世界には青しかないんだ

 後からゆっくりと階段を上りきると、鳥居の奥の石畳に昇平が仰向けになって倒れていた。
 大きく腹を上下させながら暴れる息を整えている。
 勝負はおまえの勝ちだよ。
 気がつけば夏の太陽が傾いて淡い夕焼け空が広がり始めていた。
 足下の港は山の影がかぶさって薄闇に沈んでいた。
 その港にちょうどフェリーが入ってきたところだった。
 島と本土の間は二隻の小型フェリーが三十分おきに往復している。
 本土側の港にも同じようなタイミングでフェリーが接岸していた。
 港に着岸したフェリーから本土で働いてきた大人たちがごま粒がこぼれるように降りてくる。
 六時半を過ぎていた。
 入れ替わりに乗る方の列には肩掛け鞄を背中に回した美緒が並んでいるのが見えた。
 どんなに小さくても美緒の姿を間違えることはない。
 まるで、目の前にいるかのようにはっきりと分かる。
 ――絶対に手が届くことはないのにな。
 フェリーの最終便は八時だけど、それだと美緒の乗る電車の接続に間に合わなくなるらしい。
 だから、いつも練習を早退して七時のフェリーに乗って帰るんだそうだ。
「おい、昇平。掛川が船に乗っちまうぞ」
「お、おう」
 ふらつきながら立ち上がった昇平が鳥居をくぐって階段に戻ろうとする。
「あぶねえよ。脇参道から走っていった方がいいだろ」
 本当は下を見てたら足がすくんでしまうからなんだが、やつも同じことを思ったらしい。
「おっし、そうするか」
 神社の横から車も通れる下り坂が続いている。
 俺たちは二人並んで早足で歩いた。
 出航の時間までには間に合うだろう。
「なあ」と、昇平が手の甲で額の汗をぬぐう。「最後、おまえに助けてもらっただろ。俺の負けじゃないのか」
「なんだよ。いざとなったらビビるのか」
「んなことあるかよ」
「じゃあ、約束通りコクれよ」
「ああ、やってやるよ。当たって砕けろだ」
「結局、砕ける前提かよ」
 やる前から分かってることだけどな。
 可能性はゼロだって分かってるのに、送り出すのは卑怯なんだろうか。
 だけど、決まっている答えなら、早く知った方がいい。
 歯医者や注射と同じだ。
 昇平が俺の肩にパンチを入れた。
「俺の見事な散り際を目に焼き付けておけよ。盛大な花火を打ち上げてやるぜ」
「ああ、見てるよ」
 夏らしくていいじゃねえか。
 坂を下って鞄を回収すると、ちょうど船の車載ゲートが閉まって出航するところだった。
 俺はやつの背中をたたいて送り出した。
「頑張れ!」
「よっしゃあ。気合い入ったぜ!」
 頬をはたきながら桟橋へ向かうあいつの広い背中から感じた熱を俺は手の中に握りしめていた。
 フォンと、汽笛が鳴ってフェリーが動き出す。
 離岸したフェリーは盛大に泡を立てながら左へ向きを変え、防潮堤をよけながら港を出ていく。
 昇平は波打ち際まで駆け込んで両手を口に当てると、彼女の名前を叫んだ。
「掛川さーん!」
 船尾付近の二階デッキで振り向く人がいる。
「おーい!」と、両腕を高く突き上げ、体全体をバネのようにして思いっきり手を振った。「掛川さーん、俺だよお!」
 俺もやつの横で飛び跳ねながら手を振って叫んだ。
「おーい、掛川美緒! 聞こえるかあー?」
 船の上で彼女が手を振り返した。
 すかさず昇平が手を筒のように口に当てて叫んだ。
「好きだあー!」
 フォンと汽笛が鳴る。
 風に乗って答えが返ってきた。
「ごめんなさーい!」
 波と風に紛れてかすかだったけど、でも、はっきりとその声は俺たちの耳に届いた。
 船の上で、膝に手を当てて深く頭を下げた彼女の姿が夕日にきらめいていた。
 最初から分かっていたことだ。
 何も変わらない。
 これでいいんだ。
 防潮堤を抜けたフェリーが向きを変えて加速する。
 俺と昇平、どっちの声だったのか、美緒には区別できたんだろうか。
 ――どっちでも同じか。
 答えは変わらないんだからな。