さよなら、真夏のメランコリー

「ブランコとか久しぶりに乗ったな」

「小学生の時とか、靴飛ばししなかった?」

「やったやった。駄菓子とか賭けて、俺はだいたい一位か二位だった」


そう言うと、彼が立ち漕ぎを始めた。
浴衣を着ている私は、同じようにしたくなったけれど我慢する。


輝先輩のブランコがどんどん大きく揺れるのを見て、思わず笑みを零していた。


「靴飛ばしやってよ」

「いいけど、なんか賭ける?」

「私は下駄だからできなよ」

「じゃあ、あの滑り台を超えたらなんか一個言うこと聞いてもらおうかな」

「えっ? うーん……じゃあ、おいしい棒でいい?」

「十円かよ!」


有名なスナック菓子を景品候補にすると、彼がケラケラと笑った。
その間にもブランコはさらに大きく揺れ、半円を描こうとする。


間もなくして輝先輩が右足の靴を飛ばすと、スニーカーは宙を舞った。


「あっ」


ふたりの声が重なる。
白いスニーカーは放物線を作るように飛び、三メートルほど離れた滑り台を見事に超えた。


「本当に上手いじゃん」

「だから言っただろ」

「おいしい棒、明太子味をプレゼントしまーす」

「十円って、小学生レベルだからな」

輝先輩はブランコからひょいっと下りると、クスクスと笑う私を振り返りながら言い、スニーカーを取りに行った。


「ケンケンして靴取りに行くのって、なんかダサいね」

「言うな。自分でも思ったけど、あえて言わなかったのに」


こんなくだらないやり取りすら楽しくて、また笑ってしまう。
喧騒のない小さな公園には、私たちの楽しげな声が響いた。


スニーカーを履いて戻ってきた彼と顔を合わせると、またどちらからともなく噴き出してしまった。
くだらなすぎて、きっと他の誰も笑ったりしない。


そんなことでも、輝先輩となら笑顔になる。
お腹を抱えていた私に、ふと影がかかった。


顔を上げると、輝先輩が目の前に立っていた。
どうしたの? と訊こうとした声が喉で止まる。


視線が交わった彼の目があまりにも真っ直ぐで、言葉が出てこなかった。


じっと見つめられたまま、うそみたいな静寂に包まれていく。
なにかを求めるような瞳に心ごと捕らわれて、息をするだけでも胸が苦しくなる。


「先輩……?」


鼓動が速まっていることに気づいた時には、それだけ言うのが精一杯だった。

誰かに恋をしたのも、恋人ができたのも、生まれて初めてのこと。
だけど、なにかを求めていた双眸が〝なにを求めているのか〟わからないほど、たぶん私は無知じゃない。


花火の音のようにドキドキと響く拍動。
世界にふたりだけが取り残されたような静けさ。
夏の風が私たちを包んで、恋心だけを剥き出しにしていく。


私よりずっと背の高い体が屈められ、私たちの距離がグッと縮まった。


「っ……」


沈黙の中、輝先輩の顔がゆっくりと近づいてくる。
息を呑み、端正な顔に見入りそうになって。それでも、咄嗟に目をギュッと閉じる。


瞼を下ろす直前、私の視界に移ったのは今夜の三日月みたいな金色の髪。
刹那、唇に柔らかな体温が押し当てられた。


重なったのは、きっと彼の唇。
目を開ける勇気はなかったけれど、そうだとわかった。


「美波」


優しく呼ばれて、恐る恐る瞼を開けてみる。
すると、輝先輩が私を見下ろしていた。


お互いに照れくさいのが伝わって、うるさいくらいの心臓が今にも飛び出してしまいそうで。
それなのに、彼がもう一度顔を近づけてくると、私は静かに瞼を閉じていた。


二度目のキスは、甘くて優しくて。触れた唇の熱に、思考が溶けていく。


輝先輩と付き合って、今日で一ヶ月。
胸を甘く締めつける想いが夏の匂いを巻き込んで、もっと大きく膨らんでいった。

九月を駆け抜け、十月も終わる頃。
夏の匂いはすっかり消え、秋へと移り変わりつつあった。


私はバイトにも慣れ、学校よりもずっと楽しんでいる。
だけど、あれだけ憂鬱だった学校も、前ほど嫌だとは思わない。


夏休み前に退部届を出したこと。
真菜がいつも一緒にいてくれること。
少しずつ少しずつ、時間が経ったこと。


そういう理由もあるけれど、一番は輝先輩のおかげ。
彼と重ねた日々が、私の傷をゆっくりと癒してくれつつあるのかもしれない。


輝先輩は、前にも増して受験勉強に励んでいる。
夏休みと同時にバイトを辞めたあとは、家庭教師の日を増やした。
週三日だった家庭教師の訪問が週五日になり、この間受けた模試の結果は結構よかったのだとか。


ただ、まだ志望校は決まっていないみたい。
学校でも家庭教師にも急かされて、昨日の電話で話した時には辟易している様子だった。


(先輩も、陸上で学校を選ぶつもりだったんだもん。困るよね)


彼の気持ちがわかるから、同情めいた感覚を抱いてしまう。


私だって早く進路を決めなければいけないけれど、輝先輩に比べれば私はまだ一年の猶予がある。
そう思うと、ずっと気はラクだった。

(とはいえ、三年の選択授業はもうすぐ決めないといけないんだけど)

