さよなら、真夏のメランコリー

ゆらゆらと揺れる水。
塩素の匂い。


オレンジ色の文字を映す電光掲示板。
スタートの合図を耳に届ける電子音。


どこまでも続く透明な世界。
少しくぐもったような水しぶきの音。


早鐘を打つ心臓。
途切れ途切れに聞こえてくる声援。


手を伸ばしたゴール。
肩でする呼吸。


もう逃げたいと何度も思ったのに、一度だって逃げることはできなかった。
かけがえのない居場所。


だけど……もう二度と戻れない。
あの頃からずっと、私の心は溺れたままなんだ――。

小さい頃、お母さんに連れられて行った大きなプールで行われていた、幼児向けの一日体験スクール。
それが、私――牧野美波(まきのみなみ)と水泳の出会いだった。


三歳の私のお気に入りだった黄色の小児用ビキニは、競泳用のプールには似合わなかったに違いない。
だけど、確かドキドキしていた気がする。


ところが、子ども用の小プールでも水の中にいるのは怖くて、母にしがみついたまま離れなかった。
インストラクターのお姉さんの困ったような笑顔を、記憶のほんの片隅ではなんとなく覚えている。


それまでは、家の庭で広げる小さなビニールプールにしか入ったことがなかった。
そんな私にとっては、きっと未知の世界だったのだ。


母から手を離せば水の中にさらわれてしまうと思ったのか、私はその日、一度も母にしがみついて離れなかったのだとか。
それなのに、母がスイミングスクールの幼児コースに申し込んだせいで、翌週から火曜日と金曜日はプールに放り込まれることになった。


最初は一緒だった母も、二ヶ月も経つ頃には見学室から手を振ってくるだけになって、私は毎回母と離れるたびに泣いていた。
あの当時の話を聞かせてくれる時の母は、いつも懐かしそうに目を細めながらクスクスと笑った。


そして、そのあとで必ず『それがどうしてこうなったのかしら』とさらに楽しげに言う。
私はいつも、『自分でもわからないよ』なんて笑みを浮かべながら、どこか誇らしいようなくすぐったいような気持ちでいた。


水の中は苦しいのに、いつの間にかそこから上がることを望まなくなった。
小学校の低学年で選手育成コースに入って、自分で言うのもなんだけれど、一年後には試合でめきめきと頭角を現した。


将来は水泳選手になるものだと信じて疑わなかった。
あの日までは――。


 * * *


「ここはちゃんと覚えておけよー! 来週の小テストでも出すぞ」


数学教師の声に、クラスメイトたちから不満が上がる。
ノートを取り終わった私は、ぼんやりと窓の向こうを眺めていた。


夏を目前にした季節は、じっとりとした空気を孕んでいて、なにもしていなくても蒸し暑さに気が滅入る。
もうすぐ一番好きだった季節がやってくる。


それなのに、私の心は去年の夏に置いてきぼりにされたように、宙ぶらりんのままだった。
卒業までぽっかりと予定が空いた放課後を思えば、また焦燥感が募る。


「みーなみ! カラオケ行かない?」


クラスメイトで親友の川崎真菜(かわさきまな)が、私の席の傍に来て笑った。
スマホをマイク代わりにしながら「新曲歌いたいんだよねー」とアピールし、前の椅子に座って私の机に頬杖をつく。


