昨年の入学時から入部している文芸部は、今はたった三人だけの弱小部だ。三年生で部長の日比野翼と、瑞希のクラスメイトの弥生、そして瑞希の三人だけで、細々と活動を続けている。
今日は日比野が担任との進路面談とやらで席を外しており、空き教室には瑞希と弥生の二人きりだった。文芸部には個別の部室もなく、火曜と木曜の活動日以外は他の部も使用している教室で、机を付き合わせる。だが、このひっそりとした空間が瑞希は好きだった。二十人のサークルも気に入っているが、ごく少数の親しいものだけで過ごす時間も気が楽だ。気の合う弥生と今年は同じクラスに入れたことも、有難い。
机と椅子が数脚、あとは半分物置と化している教室は雑然としている。演劇部の小道具や、華道部の花入れ、生物部の研究冊子までが積み上がっている。高校生活がそっくり具現化したものたちに囲まれてノートにペンを走らせる瑞希の頬を、四月の穏やかな風が撫でていく。
「どお、すすんでる? 今度の短編」
「……あんまり」殴り書きした書き出しのアイデアから顔を上げ、正面の弥生に問いかける。「そっちは?」
「うーん。あんまり」
瑞希の言葉を真似る弥生は、突き出した唇にわざとらしくシャープペンシルを乗せた。
「チャンスが少ないんでしょ。弥生も早めに書き始めないと、推敲する時間できないよ」
「そうなんだけどねえ」
ロングの黒髪を持つ、一見清楚な弥生が狙う賞は少し変わっている。と瑞希は思う。なんせ高校に入って彼女と出会うまで、男性同士の恋愛作品のみを求める賞があるだなんて想像もしなかった。いわゆるBL作品の存在は知っていても読んだことはなく、弥生に勧められて目を通した作品も、正直よく分からなかった。こんな世界もあるのか、と驚いたことは覚えている。そして弥生には他校の彼氏がいることにも驚いた。彼女は、二次元と三次元で求めるものは違うのだと力説していたので、そんなものかと単純に納得することにした。
流石に、文化祭時に発行する部誌には別ジャンルの作品を載せていたが、やはり本心で書きたいのは、そっちの作品らしい。しかし多くの公募の募集要項を見ても、弥生が書くジャンルを求める賞は随分と少ない。のんびりしている姿を見るとやきもきするが、当の弥生はノートに猫の落書きなどをしている。
「瑞希、意外とモテるんだねえ」
ポップな猫のイラストを眺めていると、その視線に気付いた弥生がにやにやしながら言った。「弥生さん、安心したよ」そんなことを付け加える。
瑞希は大きくため息をついた。だから学校で佑と会うのは嫌だったのだ。
「佑くん、だっけ? あの子も小説書くんでしょ。いーじゃんいーじゃん」
「なにもよくない。ていうか、三月に知り合ったばっかだし、あいつのことなんかよく知らない」
「それなのに、あんなアタックしてくるなんて、よっぽど瑞希のことが気に入ったんじゃん。一目惚れじゃない?」
「そんなわけない」
ため息をつきながら、本当にみんなこんな話題が好きだなと呆れてしまう。誰と誰が付き合おうが別れようが自分には関係ないのに、わざわざ首を突っ込んで、何が楽しいんだろう。
「あいつ、誰にでもあんな態度だよ。サークルの人にだってすぐ馴染んだし。感性が子どもなんだ」
ペンをノートに放り出す。白の目立つページには、平凡なアイデアが二つ三つ転がっている。
「ふーん。でもさ、悪くないんならいっそ付き合っちゃえば?」
「絶対いや」
「喜ぶと思うけどなー、向こうは」
「私の気持ちはどうなるのよ」
清楚な顔の割におふざけが好きな弥生の軽口だということはわかっている。だが軽口でも、瑞希はこんな話題が苦手なのだ。
ガラガラと音を立てて引き戸を開けた部長の姿が、今の瑞希には救世主に思えた。
「おつかれー」
細身で長身の日比野が、挨拶を返す後輩のそばの席に腰を落とす。「面談どうでした?」弥生の興味が彼に移り、瑞希は内心でほっとした。
しばらくお喋りをしたりアイデアを練ったりと時間を過ごし、五時のチャイムが鳴る。そろそろ帰る支度をしなければならない。
ふと思い出し、瑞希は二人に問いかけた。
「ひとまがいって、知ってる?」
きょとんと目を向けた二人は、同時に「知ってる」と頷いた。
「俺、全部読んだよ。面白いよなあ」
「うんうん! なんだ、瑞希も読んだことあったんだ」
「いや、私は読んでないんだけど……」
途端にひとまがいについて二人は語り合う。これは読まざるを得ないな、と瑞希は再認識した。
家に帰り着いた頃には、時計は六時近くをさしていた。
瑞希の父親は、単身赴任で県外にいる。母親も働いているため、大抵は瑞希が夕飯を準備するが、部活のある日は作り置きや冷凍食品で簡単に済ませている。母親が七時に帰宅するまでにはまだ時間がある。
両親が祖父母から受け継いだ古い一軒家は静まり返っていて、ただいまの声は吸い込まれて消えてしまう。キッチンの椅子に鞄を下ろして手を洗い、瑞希はまず仏間に向かった。毎朝仏様に挨拶するよう教えられていたが、仏壇に祖母の位牌が加わってから、瑞希が手を合わせる頻度は自然と増えた。朝だけでなく夕も仏壇の前に座り、今日のことを軽く報告するのが日課となっていた。
鈴を鳴らして拝み、少ししてから瞼を開ける。こうしていると、家の中の静けさがしんしんと身体の中に染み込んでくる。瑞希と母親が二人で生活するには、やや広すぎる家だ。
軋む音を立てる廊下を歩き、台所で湯を沸かした。紅茶のパックを入れ湯を注いだカップを右手で持ち、左肩に鞄をかけ、気を付けて二階の部屋に運ぶ。
六畳の広さがある唯一の洋室が瑞希の部屋だ。ベッドと勉強机、背の低いラックと、背の高い本棚。本を捨てる習慣のない彼女の蔵書は部屋をはみ出し、一階の空き部屋にも及んでいる。
机にカップを置き、床に下ろした鞄からスマートフォンを取り出して、検索ボックスに「ひとまがい」と打ち込んだ。ベッドに腰掛け、画面のトップに躍り出たページをタップした時は、まだ半信半疑だった。有名でも、本当は大したことのない作品なんじゃないか。本屋に並ぶ書籍には劣る内容に違いない。サークルで目にしたのと同じホームページに飛び、上から順番に作品を開いていった。
喉の渇きを覚え、はっとする。卓上時計を見ると、いつの間にか三十分が経過していた。
ひとまがいのページには、短編が六本に長編が三本ある。その内の短編を一本読み終わったところだった。
面白い、というのが純粋な感想だ。発想力も表現力も、一般書籍に劣らない。もし本屋で立ち読みしていれば、迷わずレジに持っていくレベルだ。
机上のカップに目をやり、慌てて紅茶パックを取り出す。冷めた紅茶をそうっと口に含んでみたが、「にが……」と思わず声が漏れた。
すっかり苦くなった紅茶入りのカップを置き、スマートフォンを操作し、迷いつつもひとまがいのページをお気に入りに登録する。正直、ナメていた。インターネット上の作品だと侮っていた。ほんのり悔しさがあるが、続きを読みたいという欲が勝った。
