さよなら、真夏のメランコリー

「まぁ、実際はまだじいちゃんが亡くなった実感もなんだけどな。あんまり会ってなかったし、色々いきなりすぎて現実味がないっていうか……。美波に会った時も、『あけましておめでとう』って言っちゃったくらいだしな」


そういえば、輝先輩はそう口にしていた。
本来、ご不幸があった時には、自分自身も相手にも『あけましておめでとう』とは言わないはずなのに。


「……で、母さんはまだあっちにいるんだけど、父さんはもう仕事を休めないし、兄貴と俺も昨日の夜に一緒に帰ってきたんだ」

「そうだったんだね」


彼の父親は、鉄道会社の社員なんだとか。
恐らく、普通は年末年始だって休暇はないはず。
身内にご不幸があっても、さすがに長期間は休めなかったのかもしれない。


考えることがありすぎて、思考はパンパンだったけれど……。輝先輩は怒っていたわけじゃなかったのだとわかったことで、またひとつホッとした。


「でも、言い訳なのは事実だし……本当にごめん」

「謝らなくていいよ。そんなに大変な時に、私の方こそ嫌な思いをさせてごめんね。せめて私がちゃんと返事するか電話に出てたら、先輩はそんなこと考えずに済んだかもしれないのに……」


後悔でいっぱいになっている私に、彼がかぶりを振る。

「そもそも、悪いのは美波に進路のことを隠してた俺の方だから……」

「それはっ……! 先輩は……私のことを考えて……」

「うん、確かに最初はそのつもりだった。でも……途中からは怖かったのもあると思う」

「怖かった……?」

「うん。美波が離れていくんじゃないかって……」

「え……?」


予想外の言葉に、目を真ん丸にしてしまう。
輝先輩は自嘲交じりに微笑し、息を深く吐いた。


「俺が進路のことを話してなかったこともだけど、それだけじゃなくてさ……」


彼は言いにくそうにしながらも、必死に言葉を探しているようだった。


「美波と俺が知り合った時、美波は俺と自分が似たような境遇だったから心を開いてくれただろ?」

「それは……そうかもしれない、けど……」


否定はできなかった。
だって、たぶんその通りだったから。


「仲良くなれたのも、似たような経験をしてるっていうのが大きかったと思うんだ」

「うん……」


あの頃の私は、なにもかもがつらくて……。体は生きているのに、心はずっと事故に遭った一年前で止まったままだった。
全部がどうでもよくて、絶望感でいっぱいだった。


そんな中、声をかけてくれたのが同じような経験をした輝先輩だったからこそ、きっと彼との距離が縮まっていったのだ。
タイミングが違ったり、他の人だったりしたら……。こんな風に付き合うことはなかったと思う。

「だから、俺はもう踏ん切りがついてるってわかったら、美波はまた心を閉じて俺から離れていくんじゃないかって考えた……。そしたら、もっと早くに話すつもりだったのに、そういう不安ばかり大きくなって言えなくなった……」


輝先輩の気持ちが伝わってくるみたいで、心が痛い。
それなのに、彼の想いが嬉しい。


「あっ……」


ふと声を漏らした輝先輩が空を仰いだ。
私がその視線を追うと、どんよりとした曇り空から雪が降ってくるのが見えた。


「雪だ。本当に降ったね」

「だな。とりあえず移動する? このままだと濡れるし」

「待って。傘、持ってきてるから。このまま話したい」


彼は立ち上がろうとしたけれど、私はあえて制した。


今ここですべてを話せば、もっと輝先輩に近づける気がしたから。
彼の心の中を、できるだけたくさん知りたい。


全部を理解するのは無理でも、少しでも寄り添い合いたい。
傘を差した私に、輝先輩が小さく笑う。


地面に落ちては消えていく雪の結晶のように、ずっと胸の奥にこびりついていた不安が溶けていった。

しんしんと雪が降り始めた公園は、とても静かだった。
輝先輩は私の手から傘を抜き取り、肩を寄せ合うようにして座り直した。


「俺の足のこと、ちゃんと話したことなかったよな」

「うん……」


今まで、自分からは訊けなかった。
自分が水泳について触れられたくないからこそ、自分からは彼に陸上のことは訊かないと決めていたから。


「俺、一年のインハイの直後、練習中に右膝の靭帯を断裂したんだ」

「靭帯?」

「うん。脱臼して、靭帯が切れた。別にそれ自体は全然珍しいことじゃないし、陸上選手以外にもスポーツ選手なら結構経験してる人はいる」


私は静かに相槌を打ち、ただ話を聞くことに徹した。


「通常はさ、膝の靭帯が断裂したら、固定して周辺の組織がくっつくのを待つか、もしくは靭帯の再建手術をしてリハビリをするか、なんだって」


前者は、普段スポーツをしなかったり、手術しない方がいい事情があったり。もしくは、日常生活に差し障りがなさそうだったり。
そういう人が手術はせずに膝の周辺を固定してやり過ごし、ある程度の期間が経つのを待つのだとか。


靭帯は断裂したままだけれど、激しいスポーツをするわけじゃないなら基本的には差し支えはないらしい。

逆に、手術をするのはスポーツ選手や日常的にスポーツをする人。
靭帯が断裂している以上、脱臼のリスクは上がるため、日常生活がスポーツと密接している人の大半は靭帯再建手術を受け、その後はリハビリに励む。


ただ、そのリハビリが大変なのだ。


痛みが強かったり足が思うように動かなくなったりしているのはもちろん、リハビリが上手くいくとは限らない。
上手くいっても、一〇〇パーセント元通りになるという保障はない。


