選手生命を絶たれた苦しみと痛みを知っているからこそ、きっと同じような境遇に立たされた人の気持ちがわかる。
それは、たぶんいつか輝先輩自身の強みになる。
輝先輩に置いていかれたなんて、今はもう思わない。
だって、彼が自分の苦しみや痛みと向き合ってきたことがわかるから。
「だから、美波も大丈夫だよ」
「え……?」
「今は未来に希望が持てなくて、まだ自分の置かれた状況を受け入れられないかもしれない。つらくて苦しくて、泳げる奴らが羨ましい気持ちもあると思う」
輝先輩の言葉が、心を優しく包み込んでいく。
「でも、それでいいんだ。そういう気持ちを持ってることは当たり前だし、羨んだり憎くなったりするのもおかしいことじゃないから」
まるで、私の気持ちを代弁するように。
汚い部分も、醜い部分も、丸ごと全部肯定してくれる。
「だから、そんな風に思う自分を否定しなくていい。そういうところも受け入れていけば、意外と少しずつ傷は癒えていくから」
今はまだ、彼の言うことをすべて信じることはできない。
「俺もそうだった。時間が解決してくれたこともたぶんあるけど……でも、結局は自分の汚い感情も受け入れられるようになって、ようやく苦しみから抜け出せた」
乗り越えた人間と、まだ足踏みをしている人間じゃ、天と地ほど違うと思うから。
「時間はかかったけど、自分の傷と向き合えるようになって……。そしたら、自分でも驚くほど今の状況を受け入れて、ちゃんと折り合いをつけられた」
だけど、私だって前を向きたい。
苦しさや不安に捕らわれてばかりいないで、ちゃんと笑えるようになりたい。
「きっと、美波にもできる。俺ができたんだから、つらい時に逃げずに練習してきた美波にできないはずがない」
子どもみたいにうずくまっていた情けない私のことを、こんな風に信じてくれる人がいる。
輝先輩が『できる』と言ってくれるなら、できるかもしれない……と思える。
「先輩……」
狭い傘の中、彼と目が合う。
視線が真っ直ぐに絡んだ瞬間、輝先輩が優しい笑みを浮かべた。
「誰よりも自分に負けたくなんだろ?」
「うんっ……」
視界がじわりと滲む。
胸が詰まって、喉の奥が絞まって、鼻の奥がツンと刺すように痛む。
「俺たちは今まで陸上や水泳っていう狭い世界だけで生きてきたけど、たぶん世界は俺たちが思ってるよりもずっと広いし、選択肢は無限に広がってる。だから、怖がることなんてない。美波にも道は見つかるはずだから、一歩を踏み出してみろ」
差し出された手が、私の頬に触れる。
その手はかじかんだように冷たいのに、なんだかとても温かく思えた。
「俺はちゃんと隣にいるから」
優しい言葉が力強い声音で紡がれた時、目尻から涙が零れ落ちた。
「うん……」
小さく返事をすれば、彼が大きく頷いた。
その瞳は私に寄り添うように優しくて、だけど大丈夫だと言わんばかりにひたむきだった。
いつの間にか雪はやんでいた。
曇り空からは小さく光が漏れ、天使の梯子ができていた。
バカみたいかもしれないけれど、それがなんだか一筋の希望みたいに思えた。
私たちは、きっと自分で思っているよりもずっとちっぽけで。世界の片隅で泣き喚いていても、その声を拾ってくれる人はとても少ない。
だけど、私の傍には輝先輩がいる。
真菜だって、両親だって……たぶん、他にも私を思ってくれている人はいる。
だから、もう大丈夫。
動けなかったこの場所から踏み出すことを怖がらなくていい。
だって、ちっぽけな私たちの世界には、私がまだ知らないたくさんの希望の光があるはずだから――。
冬を超えて桜が咲き誇り、また夏がやってきた。
雪が降るほど寒かった日々がうそみたいに、毎日暑い日が続いている。
私は進級して受験生。
輝先輩は、無事に志望校だったF大に合格して、理学療法士を目指している。
高校生と大学生という別々の環境に身を置いて、早三ヶ月半。
「美波!」
時にはくだらない喧嘩をしながらも、付き合ってもうすぐ一年を迎えようとしていた。
彼の髪は、また明るくなった。
今度は金髪まではいかない色だけれど、それでもほとんど金髪に近かった。
「先輩、遅刻だよ」
「悪い!」
膨れる私に、輝先輩が顔の前で両手を合わせる。
「教授に質問しに行ったら、資料整理させられてさ。お詫びになんか奢るから」
「じゃあ、パッションフルーツフラペチーノ」
「新作のやつな。いいよ、ベンティにする?」
「そんなに飲めないから」
本当は怒ってなかったけれど、彼が優しく笑ってくれるのが嬉しくて、もう少しだけ拗ねたふりを続けようと思った。
コーヒーショップは、涼みに来た学生たちでいっぱいだった。
なんとか空いていた席を確保して、ベンティサイズのパッションフルーツフラペチーノを仲良く飲む。
「そういえば、来月行きたいとこ決まった?」
程なくして飛んできた質問に、私は笑顔で頷く。
「うん。遊園地がいい」
「暑いのに遊園地? 水族館じゃなくて」
「いいの。付き合った記念日だから、今度はカップルとして行くんだもん」
私がつっけんどんに返すと、輝先輩は嬉しそうにしていた。