同時に、ひとまがいについての興味が湧く。これを書いたのは一体どんな人物なのだろう。富士見や弥生たちによると、その素性は何一つ明らかになっていないそうだ。年齢も性別も出生地も執筆歴も、「ひとまがい」のホームページ以外の情報は微塵も公開されていない。そしてページには、九つの作品があるだけ。
お堅いタイトルから壮年の男性を想像したが、心理描写の細やかさから女性の可能性も捨てきれない。感性の豊かさからまだ年若い気もするし、豊富な知識から立派な社会人だとも思える。
「なんなんだろね、いったい」
低いラックの上の飼育ケースに近づいて、話しかけた。敷き詰めたおがくずを掘っていたゴールデンハムスターのハム吉が、つぶらな瞳でこちらを見上げた。
佑は宣言通り、放課後は瑞希を待って、ときおり玄関先のベンチに座っていた。大抵、一年生の方が早く放課を迎える月曜日と水曜日。せっかく早めに帰宅できる曜日だというのに、ベンチに腰掛けて退屈そうに本を読んでいる彼の姿は、瑞希の周りでも噂されるようになっていた。
「瑞希、今日も待ってたよ」
靴箱に上履きをしまっていると、クラスメイトから声をかけられる。浮ついた彼らの視線にうんざりしながら、靴を履いて校舎を出た。
「おー、先輩。こんちは!」
無視をしようにも、ベンチの前を通らなければ帰れない。ぷらぷら足を揺らし運動場を眺めていた彼は、たちまち駆け寄ってくる。
「うるさい馬鹿」
「ひゃー、厳しい」
後ろをついてくる佑の笑い声が聞こえる。マジでこいつは何なんだ。辟易しながら彼を追っ払う方法を脳内で模索するが、いい案が思いつかない。学外サークルも同じであれば、絶交宣言をして、その後気まずくなるのもいただけない。こいつは変な下心や器用な裏の面など持ち合わせてはいないだろう。だから余計に扱いづらい。
門を出て道を歩きながら、やっと佑を振り向いた。
「あんた、いつまで私を待つつもり?」
「いつまでって、そりゃあ来年までですけど」
そういえば、来年死ぬだなんて馬鹿なことも言っていた。あのエイプリルフールネタを未だに引きずっているのか。理解に苦しむ。
「夏も冬も玄関で待つの」
「そういや、確かに辛そうですね。場所変えようかなあ。先輩、心配してくれてるんですね」
「私のせいで熱中症になったなんて言われたら心外だからね」
「そんなこと言わないっすよー」
女子の平均を僅かに上回る瑞希と、佑はほぼ身長が変わらない。ほんの数センチだけ目線の高い彼をじろりと睨むが、そんなものどこ吹く風で、佑は夏にはどこで彼女を待てばいいのか考えている。
南浜高校から歩いて二十分ほどで下浮月橋に着くが、反対方向に歩けば十分経たずに駅がある。そこから電車に乗って鉄橋で川を渡るのが佑の通学路のはずだが、彼は彼女と一緒に歩いて橋を渡り、そこで別れてから近くの駅を使うという経路をとる。そこから更に四十分は電車に揺られる必要があるらしく、どう考えても遠回りなのだが、それより一緒に帰りたいと彼はあっけらかんとして言った。どうぞご自由に、と瑞希が視線も合わせずに答えたのが四月のこと。
五月下旬の爽やかな空の下、共に橋を渡り切った頃、佑がまたおかしなことを口走った。
「先輩、秘密基地行きましょうよ」
「ひみつきち?」
眉を顰める瑞希に、「秘密基地」と満足げな顔で彼は頷いた。「なにそれ、子どもじゃあるまいし」一蹴する彼女だったが、彼はすっかりその気になっている。
「いいとこ見つけたんで、先輩にも見せようと思ってたんです。近くだから」
「行かない」
「ちょっとだけ、見るだけでいいから」
笑顔を輝かせ、行こう行こうと、佑は瑞希の手を取った。左手の四本指が、彼女の右手を軽く握る。初めて感じた彼の体温は思っていたよりも低く、うっかり苛立ちが冷却される。その隙に、佑は手を引いて土手を歩き始めた。「わかったから」人に見られてはかなわない、瑞希は慌てて手を解き、彼の後をついて歩いた。
上流へ百メートルほど歩き、土手を下る。大きな川は美しいが、下浮月橋付近は上流に比べ、あまり手入れが成されていない。油断すると目を刺さされそうなほどに伸びた草をかき分け、河川敷に下り立った。
その景色に、思わず瑞希は顔をしかめた。多くの粗大ゴミが不法投棄されている。草が茂って外から見えにくいのを幸いに、よからぬ輩が大きなゴミを捨てていくのだろう。電子レンジに冷蔵庫、乳母車まで多様なものが放置されている。
「まさか、秘密基地ってここ?」
「そうですよ」
呆れた。なにもゴミが散乱する場所を秘密基地にしなくてもいいのに。
「帰る」
「待って待って!」
踵を返す瑞希の袖を、慌てて佑が掴んだ。「なに」機嫌の悪い声で振り向く彼女に手招きして、彼は草をかき分けて進む。
少し開けた空間には、グレーのソファーが川の方を向いて置いてあった。大人が三人座れる大きさのソファーは端が破れ、風雨にさらされたおかげで汚れている。
見ていると、そばにあるクーラーボックスを開けて、彼は大きな袋を取り出した。季節の変わり目に布団をしまう際に使う、収納袋だ。その中からタオルケットを出すと、破れたソファーにかけた。
「ほら、座って」
そこに腰掛け、隣をぽんぽんと叩くのに、まさかと瑞希は問いかける。
「その毛布……」
「これは拾ったんじゃないですよ。家で余ってたの持ってきたんです。時々洗濯もしてるし」
それならばと浅く腰かけて、思わず目を細めた。
目の前に広がる浮月川が陽光を反射し、きらきらと輝いている。穏やかな水面を滑り、涼やかな風が吹いてくる。周囲に茂る葉がさらさらと鳴り、町の雑音を遠ざけている。
息を呑むと、「ね、いいでしょ」と佑が言った。「先輩には、特別です」
認めるのは悔しいが、意外にも居心地が良いのは確かだった。一人で帰る日、佑はもしかするとここで時間を潰しているのかもしれない。
「なんで、特別なの」
そんな場所を他人に教えるのは、嫌じゃないんだろうか。自分が見つけた一人だけの秘密基地を、なぜ瑞希にだけ教えるのだろう。
「だって、先輩は僕のお気に入りだから」
「だから、なんでなのよ」
かつて同じ質問を彼に投げたことがあった。すると、「先輩は正直だから」と佑は説明した。自分を繕わない姿がかっこいいのだと言った。繕わないのではない、そんな器用さがないのだ。そう教えても、佑は「かっこいい」を連呼するだけだったので、それ以上は聞かなかった。
「最初、僕の作品を馬鹿にしたじゃないですか」
真のきっかけを佑が語るのに、確かに覚えがある。サークルに入ったばかりの彼が見せた、「咲く桜 さくさく桜 桜咲く」という意味不明の川柳に、瑞希は「馬鹿じゃないの」と言ったのだ。流石に言い過ぎたが、褒める言葉も見つからなかった。周囲はあらゆる意味で笑顔を引きつらせていた。
「だって、あまりにしょーもなかったんだもん」