完治したとしても、どうしたってけがをする前よりも不調が生じることはある。
そもそも、リハビリ期間は数ヶ月に及ぶため、その間はまともなトレーニングもできない。


「サッカー選手で約一年かけて復帰した人がいるって見て、その時は希望よりも絶望感の方が大きかった。一年なんて次のインハイには間に合わない。高校生の俺にとっては、致命的なことに思えたんだ」


それは当たり前だ。
部活でもスクールでも、一日一日の練習が過酷だった。


ほんの数日休んだだけで、感覚を取り戻すのにそれ以上の期間がかかることだってある。
だから、部員もチームメイトたちも、滅多なことでは休んでいなかった。

「でも、けがしてしまった以上、手術とリハビリを受けるしかなかった。必死に痛みに耐えてリハビリに通って、何ヶ月もかけて少しずつトレーニングもして……。そうやって、ようやく足が元通りになりそうだった時、もう一回靭帯を断裂したんだ」

「え……?」

「今度はもう、致命的だと思ったよ」


輝先輩が眉を下げ、遠くを見つめる。
その横顔は、今もまだ当時の傷を鮮明に覚えていると言わんばかりだった。


「もう一回手術してリハビリをしたって、最初にけがした時みたいに走れる保障はない。なにより、仮にそれで治ったとしても、もう最後のインハイには間に合わない」


彼は、最初のリハビリに数ヶ月を要し、インターハイ予選には間に合わなかった。
そこへ二度目のけが。


もし完治したとしても、それは選手として一〇〇パーセント問題がない状態とは限らない。
だいたい、リハビリとは別にトレーニングもしなければいけないのに……。輝先輩が絶望するのは、当然のことだ。


「でも、俺は諦め切れなくてさ。もう一回手術してリハビリにも通って……。大学でまた陸上できるんじゃないかって、心のどこかで期待してたんだ」


結果は、これまでの彼を見ていれば聞くまでもない。
そもそも、前に『選手としてはもう走れない』と聞いていたのだから……。

「手術もリハビリも失敗したわけじゃない。でも、成長期のタイミングで同じ場所を二回手術するのって、選手としては致命的だったんだと思う。まともにトレーニングができてなかったのもあって、前みたいに走れなくなった」


もう選手として泳げない……とわかったあの日の気持ちが、鮮明に蘇ってくる。
目の前が真っ暗になって、息の仕方も忘れたほど苦しくてたまらなかった。


「で、もう諦めようと思った。可能性はゼロじゃなかったんだろうけど、マイナスから再スタートできるほど希望は持てなかったから……」


相槌を打つことも忘れていた私は、ただ輝先輩を見つめていた。
傷ついた過去の彼を思えば、胸の奥が痛い。


「俺さ、リハビリしてる時、何度も心が折れかけたんだ。痛いし、思うように動かないし……でも、周りはどんどんタイムを伸ばして結果を出していくし……」


不安と苛立ち、そして焦り。
その渦中にいた輝先輩の気持ちは、たぶん私も知っている。
まったく同じじゃなくても、きっとそれらを味わったことがある。


「前みたいに動かない足にも、自分の環境にも苛立って……。部員を見るだけでも心がざわついて……。毎日苦しいのに、そういう弱音を吐く場所がなかった。顧問もコーチも『待ってるから頑張れよ』って言うだけで……どんどん追い詰められた」

輝先輩がこちらを向く。


「そんな時に、美波の試合を見たんだ」


次いで紡がれたのは、予想外の言葉だった。


「え?」


微笑んだ彼は、少しだけ悲しそうで。
だけど、もう過去で立ち止まっている様子はない。


苦しんだ時間とは決別したような、どこか晴れやかにも見える表情だった。


「いつ……?」

「インハイで準優勝した時。バタフライを泳いでた」

(あの時の……)

「圭太のいとこがインハイに出ててさ。俺のひとつ上なんだけど、結構気さくな感じの兄ちゃんで、何回か会ったことがあったから一緒に応援に行ったんだ」


宮里先輩のいとこは他校にいて、今は大学で水泳を続けているのだとか。
そのインターハイでは、五〇メートルの平泳ぎで六位に入賞したらしい。


「で、その時に初めて美波が泳いでるところを見た」


輝先輩は、あの日のことを思い出すように目を細めている。


「美波はうちの学校では有名だったし、よく笑ってる姿を見かけてて、なんとなくだけど知ってた。でも、俺は別に水泳には興味がなかったから、実際に泳いでるところは見たことなくてさ」


それは私も同じだった。
彼は有名だったし、認知はしていたけれど、ちゃんと試合を観たことはない。

「だから、正直驚いた。こんなに綺麗に泳ぐんだって、めちゃくちゃ目を奪われた」

「え……?」

「バタフライって、蝶って意味だろ? 本当に蝶が舞ってるみたいっていうか……スピードがあって力強いのに、すげぇ優雅なフォームだって思った」


そんな風に言われたのは初めてで、たじろいでしまう。
時々、『フォームが綺麗』とか『かっこいい』と褒められることはあったけれど、『蝶が舞ってるみたい』なんて言われたことはない。


それも、輝先輩の言葉だと思うと、身の置き場がないような……。なんだか、ムズムズした感覚に包まれた。


「……でも同時に、めちゃくちゃ悔しかった」

「悔しい?」

「うん。俺は選手として走れないのに、この子はまだまだ希望があるんだって思ったら……羨望とか嫉妬で、美波のことが眩しく見えて仕方がなかった」


そんな私を見ていられなくて、輝先輩は「プールが見えないところまで移動した」と自嘲交じりに笑った。


「でも、そのあとに泣いてる美波を見かけたんだ」


その言葉で、ふと思い出す。
部員たちから離れた場所でひとり泣いていたあの日のことを……。