中学から仲良しの彼女は、いつもタイミングがいい。
私が落ち込み始める時をわかっているのかと思うほど、見計らうようにして明るく声をかけてくれる。


空いている予定が埋まりそうなのに、私は首を小さく横に振った。
「ごめん」と続けたあと、眉を下げて微かな笑みを零す。


「……今日こそ、退部届を出そうと思ってて」

「一緒に行こうか?」


すかさず訊いてくれた真菜は、私の様子を窺うようにしながら待っていた。
急かすこともない彼女からは、心配と同情が伝わってくる。

「ううん、大丈夫」


本当は、ちっとも大丈夫なんかじゃない。
もうずっと前からバッグの中で出番を待っている退部届は、繰り返し手にしていたせいでグチャグチャだ。


「遠慮なんかしないでよ? 私と美波の仲なんだから」


ビシッと指を差して私を真っ直ぐ見てくる真菜に、苦笑いを向ける。
明るい笑顔は見せられなかったけれど、今はまだ許してほしい。


「遠慮してるわけじゃないよ。でも、これはね……ひとりで出しに行かないといけないと思うから……」


ぽつり、震えそうな声が教室内の喧騒にかき消されていく。
それだけで、なんだか無性に泣きそうになってしまった。


「じゃあさ、聞いてほしいこととかあったら、電話でもLINEでもしてきてよ! 夜遅くてもいいし、いつでも待ってるから」

「うん。ありがとう」


心細さを解してくれるような優しい表情に、今度こそちゃんと笑顔を返すことができた気がする。


彼女は心配そうにしながらも、いつも通りに振る舞ってくれた。
それがなんだか無性に嬉しかった。

「明日、クレープでも食べに行こうよ! 期間限定のデラックストロピカルアイスクレープが気になってるんだよねー!」

「なにそれ、めちゃくちゃ甘そう……。でも、私もクレープが食べたいかも」


その提案に頷けば、「約束だからね!」と弾んだ声で念押しされた。
私はもう一度首を縦に振ると、意を決して職員室に向かった。


一ヶ月後に夏休みを控えた校内は、いつにも増して蒸し暑い。
エアコンが効いている教室に反し、廊下はじっとりとした空気に包まれている。
ただ歩いているだけでも、肌が汗ばんでいった。


早くも夏休みの予定を話し合う声や、部活に向かうユニフォーム姿。
賑やかな声や慌ただしい音を聞きながら、私の足取りは鉛をつけられてしまったかのようにどんどん重くなっていく。


職員室が見えてくると、それはよりいっそうひどくなった。
心なしか、息も上手くできない。


頭がぼんやりと白んでいく感覚に、思わず足を止めた。
深呼吸を繰り返し、気休めにもならない『大丈夫』を心の中で唱える。


職員室のドアは開いていて、ここからでも室内の様子は確認できる。
顧問の古谷(ふるたに)先生の姿もしっかり見えた。


このまま引き返してしまいたくなった自分自身を奮い立たせるように、足にきゅっと力を込める。
直後、もう治ったはずの左足首に鈍い痛みが走った。

錯覚だとわかっているのに、私を追い詰めるような鈍痛が広がっていく。
あの日の激痛が走り抜けるようで、反射的に体が強張った。


息が苦しいのも、足首の鈍痛も、きっと気のせい。
頭で理解していることだけに意識を集中させて、シャツの胸元を握りしめるようにしながらゆっくりと息を吐くと、ようやく体内に酸素を取り込めた気がした。


大丈夫、ともう一度心の中で言い聞かせる。
足取りは重いままだったものの、なんとか再び歩き出すことができた。


職員室に足を踏み入れ、「失礼します」と頭を下げる。
傍にいた先生たちの視線が刺さるのを感じて、声が喉に貼りついてしまいそうだったけれど、必死に平静を取り繕った。


「古谷先生はいらっしゃいますか?」

「おー、牧野! こっちだ」


古谷先生はすぐに私に気づき、私は手招きしてくれた先生のもとへと急ぐ。
「あの……」と切り出すと、古谷先生がどこか困ったような笑顔で奥を指差した。

「奥で話そう。あっちの方がゆっくり話せるから」

「はい……」


職員室の一角には、パーティションで仕切られたスペースがある。
小さなローテーブルと、それを挟むようにしてふたつのソファが置かれている。


私は利用したことはないけれど、生徒と先生がちょっとしたことを話し合う時なんかに使われていることは知っていた。
先生の後を追うと、奥のソファに促された。


黒い革張りのソファは、擦れたような跡や縫い目が裂けそうな部分が目立っている。
年季が入っているのが見て取れた。


「あの、先生……」


座り心地の悪いソファに背中を預けることはなく背筋を伸ばし、よれよれの用紙をローテーブルの上に置く。
【退部届】という名目の下には、私の名前と退部理由が記してあった。


「やっぱり、退部するのか?」

「……はい」


沈黙のあとで零した声が、遠くから聞こえてくる喧騒にかき消される。
心臓が嫌な音を立て、息が苦しくなった。


「そうか……。前にも言ったが、マネージャーという形で残る手もあるぞ?」


低く優しい声が、耳に届く。
遠慮がちに紡がれる言葉は、私の傷口をえぐらないようにしてくれているのだとわかる。


だけど、どれだけオブラートに包まれたって、心はひどく痛んだ。