「それでも、普通あんなこと言わないですよ。まあ全く面白くないやつだったけど」
「なにそれ、あんたもそう思ってたの。人のこと試してたの?」
「いやいやいや」彼はぶんぶんと首を振った。「ちょっとしたおふざけのつもりで」
「初対面でふざける方がどうかしてるわ」
確かに、と彼は笑いながら頷いた。
「そのね、飾らないとこが、すっごくいいなあって思って」
「あんたも似たようなもんだと思うけどね」
相手の都合を考えず、勝手に昼食に誘い、放課後に待ち合わせ、秘密基地に連れて行く。本音と本心のままに生きているのはそっちの方だ。
へへ、と佑が笑い、浮月川に顔を向けた。
二人は、しばらく並んで川面を見つめていた。
河原のソファーに、佑は同様に捨てられていた車用のカバーをかけて、これ以上の汚れを防いでいた。彼はこの秘密基地を守ることに気合を入れて取り組んでいた。
暇つぶし、と自分と彼に説明し、瑞希も時折ここで休憩するようになった。あくまで佑との帰り道、だから週に一度か二度の頻度だが、川面を眺めたり本を読んで過ごすようになった。誰もいない家にいる時間を無意識に逃れようとしていることに、瑞希は気付いていた。
「ねえ、先輩」
だが、ここにはうるさいやつがいる。家の静寂から逃れたつもりだが、放っていても喋り続けるやつがいる。
「先輩、どうやって作品作ってます? パソコン?」
「パソコン」本に目を落としたまま顔も上げずに呟く。
「なんのソフト使ってるんですか?」
「ワード」
「へえー。全部パソコンですか。設定とか、プロットとかも?」
「うるさいな」
横を見ると、膝に置いた鞄の上にノートを広げて、佑はペンを握っている。「柿食へば」の隣に書き込まれた矢印の先端には「カニ食へば」と書かれている。また笑えないものを作っていたようだ。
「いやあ、プロット作るアプリとかあるじゃないですか。でも、ああいうのなんか使いこなせなくて。もし先輩が使ってるのがあれば真似してみようかなーって」
「プロットは手書き。これで満足?」
「先輩も手書き派なんですか。一緒だ!」
一人で喜んでいる佑から剥がした視線を本に落とす。梅雨入りを迎え、雨こそ降る予報ではないものの、空はどんよりと曇り生温かい空気が流れている。決して気持ちの良い天候ではない。
この章を読み終わったら帰ろうと決めた時、「何読んでるんですか」という声がすぐ横で聞こえた。
思わず身をよじる瑞希に身体を寄せた彼は、本を覗き込んで「オカルト?」と疑問を口にした。
「先輩、こういうの好きでしたっけ」
「近い、離れて」
彼の肩に手をやり、ぐいと遠ざける。驚いたおかげで心臓がまだどきどき鳴っている。それはこの本を読んでいたせいで余計に長引いている。
「……今度の新時代に送るネタ探しよ」
四月に無念にも選考落ちした新時代小説大賞の来年の選考に向けて、新たに作品を書く必要があった。締め切りは十二月。しかしぼやぼやしてはいられないと考えた結果、不可思議な現象の混ざった話を書こうと思い立ったのだ。ストーリーは既に組んでいるものの、今一つ専門的な研究が足りないように思う。近々書き始める予定だが、出来るだけ正確な知識を持って仕上げたい。オカルトにどこまで「正確」が通用するのかは疑問だが。
そこで、もともとオカルトが好きな富士見に相談し、薦めてもらった本だった。だが勉強とはいえ、不気味な話が盛りだくさんで、つい背筋が寒くなってしまう。
「なるほど。へえー、オカルトかあ。どんな話にするんです?」
「言わない」
「僕にも意見させてくださいよお」
「参考にならない」
冷たい瑞希の態度にほんの僅かむくれた佑だったが、何を思ったのかわかりやすく両手をぽんと叩いた。上を向いた左の手のひらに右手の拳を当てる、漫画のような仕草。
「本よりもっと参考になること、思いつきました」
漫画なら、頭の上にぴかりと光る電球が描かれたはずだ。思いついた表情で、彼は言った。
「オカルト、探しに行きましょう」
「えっと、じゃあこの八人で……ジャンルは希望ありますかー。早いもの勝ちだよー」
葛西大学の図書館内の一室で、月子が皆を見渡す。彼女以外の七人が顔を見合わせ、ぱらぱらと手を上げる。
「ジャンルは被らない方がありがたいからね」
壁際のホワイドボードに、手を上げた者の名前と希望のジャンルを書き込んでいく。コメディ、恋愛、ミステリと並んでいく。
十月に隣の県で開催される全国創作フリーマーケットに、星の海も作品を集めて冊子を作り出店することになったのだ。参加希望者が増えたり減ったりと些か出遅れ感はあったが、初めての試みにしては人数も集まったと月子は満足げに言った。サークル内には既に昨年友人と参加したというメンバーもおり、冊子の制作に関しては彼らに指導を乞うている。
漫画を除いた創作物を扱うイベントで、小説はメインのジャンルだといっても過言ではない。川柳、詩集、絵本。手作りのアクセサリーを扱う店もあるが、圧倒的に小説の数が多いそうだ。
瑞希もこのイベントの存在は知っていたし、いつか出てみたいとも思っていた。しかし一人ではなかなか決意が固まらず、学校の文芸部も学祭とひと月しか時期が変わらないことから、話題には上がらなかった。だから月子から届いたメッセージに、一も二もなく参加の旨を返信したのだった。
就活やバイト、受験勉強のため参加不可という者が多数だったが、月子をはじめ、富士見も参加を表明したし、瑞希が出るならといって佑も参加を希望した。自分の意思で決めろと言いたいが、本人が出ると言うなら無理に下ろす権利など瑞希にはない。
「キヨはハイファンね」富士見の名前の下にハイファンタジーと月子が書き込む。「ずっきーは?」
「私は……」
視線を向けられ、瑞希は言い淀んだ。正直なところ、瑞希には得意なジャンルというものがなかった。ミステリや文芸には挑戦してきたが、それが得意と呼べるのかわからない。弱点はあるのに得意分野がないのは、密かな悩みの種だった。
「迷ってる?」水性マジックで宙に円を描きながら、「ふむ」と月子は唸る。
「ずっきーはミステリとか上手いと思うけどなあ」
しかしミステリはすでに希望者が二人いる。早い者勝ちなのだから、押しのけるわけにもいかない。
「あと枠があるのは、ホラーか時代ものか……恋愛かな」
う、と思わず声が出た。全て苦手なジャンルだ。そもそもネタさえ思いつかず、手をつけたこともない。
「ホラーどうですか? 今オカルト調べてるでしょ」
隣から佑が口を挟む。
「あれ、そうなの?」
「まあ、一応……」
周囲の少し意外な視線が居心地悪い。黙ってろと睨むが、佑は良い考えだと思っているらしい。
「ネタ出しし易いんじゃないですか。他のジャンル書くよりは。あ、そうだ、思いつかなかったら僕も協力しますよ。なんだっけ、ほら、合作ってやつ!」
「しないわよ」
なぜ初参加の作品を、佑と合同で作らなければならないのだ。
「そう言うゆうゆうは? もう選べるジャンル残ってないけど」
