田舎でもない。
駅前にはスーパーやドラッグストアが並び、コンビニも数社が点在している。
生活にはとても便利だし、私もドラッグストアとコンビニは常連だ。
とはいえ、私が知る限りおしゃれな店は皆無だった。
カフェなんてないし、あるのは六十代くらいの女性が経営する古い喫茶店くらい。
あとは、スナックとか個人店の居酒屋とか……。大人が通うような店ばかり。
高校生が楽しめるようなところは、すぐに思い浮かばなかった。
「……お気に入りの店とかないの?」
「おしゃれな店なんてないし……。高校生が遊べそうなのはカラオケくらいだよ」
「そっか。学校の近くだと知り合いがいると思ってここにしたけど、それなら別の駅で降りるべきだったか」
輝先輩は、真剣な顔で「どうするかなー」と悩み出した。
「っていうか、本当に奢ってくれなくてもいいから……」
「それは俺が嫌なんだよ」
意外と義理堅いのか、彼が眉を寄せる。
「……じゃあ、コンビニに行くか。どっち?」
「えっと……こっちにも反対側にもあるけど……」
「美波の好きな方でいいよ」
輝先輩に促され、駅前にあるコンビニに入った。