「美波、理系と文系どっちにするか決めたの?」

「まだ……」

「提出、明日までだよ?」


うちの学校は、三年で理系と文系にきっぱり分かれる。
今まではまんべんなくしていた授業が、三年になると同時に受験対策がされ、理系か文系かでクラスも変わる。


その希望調査書の提出が明日までだったりする。
そして、私の調査書はまだ名前とクラスの欄しか埋まっていない。


「そうなんだけど、進路が決まってないから書けなくて……」

「うーん、確かに……。でも、これは仮の希望調査だし、今はとりあえず書いておけばいいんじゃない?」


先生は、『この調査は三学期にもする』と言っていた。
今回はとりあえず希望を訊くという形。


仮決めみたいなもので、これで決定じゃなくていい……と。
三学期に提出する調査書が、最終決定の場なのだとか。


「真菜は文系でしょ?」

「うん。専門だしね」

「私も文系がいいなぁ」

「じゃあ、今はそうしておけばいいんじゃない? 他のクラスにもまだ決めてないって子がいたよ」

焦ってばかりだった心に、救いの手が差し伸べられたような気持ちになる。
彼女を始め、クラスメイトの大半は、もうどちらにするか決まっている様子で、私だけが取り残されている気がしていた。


そのせいで、焦燥感でいっぱいだった。
だけど、クラスが違うとはいえ、同学年にまだ進路どころか理系か文系かも決まっていない子がいると知って、安堵感が芽生えた。


(こんなことで安心してる場合じゃないってわかってるけど……)


頭で考えているのとは裏腹に、不安と焦りでいっぱいだった心に少しばかりの余裕ができる。


「よし! こういう時は甘いものだ!」

「え?」

「バイト前になんか食べに行こ!」

「また?」

「いいじゃん! アイスでもクレープでも、フラペチーノでもいいよ!」

「私、ちょっと太ったから甘いものは……」

「美波はもともと細すぎただけ! まだ標準体重になったくらいじゃないの?」


話したことがない体重をずばり当てられて、ドキッとする。


「なんでわかるの……」

「勘? インフルエンサーの投稿とか見まくってるし」

「それでもすごいんだけど」

「まぁね~」


明るく笑った真菜が、「ほら行こ!」と促してくる。
少しだけ悩んだけれど、フラペチーノなら……と承諾した。

コーヒーショップは、今日も賑わっている。
店内はほぼ満席で、テーブルはなんとか確保できた。


ふたりとも期間限定のモンブランフラペチーノを選んで、私はわずかな抵抗でミルクと生クリームを無脂肪でカスタムしておいた。


「あ、めっちゃモンブランだ!」


先にフラペチーノを飲み始めた真菜は、一口目で目を見開いた。


「本当だ。なんか、フラペチーノっていうかケーキ?」


私も口をつけたあとで、心底共感する。
ミルクも生クリームも無脂肪にしたのに、充分すぎるほど甘い。
フラペチーノとは思えないくらいモンブランそっくりで、ケーキを飲んでいる気さえした。


「おいし~! 疲れた体に沁みわたって生き返る~」

「真菜の言い方、なんかおばあちゃんみたい」

「女子高生だって疲れるでしょ! 毎日朝から夕方近くまで授業受けて、放課後は補習やバイト、宿題もがっつりあるしさー」

「確かに」

「これで受験生になったらもっと忙しくなると思うと、今から憂鬱なんだけど」


ため息をついた彼女に、「だね」と頷く。
それよりも、私の場合は理系か文系か決めなければいけないんだけれど。

「嫌なこと思い出しちゃった……」

「あー、希望調査?」

「うん。理系は嫌いだから文系がいいけど、志望校によってはそうもいかないし」

「でも、美波は成績上がってるし、どっちでも大丈夫じゃない?」

「だからって、苦手な選択はしたくないじゃん」

「なるほど。そりゃそうだ」


まずは進路。
それを決めないことには、理系か文系かなんて決めようがない。


なんとなくでもいいから、とにかく大学に進学するのか、それとも真菜のように専門学校にするのかでも、全然違ってくるだろう。


「輝先輩と同じ学校を受けたりしないの?」

「え~、どうだろ……。っていうか、私、先輩の進路知らないんだよね」

「え? なんで? 彼氏の進路だよ?」

「そうなんだけどさ……」


フラペチーノを飲んで、ため息を漏らす。


「ほら、先輩ってけがで陸上をやめてるじゃん? 先輩、陸上で進学を決めるつもりだったみたいで、たぶん他にやりたいことはないんだよね」


最近の輝先輩の様子を思い返してみても、進路が決まった素振りはない。
むしろ、どんどん悩んでいるように見える。

「私もそうだったから気持ちがわかるの。だから、やっぱり訊きづらくて……」

「そっか」


彼も私も、お互いの傷には触れない。
前に一度、少しだけ話をしたけれど……。輝先輩が選手としてはもう走れない、ということしか知らないままだった。


「先輩からは話そうとはしない感じ?」

「うん」

「じゃあ、訊きづらいね。訊いても怒ったりはしないだろうけど……」

「でも、きっとプレッシャーとかになるじゃん? 私も、水泳のことは訊かれたくなかったし、今でも訊かれたくないし……。そういうのが全部わかるから、やっぱり話しにくいよ」


もし彼が話してくれるのなら、私は喜んで聞く。
輝先輩のことなら知りたいし、彼が話したいと思ってくれるのなら嬉しいから。


だけど、きっと今はまだそうじゃないんだ。
私が輝先輩にすべてを打ち明けられていないように、彼もたぶんまだ話す覚悟がないんだと思う。


「待つの?」

「……うん、そのつもり」

「偉いね、美波」

「そんなことないよ。本当は早く知りたいもん。でも、触れられたくない気持ちは誰よりもわかるつもりだから……」

「そっかぁ」


真菜は息を深く吐くと、にっこりと笑った。


「早く話してくれるといいね」

「うん」

(そうだよ、先輩。私はちゃんと聞かせてほしいんだよ)


寂しい気持ちを流し込むように、フラペチーノを飲み干した。