「なんでもいいっすよー。余ったので」
「マジで? じゃあ、誰も書いてないから時代ものでもいける?」
いけるいけると佑は安請け合いしている。少なくとも瑞希にはそう見える。普段アホな作品しか書かないくせに、時代小説など書けるのだろうか。
「じゃあ、私は……ホラーで」
「おっけー。どうしても無理だったら言ってね。楽しくできなかったら本末転倒だから」
星の海のモットーは「楽しく」だ。だから厳しい決まりもなければ、締め切りなるものも存在しない。それぞれが楽しくものを書き、語り合う場を提供するのを目的としている。今回のイベントにおいても、その目的は覆らない。
「三十枚目途で、締め切りは八月の最後の日曜ね。間に合わないよーとかだったら、早めに言うこと」
スマートフォンでホワイトボードを撮影しながら、月子が皆に言った。
あと二ヶ月以上あるなら、苦手でもなんとか形にはなるかもしれない。
「おまえ、ほんとに時代ものなんて書けるの?」
「侮っちゃ駄目ですよ。こう見えて、やれば出来るんだから」
真面目に考える瑞希の横にいる佑と、向かいの富士見が早くもお喋りを始めている。佑の余裕は一体どこから出ているのか。これで間に合わなければ目も当てられない。
「瑞希ちゃん、そういえば、あれどうだった?」
あれ、というのがピンと来ずにいると、「オカルトのやつ。図書館で借りたんでしょ」と富士見が続けた。
「あ、あれ……」ようやく思い出して頷く。「勉強になりました」
「もしかして、もう全部読んだ? 結構分厚かったよね」
机に置いていたトートバッグからノートを取り出して広げる。富士見に薦められ図書館で借りたオカルト本は、既に読み込み返却を済ませていた。中でもネタになりそうな話をまとめて書き留めたのだ。
「ほんと、真面目だなあ」
富士見が感嘆し、「なになに、ネタ帳?」と富士見の横に座った月子もノートを覗き込む。
「話はもう出来てるけど、これで補足というか、肉付けというか……。リアリティもたせられたらいいなって」
「さすが先輩、偉いなあ」
何故か満足げな顔をする佑は、「そうそう!」といつか見たのと同じ仕草で、両手をぽんと打ち合わせた。
「富士さん、なんかオカルトな噂知りませんか?」
「なんだよ、噂って」
「体験するとより空気感がわかるかなって。だから怖い話とかある場所があったら教えて欲しくって。ねえ先輩」
「……え?」
「なるほどな。けど俺、残念ながら江雲に来たのは大学入ってからだから、そういうのよく知らないんだ」富士見が腕を組む。
「そういえば、実家は遠いって言ってましたね」
佑は椅子から腰を上げ、残りの四人のメンバーに話しかけた。「江雲の心霊スポットとか知ってます?」
彼らは顔を見合わせ、口々に「知らない」と言いかぶりを振った。「佑くん、心霊スポット行くの?」一人の女子が好奇心を満たした瞳で問いかけ、「うん!」と彼は満面の笑みで頷く。「先輩と!」
おまけの言葉に、「ちょっと!」と瑞希も立ち上がった。
「私なにも言ってないんだけど。なんで私も心霊スポットに行く話になってるのよ」
「だって、僕が一人で行っても仕方ないし」
きょとんとする佑に、「だから……」と訴える声が自然とすぼんでしまう。もしかして、どこかでそんな約束をしただろうか。それほどに彼は自信に満ちた様子だ。
だが、記憶を探っても彼と心霊スポット巡りをする約束などした覚えはない。
「オカルト探しに行こうって言ったじゃないですか」
確かに川原で佑がそう言ったことは覚えている。
「いや、でも心霊スポットなんて……それに私、まず承諾してないんだけど」
「じゃあ、行きましょうよ、ね」
それなら今、彼は承諾を得ようとしているらしい。話が通じない。頭が痛くなる。力が抜け、へたり込むように瑞希は椅子に腰を落とした。
「つっこさん、どっかいいとこ知らないですか」
それを見て座り直す佑は、にやにやしながら顛末を眺めている月子に話を振る。
「いいとこねえ」
知らないと言ってくれ。瑞希はそう願ったが、月子はこの状況を楽しんでいた。
「いくつか聞いたことあるよ」
「ほんとですか!」
「うん。信憑性は保証できないけど。私の家、おばあちゃんの代から江雲に住んでるんだよね。家族にも聞いてみようか」
なんだか月子はノリノリだ。「そこまでしなくても……」と瑞希が訴える声を、「いいんですか!」と佑の声がかき消す。
「信憑性は保証できないよ?」
「噂なんて、そんなもんですよ。ねえ、先輩」
にこにこしながら振り向く佑を、これでもかと睨みつける。もちろん彼はどこ吹く風で、むしろ周囲がおかしそうに笑っている。
「瑞希ちゃんの為になるなら、お安いもんよ」
胸を張ってみせる月子に、「つっこさん頼もしー!」と誰かがふざけて声援を送る。この話題も、元はといえば瑞希の作品の為なのだ。それを思えば、むやみやたらに反論するわけにもいかない。だが、何が悲しくて、佑と二人で心霊スポット巡りをしなければならないのだろう。
「じゃあ、おばあちゃんたちに聞いとくから、後でゆうゆうに連絡するね」
「了解です!」指をそろえた右手を額に垂直に当てて敬礼のポーズを取った彼は、「これで受賞待ったなしですよ」振り返ってそんなことを言った。
瑞希も小学三年生の頃から江雲市に住んでいるが、有名な心霊スポットという話は聞いたことがなかった。小学校の七不思議、なんてものはあったが、トイレで勝手に水が流れたり、誰もいない体育館でボールをつく音が聞こえるといった、どこの学校にも共通の話だ。作品を書く参考にはならない。
浮月川には神様がいる。江雲市にそんな話はあるが、心霊スポットにはほど遠い。
だが、生まれた時から市内に住んでいる月子は、いくつかそれらしい噂を教えてくれた。
ある日の夜、風呂から上がり自室に戻った瑞希は、スマートフォンに届いた佑からのメッセージに気が付いた。椅子に座って見てみると、「つっこさんが教えてくれました!」とのこと。文字の下には、URLが貼りつけられている。
うっかりリンク先に飛んだ瑞希の喉から、「うっ」と苦い声が漏れた。表れたのは、一本のブログ記事だ。全国を巡る心霊スポットマニアが穴場として紹介しているのが、浮月橋近くに残されている廃病院だった。
観光地化している川と橋から比較的近い距離にあるのに、未だに取り壊されていないことから、これはホンモノだと謳っている。コメント欄には「予算がないらしい」と空気を読まない書き込みがあるが、それを差し引いても十分に本物感のある写真が掲載されていた。ガラスのない窓枠、染みだらけの壁、ぽっかりと口を開けている暗い玄関。ソファーや薬の瓶が転がる室内の一枚は、人の顔が映り込んだ心霊写真と紹介されていた。瑞希には、ただの天井の汚れに見えたが、なんとなくページを閉じた。
佑は他にも月子から心霊スポットの噂を手に入れたらしい。
――今度の日曜、どうですか?