「わかった。じゃあ、遊園地な。でも、勉強もしっかりしろよ」
「わかってるもん」
「来年から同じ大学に通えるの、楽しみにしてるんだからな」
「ご心配なく。この間の模試の結果、オールAだったし」
「え、マジ?」
「マジ。めちゃくちゃ頑張ったもん」
模試の結果をドヤ顔で見せれば、輝先輩は心底驚いていた。
それもそのはず。
今年の春に受けた時には、C判定とD判定ばかりだったんだから。
勉強は苦手だけれど、予備校に通うようになって身が入るようになったし、なによりも目標ができたからしっかりと頑張れるようになった。
もっとも、彼と同じ大学に通いたいというのが一番のモチベーションになっているのは内緒だけれど。
「……去年の俺より成績いいな」
「だって、ほとんど遊ばずに頑張ってるし」
「なんか悔しいわ」
「ふふん」
「でも、美波の成績が上がってくれた方が、俺としても安心だしな。一緒の大学に通えるつもりで待ってるし」
ドヤ顔でいた私に反し、輝先輩が甘い笑顔になった。
「っ……」
急にそんな表情をされると、ドキッとするからやめてほしい。
それに、胸を張っていた私が子どもみたいだ。
「よし、美波の大好物のチーズケーキも奢ってやろう」
「わーい、お父さんありがとう!」
「誰がお父さんだ!」
ドキドキしていることをごまかすために大袈裟に喜ぶと、彼が私の頬を軽くつねってからカウンターの方に行った。
(っていうか、未だにこんなにドキドキするってどうなんだろ……)
輝先輩は知らないだろうけれど、私は付き合った頃から変わらず……もしかしたら、その時よりも今の方がドキドキする回数が増えているかもしれない。
彼が大学生になってから会える日が減っているせいだろうか。
輝先輩に会うたびにドキドキしすぎて、胸が苦しくなる。
会えて嬉しいのに、こういう時はどうすればいいのかわからなくなる。
余裕そうな彼を余所に、私ばかり困っているに違いない。
* * *
八月。
お盆に入ってすぐに、輝先輩との約束の日が訪れた。
会うのは二週間ぶり。
私は予備校とバイト、彼は試験やバイトで忙しかったから仕方がないとはいえ、この半月はやっぱり寂しかった。
だからこそ、今日が楽しみすぎて、昨夜はなかなか寝付けなった。
(なんかデジャヴ? 去年も全然寝れなくて遅刻したんだよね)
あの日、輝先輩から告白されるなんて夢にも思っていなかった。
ちょうど今くらい時間は、駅からスマホを取りに戻っていた。
今日は絶対に遅刻したくなかった私はもちろん、輝先輩も早めに待ち合わせ場所に来てくれて、予定よりも十分前に合流できた。
「今回は遅刻しなかったな」
そう言って笑った彼も、きっと昨年のことを思い出していたんだろう。
同じことを考えていたんだと思うと、心がくすぐったくなった。
晴天の今日は、開園前の遊園地の前はたくさんの人で賑わっていた。
プールに行くであろう人たちと同じくらい、アトラクションで遊ぶ人も多そうだ。
「今年は去年より混んでるな」
「うん。あんまり乗れないかな」
「うーん……かもな」
もしアトラクションにあまり乗れなかったら残念だけれど、なによりも輝先輩とまた一緒に来られたことが嬉しい。
だから、めいっぱい楽しもうと決めた。
開園後は、ふたりで足早に入場した。
去年と同じ順番で回ろうと話していたのに、ふたりしてちゃんと覚えていなかった。
それがおかしくて、冗談交じりに責任転嫁し合っては何度も笑った。
「そろそろなんか食う? 朝早かったし、腹減ったよな」
「あのさっ……! 私、お弁当作ってきたんだけど……!」
「え?」
「あんまり上手くないかもだけど、味は普通だと思うから!」
「マジ? 嬉しい。美波の手作り、初めてじゃん」
満面に笑みを湛えた彼を見て、急に不安が押し寄せてくる。
この日のために何度も試作はしたけれど、本当に大丈夫かな……とドキドキしてきた。
そんな私を、輝先輩は館内に促す。
フードコートと同じエリアには、持込み用の飲食物が食べられるスペースがあって、そこでランチを摂ることにした。
「食っていい?」
私が使い捨てのランチボックスを差し出すと、受け取った彼の目が輝いた。
緊張しながらも頷き、輝先輩の様子を静かに窺う。
「うわっ、うまそう!」
ランチボックスに詰めたのは、から揚げ、卵焼き、赤ウインナー、パプリカのレモンマリネ。おにぎりは、梅と塩昆布にした。
この猛暑の中で持ち歩くのは心配すぎて、保冷バッグの中に保冷剤をたくさん入れてきたからまだしっかりと冷えている。
そのせいで、から揚げが硬くなっていないか心配になった。
「いただきます」
丁寧に両手を合わせた彼は、真っ先にから揚げを口に放り込んだ。
軽く咀嚼した直後、パッと笑顔を向けられた。
「めちゃくちゃうまい」
「本当に? お世辞じゃない?」
「お世辞じゃなくて、本当にうまいよ。美波、料理始めたばかりなんだよな?」
「うん」
「才能あるんじゃない? 卵焼きもうまい」
どうやら、本当においしいと思ってもらえたみたいでホッとする。
「いい栄養士になれそうだな」
すると、輝先輩がそんな風に言ってくれたから、思わず笑みが零れた。