ばかじゃん。毒づきつつ、返事を打ち込む。「無理。期末試験近いし」やつも同じ日程のはずなのに。やっぱりこいつは馬鹿だ。
――じゃあ、テスト終わってから! 終業式の日、帰りについでに行きましょう。
学校帰りなら、まだいいか。妥協している自分に気付き、「ばーか」ともう一度一人で呟いた。
七月の三回目の金曜日、午前の終業式と大掃除を終えると、学校は早々と放課を迎えた。これから始まる夏休みに対し、誰も彼もがうきうきと期待に満ちた表情で、これからの予定について話し合っている。
「どした、なんか沈んでるじゃん」
教室では幾人かが弁当を食べ始めている。瑞希の席に椅子と弁当箱を持ってくる弥生が、不思議そうな顔をした。隠すこともなくため息をつき、「駅の電話ボックス、知ってる?」と瑞希は唐突に切り出した。
「どういうこと」
全く意味が分からないという弥生に、弁当を開きながら、佑と一緒に心霊スポットを巡ることになった話を聞かせた。サークルの先輩が、ノリノリで教えてくれた噂話も。
死者の声が聞こえる電話ボックス、追いかけてくる赤い女、そして幽霊の出る廃病院。
「へー、そんな話あったんだ」
月子から佑を経て教えられた噂話に、弥生は弁当箱の包みを開きつつ、少々驚いた返事をする。中学二年生時に県外から越してきた彼女も、その噂には聞き覚えがないようだった。
「今日の放課後、そこに行くことになって……」
「そかそか。へえー」興味があるのかないのか、間延びした返事をする弥生の興味は、別のところにあった。
「じゃあ、二人で半日デートってところだね」
「それが嫌なのよ」
むすっとする瑞希に、弥生は長い髪を耳にかけながら「なんで?」と首をひねる。
「なんでって……あいつ、人の話聞かないし、自分勝手だし、へらへら鬱陶しいし」
「そのマイペースが愛情表現なんじゃん」
めいわく、とずっしり重たい言葉で表現した。「そりゃあ私の為だけど、一人で決めて突っ走るし、周りも巻き込むし、何を言っても聞かないし」
「んー、瑞希は真面目だから、合わないのかもね。でも、そんだけ慕ってくれてんのは幸せじゃん。……まあ、ちょっと一方通行感はあるけど」
「ちょっとじゃない」
アスパラガスの肉巻きを頬張り、そうだ、一方的なんだと思い至る。過剰なアクションにこちらが戸惑っている内に、どんどん話を進めてしまう。
「私、やつとは根底が合わない」
「そう言いつつ本当は?」
「あり得ない!」
佑と自分をくっつけたがる弥生が、「はいはい」と笑いながらプチトマトを口に運ぶ。それを見ながら憮然とした表情で、瑞希はおにぎりを頬張った。
月子によると、電話ボックスと赤い女の噂は市内で最も大きな江雲市駅の周辺を発生源としていた。小中高、そして葛西大学へのアクセスも良く、学生も社会人も多くの人々が利用する駅だ。そこにぽつんと鎮座する電話ボックスで、昔事件があったらしい。揉め事の末に刺された男が自分で救急車を呼ぼうと電話ボックスに入ったが、そこで力尽きてしまった。以後、その電話ボックスで、どこにも発信しないまま受話器を耳に当てていると、死んだ男の恨みごとが聞こえるそうだ。それが噂の一つだった。
瑞希は心霊話を馬鹿にはしないが、疑ってはいる。壁の顔はただのしみ、囁き声は風の音、笑う絵画は角度による錯覚。心霊現象と嘯かれる話の多くは、気のせいや科学による説明で片が付くと思っている。
だが、感じる恐怖はまた別物だ。受話器の向こうから血まみれの男の呻き声が聞こえるのを想像すれば、自然と恐ろしさが沸き起こる。第一、人が死んだ電話ボックスなど入りたくない。
とはいえ、こいつの前でそんな顔を見せるのは癪だ。
駅前の広場で憮然とする瑞希の顔を、佑が覗き込む。
「なんか先輩、暗くないですか?」
「別にそんなことないし」意外に敏感なやつだ。「ちょっと寝不足なだけ」目元をこすって誤魔化す。
「ならよかった、のかな。先輩が本当は怖くて来たくないって思ってたらどうしようって心配で」
「別の意味で行きたくないんだけど」
はて、と佑は首をひねったが、すぐさま一方向を指さした。
「えっとね、あっちです。あっち!」
「大きな声出さないでよ、恥ずかしい」
今日もぐいぐい引っ張る佑に辟易しながら、駅前広場を歩き出す。時計台の足元でベンチが円を描き、更に桜の木が周囲を囲む広場は、夏休み直前の午後一時ともなれば、学生を中心に待ち合わせの人々で賑わっていた。友人や恋人同士、親子や夫婦。歩いている人たちは皆一様に楽しげで、瑞希はこの中で最もテンションの低い一人だった。
佑は当然の如く、全く意に留めることなく、機嫌よく歩きながら喋っている。雨が降らなくてよかったとか、今朝は電車が混んでいて参っただとか。べらべらと続くお喋りには取りとめがない。
「……ねえ、それって本当にあった事件なの」
瑞希は右から左へ流れる佑の話を遮った。何が、の顔をする彼に「だから」ともどかしく続ける。
「その、電話ボックスで、人が死んだってやつ」
「らしいですよ。十年以上前だけど、新聞に載ってるのをつっこさんのお母さんが見たんだって。なんか、お金がらみの喧嘩だったとか」
事件は実際にあったもののようだ。ということは、呻き声云々がガセだとしても、人が息絶えた電話ボックスには違いない。ずん、と気分が重くなる。
「土台のコンクリートには、当時の血が染み込んだ跡があるとか」
「ちょっとやめてよ!」
唐突な大声に、佑は目を丸くした。「……すみません」右手の指で首筋をかきつつ、珍しく気まずそうな表情をする。
「別に怖いとかじゃないから。なんていうか……あんたは気持ち悪くないの」
「はあ」
「はあじゃない。あんた平気なの、人が死んだんだよ?」
「いや、まあ……」腕を組んで唸り、「確かに、血の跡は気持ち悪いですね」と言った。
やっぱりこいつの感性は変わっている。今の問題はそういうことじゃないのが、わからないらしい。頭を抱える瑞希の横で立ち止まり、彼はポケットから取り出したスマートフォンに触れた。
「もうすぐですよ、そこ曲がったところ」
片側二車線の通りの先を指さす。思わず二の足を踏む瑞希の袖を引っ張り、ほらほらと軽率に促す。「わかったから」腕を振り払い、仕方なく歩を進める。
「……あれ?」
佑の予測では角を曲がったすぐそこに電話ボックスがあった。
だが、向こうに伸びる広い通りのどこにも、電話ボックスは見当たらない。「……どこ?」見つけたくない瑞希も思わず探してしまう。
「おかしいなあ、ここら辺なんだけど」
きょろきょろ見渡して歩きながら、佑はふと足を止めた。瑞希もそばに寄り、彼の視線を辿る。
足元の石畳は、一部だけ妙に新しく綺麗な色をしていた。周囲の黒ずんだ色とは異なり、四角形の空間だけが鮮やかなクリーム色だ。そこには人一人が十分に立てる面積がある。
「もしかして、ここ?」
尋ねながらも、瑞希は大いに安堵した。噂の電話ボックスは既に撤去されていたらしい。月子もその家族も知らなかったのだから、そう遠くない過去のことだろう。「ええー」と佑は足元を見ながら不満の声を漏らしたが、探しても一滴の血痕さえ見当たらない。受話器を握るどころか、電話ボックスそのものが存在しないなら、噂を試してみることは不可能だ。
地面を見つめて喜んだり悲しんだりする二人に、通りを歩く人たちが訝しげな視線をちらちらと送る。それに気づいた瑞希は、「撤去されたなら、仕方ない」と締めの一言を告げた。
それでも名残惜しそうに佑はしばらく跡を見つめていたが、わかりやすくぷるぷると頭を振った。黒い髪が揺れる。
「次です、次!」
大股で歩き出す背中に、ため息をつきながら瑞希は続く。
「小学校の近くに、赤い女が出るんだって。目が合ったら追いかけてくるそうです」
「それ、ただの赤い服着た不審者じゃない」
ちっちっと彼は立てた人差し指を横に振る。なんだかいらっとする。
「服だけじゃなくて、全部赤いんだって。靴も髪も化粧も。目も赤いって話ですよ」
「だから不審者じゃん」
このさい不審者でも構わないのか、佑はずんずん歩いていく。想像すると確かに不気味だが、そこには生きた人間特有の怖さがある。
「追いつかれて、捕まったらどうなるの」
「さあ。誰も知らないみたいです」何がおかしいのかくすくすと笑う。「捕まった人が消えちゃうから、誰も知らないとか?」
「誰も捕まってないだけでしょ。そんなの大騒ぎになるじゃん」相手を攫ってしまえば、それはもう噂程度では済まない。事件だ。
「皆の記憶から消されるんですよ」
こいつの思考は本当にわからない。瑞希は返事をしなかった。
十五分も歩けば、小学校の正門に辿り着いた。グラウンドで遊ぶ子どもたちの姿が見える。
「塀沿いに曲がった路地で見かけるそうです」
学校の敷地から塀一枚隔てた道に、堂々と不審者がいる。姿かたちよりも、その事実が恐怖をあおる。
角まで辿り着き、塀に沿って左に折れた。塀の反対側には、古い住宅が静かに並ぶ。数軒先に、古き良き風情の駄菓子屋がぽつんと建っている。小さな平屋の軒先には「かき氷」の暖簾がぶら下がっていた。
「……誰もいないじゃん」
見通しの良い真っ直ぐな細道には、赤い女どころか猫の子一匹いない。
「どこかの家の間に隠れてるかも」
佑はそう言うが、瑞希には唐突に馬鹿馬鹿しさが湧き上がってきた。半日を潰して何をしているんだろうという気持ちになった。
「わかるでしょ、いないって」
「探しましょーよ」
「いや」
「ちょっとだけ!」
帰ると無碍なく言いかけ、瑞希は言葉を呑み込んだ。情けない彼の表情を目にすると、無慈悲な台詞は流石になりを潜めた。元はと言えば全て瑞希の作品のために彼は協力してくれているのだ。頼んだ覚えはなく、余計なお世話だとも思えるが、せっかくここまで来てすぐさま駅に戻るのも癪な気がする。
「……じゃあ、あそこで二十分だけ待つ。端から端まで見えるから、いたらわかるし」
駄菓子屋前の木のベンチを指さし、妥協案を提示する。すると子どものように表情を明るくし、彼は同意した。
引き戸を大きく開けた駄菓子屋は小ぶりな店舗だが、大量の商品を所狭しと並べていた。壁際の棚では、個包装の飴やチョコレートやガムの詰まった透明な箱が口を開けている。一つ十円の値札を見て、瑞希は驚愕した。近所のスーパーでは決して見ることのない値段だ。この価格設定で店が成り立つのか、他人事ながら心配になってしまう。
「すっごく安いね、お店大丈夫?」
隅のケースから取り出したアイスキャンデー入りの袋をレジカウンターに置き、佑がいつも通り馴れ馴れしく話しかけた。奥からのそりと出てきた腰の曲がった老婆は、「百円」と彼に素っ気なく告げる。他の従業員の姿はないから、店主だろう。店の奥からは細くテレビの音が聞こえてくる。
「あんたらも、安い方がええやろ」
「うん。お金ないから助かる」
「学校のすぐそばやからね。今日はおらんけど、いつもは子どもらでいっぱいよ」
「いいなあ。こういうお店が近くにあるって」財布から出した百円玉をトレーに置き、彼は心底羨ましそうな声音で言う。「帰り道だったら毎日通うのに」
彼の能天気さに呆れこそすれ、感心するのは初めてかもしれない。あっという間に初対面の店主と気さくな雑談を交わす彼を見ながら、瑞希はアイスクリーム入りのカップを買った。これも百円だった。
噂をすれば、騒がしい子どもの声が店先から聞こえてくる。自転車のスタンドを立てる音とほぼ同時に、五人の男の子たちがわらわらと店になだれ込んできた。「おばあちゃん、こんちは」各々口にしながら棚の駄菓子を手にし、吟味している。「今日こそ当たれよー」とくじ付きのガムを手に、一人の子が祈りを捧げている。
狭い店はあっという間にいっぱいになった。押し出されるように佑と瑞希は店先に出て、ベンチに座る。「おまえほんとそれ好きだなー」囃し立てる声と無邪気な笑い声が聞こえてくる。
佑は袋からアイスを出し、瑞希はカップの蓋を開け、もらった木のスプーンで中をつついた。かちこちに冷えたアイスクリームは、一口分もすくえない。
「いたたたた」
隣を見ると、アイスキャンデーの冷たさに、佑が頭を抱えていた。
夏の空気に、手と口から広がる冷たさは心地よい。青空に浮く雲を見上げながら、しばらく二人はもくもくとアイスを食べる。
「先輩、一口交換しません?」
「しない」
黙っているのに飽きた佑の提案を却下し、ようやくほどよく溶けてきたアイスを半分程食べた頃、子どもたちがわいわいと店から出てきた。ズボンのポケットを駄菓子で膨らませた彼らは店先の二人に目もくれず、先を争うように自転車に飛び乗り、路地を走り抜けていった。
喧騒が遠く消えると、店から店主の老婆が出てきた。空を見上げ、「今日は、気温が下がらんのやと」とひとりごつ。熱中症を心配してくれているのだと瑞希は思った。
「ねえ、おばあちゃん」先にアイスキャンデーを食べ終えた佑が声を掛ける。「赤い女って知ってる?」
「なんのことや」
「この道に、赤い女が出るって聞いたんだよ。服も靴も髪も、ぜーんぶ赤色の人。目が合ったら追いかけてくるんだって」
思い当たらないのか目を細めて黙ってしまった店主は、やがて「そんなこともあったわな」と僅かに顎を引いた。頷いたのかもしれない。「過去形?」と思わず瑞希が呟くと、老婆はもう少しはっきりと頷いた。
「五年位前かの。ここらの道に、妙なやつがうろついとった。まあ、そんだけやったんやが、面白がった子どもらが囃し立ててな。追いかけられた子もおったわ」
「今はいないの」佑が問いかけると、店主は「ああ」と首肯した。
「その子らの親が、学校に怒鳴りこんだっちゅう話や。学校のそばの不審者を放置して、どういうつもりやってな。今度は警察がその女を捕まえたんや」
「その人、なんだったの」
「近くに、演劇やる学校があるんやが、そこの生徒やったんや。劇の衣装やら化粧やら使うて、練習がてら幽霊になり切ってみたら、えろう子どもらから怖がられてな。面白なったんやと」
「じゃあ、普通の人だったんですか」
老婆が肯定するのに、瑞希は安堵した。いくら探してもここで不審者と鉢合わせることはない。そもそもが五年も前の出来事なのだ。
佑が「そっかあ」と嘆息した。
「あんたら、変なこと探しとらんと、帰って勉強せえよ」
踵を返そうとする老婆の台詞に、ぐうの音も出ない。
「赤い女って、もういないんだね」
残念そうに言った佑を一瞥し、「初めっからおらんよ」と店主が言う。きょとんとする二人に、続けて言った。
「あれは、男やったんや」
瑞希の手元のカップの中で、アイスクリームはすっかり溶けてしまっていた。
駅への道をとんぼ返りしながら、「オカルトも難しいなあ」と佑が呟いた。「むしろ違うってことを暴いちゃった」
「そんなもんでしょ、噂なんて」
胸中で安堵しつつ、あえて素っ気なく瑞希は言い渡す。実はビビっていただなんて、こいつには絶対知られたくない。「先輩怖いんだー」なんて笑われたらひっぱたいてしまう。
次に向かった廃病院の最寄りは、瑞希には初めて下りる駅だった。それは佑も同じらしく、閑散とした駅舎を興味深そうに見渡している。夏休み目前の金曜日だからか、リュックサックを背負った子ども連れの家族が、駅を出て浮月橋の方に歩いていく姿を目にした。付近の宿にでも泊まるのだろう。
それとは全く反対方向に歩きながら、佑は廃病院にまつわる怖い話とやらを語り出した。
「見たら呪われるっていう落書きがあるそうです」
「なんて書いてあんの」
「その人のね、名前が書いてあるんだって」
なるほど、オカルトチックだ。だが、怖がる素振りは決して見せず、「ふーん」と瑞希は敢えて鼻を鳴らす。
「あとあと、病院のカルテを持ち帰ったら、夜に電話がかかってきて、返せって言ってくるらしいですよ」
「なんか聞いたことある」
「いやあ。怖いですね」微塵も恐怖を感じていない表情で、彼は嬉しそうに笑う。
不気味なほど静かな住宅街を抜け、しばらく行くと山の麓に出た。舗装はされているが、これを上るのかとうんざりした気分になる。雲が晴れたおかげで、夏の陽射しに首筋がちりちりと焼けつくのを感じる。雑木林からは蝉の大合唱が聞こえてくる。
それでも五分ほどで屋根が見え、やがてぽっかりと開けた空間に、三階建ての廃墟が現れた。夏の生気に満ちた山の中に、巨大な生き物の死骸を思わせる廃墟は、何故だか妙に馴染んで見える。賑やかな生と静かな死が混在した、不思議な場所に思えた。
庭も駐車場も草がぼうぼうと生い茂っていて、道らしき道はない。腰まである夏草を踏み分けながら、前を歩く佑が玄関で立ち止まった。
「すごいですね」
何がとは言わないが、瑞希も頷く。灰色の汚れた壁に、ガラスの一枚も残っていない窓枠。中から何かが覗いている気がして背筋が寒くなる。昼間に来て本当によかったと思う。
「んじゃ、入りますか。今日も夕立の可能性があるらしいし」
こんなところで雨宿りはしたくない。「ホームレスとかいたら怖いんだけど」佑に続いて屋根の下に入りつつ、瑞希はぼやいた。
「あー、その方が怖いですね。生きた人間の方が!」
がらんとした建物に、佑の声が反響する。待合室には破れたソファーが転がり、そこら中にガラスの破片が散乱している。外の暑さが嘘のように空気はひんやりとしていて、瑞希は自然と自分の腕を両手で抱く。
「なんか寒くない?」
「え、まあ、外よりは」
全く怖がる素振りを見せず、彼はパキパキとガラスや瓦礫の破片を踏みながら、廊下をずんずん進んでいく。廃墟となる前、ここではどれだけの人が働いていたんだろう。病室にはたくさんの患者がいて、見舞客が来て、亡くなった人も大勢いたに違いない。想像して身震いした。
「……なに」
いつの間にか、左手を佑の右手が握っていた。
「寒いって言ってたから。ほんとに手、冷たいですね」
どさくさに紛れて、と言いかけた口を噤む。単純に、今は誰かの体温に触れていたい。寒いだけ、暖を取るだけだからと自分に言い聞かせて、瑞希も軽く佑の手を握った。
うわあ、と佑が感嘆の声をあげ、「うわ」と瑞希も声を漏らした。
リハビリに使っていた部屋のようだ。何も器具の残っていない広い部屋には、壁だけでなく床から天井に至るまで、一面に落書きが施されていた。これまでも少なからず目にしていたが、群を抜いてこの部屋はひどい。スプレーによる前衛的な落書きから、汚くて読み取れない文字もある。正面の「参上!」なんて主語がないから全く意味が分からない。
「名前が書かれてるっていうの、この部屋なんだけど」
「この中から探すの?」
「多分……」
手を解き、二人はそれぞれ壁の落書きを一つずつ見ていった。瑞希は馬鹿馬鹿しくなってすぐにやめ、やがて佑も諦めて戻ってきた。もちろん、どちらの名前も見つからなかった。
「自分で自分の名前書いて呪われたんじゃない?」
「なるほど、そうかもしれない」
佑はうんうんと頷き至極納得している。
それから廊下に戻り診察室らしき部屋も覗いたが、荒れ果てたそこにカルテは見当たらなかった。
「二階かもしれないですね」
「いや、もういいって」
そう言って階段を上がろうとする佑を、瑞希は内心慌てて引き止めた。「なんで」ときょとんとする彼に、怖いからだなんて言えるはずがない。
「大抵、カルテがあるような診察室って一階でしょ。二階は病室だろうし」
「見てみないとわからないじゃないですか。せっかくここまで来たんだし、噂が本当かどうか確かめて……」
彼の台詞が途切れた理由を、瑞希もすぐに理解した。唐突に、耳に入る自然音が変化したのだ。
それは雨音だった。
急いで玄関へ戻ると、大粒の雨が緑の草やコンクリートを叩く光景が目に入った。ざあざあと音を立てて大雨が降っており、いつの間にか蝉の鳴き声も止んでいた。「嘘でしょ……」瑞希はげんなりした声を零した。
「あー、降っちゃいましたね」
「なにこれ、夕立ち?」
「みたいです。多分、すぐに止みますよ」
佑は変わらずのほほんと雨空を見上げ、呑気なことを言う。彼の言うように、恐らくすぐに止む夏の雨だろう。無理に濡れて帰るよりは、雨宿りをして様子を見た方が賢明だ。
だが、薄暗い廃病院はいっそう暗い空気をまとう。陰気が具現化しているようだ。流石に佑も上階へ行こうとは言わなくなり、どちらからともなく玄関の上がり框に腰掛けた。
ごろごろと遠雷の音まで聞こえてくる。随分と激しい雨だ。
膝に頬杖をついてつまらない顔をする瑞希の隣で、彼は無念そうに肩を落とした。
「名前もカルテも、見つからなかったなあ」
「そんなの本当なわけないじゃない。死んだ人から電話がかかってくるなんてのも、あるわけないし」
「でも、夢があるじゃないですか、そういうの」
心霊に対して怖いという感情とは無縁なようだ。万が一、廃病院から電話がかかってきても、嬉々として質問攻めにする様子が容易に想像できる。こいつには、きっと幽霊もびっくりだ。
「じゃあ書いてきたら。自分の名前」
「落書きはだめですよ!」
佑が身を乗り出すのに、不法侵入のくせにと瑞希は呟いた。警報装置がないので穴場らしいですよ、と言っていたのはそもそもこいつだ。
とんだ夏休みの始まりだ。廃墟と化した病院で雨宿りだなんて。
「ていうか、あんたは呪われてもいいの? 別に呪いだとか信じてるわけじゃないけど、仮の話」
むしろ積極的に呪われに行こうとするきらいさえある。
「もしかして、呪われたいの」
しかし瑞希の台詞に「そういうわけじゃないけど」と佑は指先で頬をかいた。
「せっかくだし、試してみたいっていうだけで。それで呪われたらそれでもいいかなって」
「ふーん。自棄じゃん」
「自棄なのかなあ」
「それって、来年死ぬから?」
彼がやたらと引っ張るエイプリルフールネタを引き出して笑ってみせたが、彼は笑わなかった。神妙な顔をして考え、「そうかも」と呟くのに、瑞希はばつが悪くなる。なんでこんな時は笑わないんだ。気分がむずむずしてしまう。
「……すいませんでした」
唐突に佑が言った。
「なにが」
「先輩、乗り気じゃないのに連れ回しちゃって」
まさか、彼の口からそんな台詞が出てくるとは思わなかった。返す言葉が思い浮かばない。
「これなら先輩に協力できるって思ったんです。全部つっこさんのおかげだけど……。先輩と一緒にいられるのも嬉しくて。でも、結局何も収穫なかったですね」
瑞希が初めて見る佑の反省する姿だった。伏せた眼差しは本当に悲しげで、後悔に暮れていた。まるでいつもの結城佑らしくない。
「いや、何もないってわけじゃないけど……」
うんざりはしているが、こうも悲しい表情をされると、責める気持ちはしゅるしゅると音を立てて萎んでしまう。一緒にいたいという気持ちはあれど、そもそも佑の行動の発端は瑞希の作品のためなのだ。だから月子や周囲も巻き込んで調べてくれた。
「……空気感はわかったし」
「ほんとですか?」
頷きながら、確かに作品には活かせそうだと思う。何も起こらなくとも、訪れるまでの緊張感、実際に廃墟をうろつく恐怖や不安は十二分に体験できた。
「一人じゃ、こういうとこ来ないし……」
だから、ありがとう。
その言葉がもう喉まで込み上げているのに、出てこない。見得かプライドか恥じらいか、はたまた別の感情か。言わなければと思うのに、言葉は腕を伸ばして喉の奥を掴んで離さない。可愛げなく、外に出てくることを拒んでいる。
ちらりと横目で覗うと、彼の表情がみるみる明るくなるのが見えた。心底ほっとしているらしく、その顔は安堵に満ちていた。
ほんとに掴めないやつだ。勝手に待ち合わせたり、勝手に呼び出したり。マイペースなくせに、ふと落ち込んで反省の姿勢を見せる。百パーセントの素直だから、こっちとしても憎み嫌うわけにいかない。それに彼の勝手に振り回されても、憎むような悪意は不思議と芽生えない。
「じゃあ、次も行きましょう!」
「調子に乗るな、馬鹿」
「えー。それなら、次で最後にするから」
ほんのちょっとだけ心配して損した。彼から視線を剥がし、瑞希は「あっ」と声をあげた。
いつの間にか、激しく降っていた雨は嘘のように止んでいた。やはり通り雨だったようだ。たちまち佑が腰を上げて外に飛び出した。
「先輩、見て見て!」
彼は跳ねるようにして、右手で空を指さし、左手を振って手招きをする。何があるのかと建物から出た瑞希も、彼を同じ方角を見上げ、七色の虹を目にした。
青く晴れた空の下で、早くも蝉たちが鳴き始めていた。
例年通りの暑い日が続き、瑞希は連日パソコンに向かっていた。そろそろ来年の受験勉強にも力を入れるべきだが、その前に済ませておきたかった。
サークル用の慣れないホラー作品は思うように進まず、並行して新人賞向けの作品も書かなければならない。佑のおかげでどちらも臨場感は増したように思えるが、筆の歩みは遅かった。
環境を変えるべく、自室から居間に移り、固いアイスをかじりながらパソコンにぽちぽちと文字を打ち込む。斜め後ろで首を振る扇風機の風が、一定間隔で髪を揺らしていく。母は近所の主婦仲間とファミリーレストランに連れ立っている。確実に二時間は帰ってこない。
「あー、もう」
月子から連絡のあった締め切りまであと二週間。一応は間に合いそうだが、満足のいく仕上がりになるかは危うい。
はずれの文字が鬱陶しいアイスの棒をキッチンに捨てに行き、戻ってきた瑞希は座卓の隅でスマートフォンが点滅しているのに気が付いた。
――浮月川に行きましょう!
佑からの、いつも通り唐突なメッセージだった。
浮月川に神様がいるという話は、瑞希も聞いたことがある。それに関する情報を、彼はまたも月子から手に入れたらしい。今度は彼女も同行するそうだ。
それどころじゃないと打とうとして、躊躇する。月子が来るなら会いたい気持ちもあるし、これでオカルト巡りは最後だ。なんとか目途を立てられるだろうか。
考えている内に、更にメッセージを受信する。
――来週の金曜、来れますか?
特に予定がないことを見透かされているようで癪だが、生憎その日も一日空いている。そもそもこいつは自分の作品が書けているのか。これで佑が締め切りを破ることになったら笑えないが、意外にも要領の良い彼はきっと間に合わせるだろう。「あーもう!」ごろりと畳に転がり、瑞希は承諾のメッセージを送信した。
八月三度目の金曜日、午後一時の江雲市駅前で、瑞希と佑、そして月子は顔を合わせた。
「いやー、ずっきーにゆうゆう、久しぶりだねえ」
涼しげなキャミソールから伸びる腕で、キャップのつばの角度を調整しながら、きびきびと歩く月子が言う。小柄だが、大学生らしい余裕の滲む彼女も不思議な女性だ。お気に入りのバンドが出る野外フェスとやらに参加した彼女は、すっかり日に焼けていた。
「月子さん、だいぶ焼けましたね」
「そうなんだよ。ひりひりして大変だった」
瑞希の言葉に、腕をさすりながら苦笑する。「日焼け止め塗ったんだけどねえ」
「でも、夏って感じがしますね!」月子を挟んだ反対側で、いつも通り佑が楽しそうにしている。
「そーそー。やっぱり夏は外に出なくちゃね」
彼女は陽気に頷いた。
浮月川に行く前に、三人でお昼を摂る予定だった。「こっちにね、美味しいとこがあるんだよ」月子の先導に、二人もついて行く。
大通りを一本逸れた道に、一軒の喫茶店があった。扉の上に木の看板があり、「akatsuki」の上に「暁」と文字が彫ってある。こぢんまりとした古い店だった。
「ここのナポリタン、美味しいんですよね」
「あれ、あんたも来たことあるの」
瑞希の疑問に、佑は「何度か」と笑った。小さいが有名な店なんだろうか。
先頭切って月子が木のドアを押し開け、二人もその背に続く。「いらっしゃいませー」の声に聞き覚えがあり、瑞希はひょいと佑の後ろから前方を見やった。
途端に、「げ」という顔をした富士見と目が合った。「三人でーす」にやにや笑いながら、月子が指を三本立ててみせる。
「ここ、富士見さんのバイト先なんですか?」
「そーだよー。キヨのバイト先」
月子が返事をした。「富士さん久しぶりです!」佑が大袈裟に手を振り、やめろやめろと足早にやって来た富士見が彼の腕を抑えた。
「ちょっと、何しに来たんだよ」
「ご飯食べに来ました」
「そうそう。ご飯食べに来たの」
口をそろえる二人に「勘弁してくれよ」とぼやきつつ、富士見は四人掛けの席に案内してくれた。窓際の月子の隣に瑞希が座り、正面に佑が腰掛ける。
「富士見さん、似合ってますね」
「いいから瑞希ちゃん、メニュー見て」
瑞希の素直な感想に、残る二人がくすくすと笑う。幅広の富士見の体形に、濃紺のエプロンはやけに小さく見えたが、キャラクターじみて似合っていた。憮然としつつ、水の入ったコップとおしぼりをテーブルに置き、さっさと富士見は離れていった。
レトロな雰囲気の静かな店だ。ジャズピアノ曲がBGMとして流れていて、他に客は一組の初老の夫婦しかいない。壁には風景画が飾られ、アンティーク調のキャビネットにはお洒落な洋書が並んでいる。
「ケーキとか美味しいんだけど、そういう時間じゃないよねえ」
月子がメニュー表をめくる。メインはケーキやタルトといった焼き菓子らしいが、パスタやサンドイッチ等のランチメニューも載っている。
三人がそれぞれ注文を決定すると、「店員さーん」と佑がまたも手を振った。レジカウンターにいた富士見が慌ててやって来る。
「馬鹿、でかい声あげるな」
「僕、ナポリタンで」
「あたしはカレー。ずっきーは?」
「えっと、サンドイッチでお願いします」
メニュー表を持って去りかけた富士見の背に「あ、店員さーん。お冷もお願しまーす!」と月子が声を掛け、佑も軽率に乗っかる。
「静かでいいお店ですね。ねえ店員さん」
「なんかおすすめありますー? 今度頼んでみたいんですけど」
「あー、そうだ、ケーキって持ち帰りできますか?」
軽い音を立てて、富士見が佑の頭をメニュー表で叩いた。口々に好き勝手言っていた二人は、目を合わせてわざとらしく舌を出す。「持ち帰りはやってません」そう言い残し、富士見は今度こそ店の奥に引っ込んでいった。
「二人ともふざけすぎ」瑞希は頭をさする佑をじとりと睨む。「ついつい」と月子が笑った。「あの格好してるの見ると、いじりたくなるんだよね」
ひと悶着ありながらも、後に運ばれてきた食事は美味しかった。瑞希が口にしたサンドイッチは卵がふわりと柔らかく、キュウリもしゃきしゃきしている。ようやく本題に入ると、月子は浮月川の昔話について教えてくれた。
元来、今の下浮月橋が「浮月橋」だったが、上流に新しく出来た綺麗な橋に名前を取られて「下浮月橋」となった。もともと浮月川には願いを叶える神様がおり、祠を立てて奉られていたが、その祠も今や上流の浮月川にある。
だが、その祠は移転したわけでなく新しく造ったもので、古い祠は前と変わらぬ場所にある。昔からの住民だけが知る祠の神様は霊験あらたかで、好物を供えて祈ると、願いをよく叶えてくれるらしい。
「その好物ってなんですか?」
瑞希の質問に、カレーを食べながら「お団子」と月子が言い、水を飲む。「江雲って、お団子が有名でしょ。昔かららしくて、神様も好きなんだって」
江雲は水が豊富で米が有名だ。そこから作られる団子は、観光資源として一役買っている。まさか神様まで好いているとは思わなかったが。
食事を終え、会計を済ませ、「また来るねー」と月子がひらひらと手を振った。
「もう来なくていいっす」
不満顔の富士見を背に、三人は店を出た。