今日も水たまりがある。自分の現実を押し付けられているようで嫌だった。



「お嬢様。そろそろ起きませんと、間に合いません」
 朝に弱い私は、大学に通うような年齢になっても、召し使いに起こしてもらわなければならない。
 もしーーもしも準人と結婚したら、朝は自分で起きなくてはいけない。まあ、準人は優しいから、起こしてくれるかもしれないけど。
 そんな妄想でしかないことを考え、すぐに打ち消す。
 結婚なんて、できるわけがない。できたとしても、両親に悪く言われるのは目に見えているし、この命だって……。
「お食事の準備は整っていますからね。お着替えになったら、降りてきてください」
 呆れたような口ぶりで言うと、召し使いは出ていった。
 とてもだるいけど、時計を見たら本当に講義が始まる時間だったので、慌ててベットから飛び降りた。
 クローゼットから、半袖のブラウス、レース、スカートを取り出した。真夏だというのに、レースを羽織らなくてはいけないのは、面倒。でも、羽織っておかないと、ばれてしまうかもしれないから……。
 ばたばたしながら、階段を降りていく。リビングには召し使いしかいなかった。両親はもう仕事か。
 好物のフレンチトーストと、健康によさそうなサラダを詰め込んだ。
 髪の毛にアイロンをかけて、歯を磨く。

 車に乗り込み、少しスピードを出してもらいながら大学に向かった。
「では、講義が終わる頃に、またお迎えにあがります」
「ありがとう」
 時計を見ると、講義が始まる3分前。ダッシュで教室に入る。
「葉菜」
 声がした方に目を向けると、和が私を呼んでいる。
 教授が入ってくるまでに、座っておかなければ。
「相変わらず、朝弱いねー」
「ほんとに。廊下走っちゃったよ」
 今日も和は、高級アクセサリーを身につけていた。
 この大学は、いわゆるお嬢様大学。お金持ちのお嬢様だったら、無条件で入ることができるのだ。
「ごきげんよう」
 ていねいにあいさつをしながら、教授が入ってきた。
  教授も大企業の社長の娘で、いつも高い服や靴、アクセサリーを身につけている。化粧も厚くて、言葉遣いもお嬢様らしくて仕方ない。
「ごきげんよう」
 普通の大学ならば、『おはようございます』、『こんにちは』なのだろうけど、お嬢様だから『ごきげんよう』だ。
 授業もていねいに進められていく。字がきれいではない学生は、きれいに書くよう注意されるときがある。
 お嬢様とは言え、その中でも身分がある。ちなみに、私はけっこう上だ。だから教授も、私にそう簡単には口出しできない。多少レポートの提出が遅れても、「気をつけましょうね」と微笑まれるくらい。下の人たちは「提出期限くらいは守らないと……」と散々怒られ、しばらく嫌な顔をされるとか。
 身分で教授の態度が変わるなんて、本当におかしいと思う。
 でも、お父さんや教授たちの世界では、それが当たり前。
 私も大学を卒業して、社会に出たら、そんな考え方になってしまうのだろうか。いや、そのころに命があるのかさえ怪しい。
「今日もお疲れ様でした。ではまた」
 教授が出ていったあと、和と話していたら次の授業の学生が入ってきた。
 迷惑になるので、今日の講義はない私たちは、近くでお茶をすることにした。それぞれの運転手には、一時間ほど時間を遅らせるよう言った。
「それで、準人くんとはどう?」
「どうもなにも、上手くいってる。けど、お父さんたちが……ね」
「えー、まだ細かく言ってるの?というか葉菜たちも、結婚の話とかすればいいのに」
 結婚の言葉を聞いて、私は飲んでいたミントティーを噴き出しそうになった。
 でも、そんなことしてはいけない。カプセルA社の社長令嬢なのだから。
「葉菜が大学を卒業したら、そういう話をしてもおかしくないと思うよ?学生の間は……きついと思うから」
「え、どうして?」
「学業と結婚生活を両立なんて、難しいことだと思うの。それに結婚したら、葉菜は家を出るつもりでしょ?召し使いや運転手もいなくなる。料理は準人くんがしてくれるとして、他の家事は誰がするの?彼だって、親の定食屋さんで働いているんだから、専業主夫になるわけにはいかない。そして子どもが生まれたら?もう大学どころではないわ」
 他人事のようにして聞いてしたが、「葉菜のこと言ってるからね?」と言われ、はっと我に返った。
 そう言えば、そんなことは全然考えていなかった。準人が結婚したいと思っているかも分からないのに。
「だけど結局は、葉菜たちが話し合って決めることよね。私たち他人が口出しできる問題じゃない」
「そんな……」
「なにかあったら相談して。それが解決できるのかは分からないけど、聞くくらいはできるから」
 和は腕時計をちらりと見て、今日はこれから用事があるとばたばたしながら帰っていった。今から帰って準備をしていたら、きっとぎりぎりになるのだろう。
 そんな時間まで話を聞いてくれたことに、私は感謝した。
 私も店を出て、帰ろうと思った。しかし、運転手に頼って送迎をしてもらっていたからどのバスや電車に乗ればいいのか、帰り道すら分からない。
 贅沢はしたくないけど、帰れないとなっては仕方ない。運転手に電話をかける。
『はい、吉坂です』
「今から迎えをお願いしてもいい?」
『承知しました。すぐ参ります』
 電話を切ったあと、「葉菜」と準人の声が聞こえたーー気がした。
 でも周りには、準人どころか誰もいなくて、私は肩を落とす。
 こんなとき、準人が現れて、家まで送ってくれたらいいのに。
 そんな甘い考えを、すぐ頭の中で消す。
 準人だって、なにかと忙しいのだ。デートだって家の手伝いがあるのに、無理して時間を作ってくれているのだろう。
 そんな状態で結婚などしてしまったら、彼の重荷になってしまうに違いない。
「お待たせしました」
 吉坂が車から出て、後ろの座席のドアを開ける。本当はこんなこともしなくていい。一度そんなことを言ったら、「そのようなことを、軽々しくおっしゃってはいけません」と注意され、それ以来は気をつけている。
 車にゆられながら、ぼーっと窓の外を見る。
 ……この景色を、準人も見ているのだろうか。
「和様とは、ゆっくりお話できましたか?」
「うん、まあ……そこそこに」
 準人との結婚のことが、まだ頭に残っている。明日はピクニックデードだが、こんな状態で上手くできるのだろうか。
 そうだ、彼が好きなサンドイッチを作るから、シェフにキッチンを貸してほしいと頼まなければ。だけど、両親がいたらどうしたらいいだろう。
 家に着いて、私はキッチンにいるシェフに声をかけた。ちなみに、両親はまだ、仕事から帰っていなかった。
「明日の朝、キッチンを貸してほしいんだけどいい?」
「それは、もちろん構いませんが……」
「サンドイッチを作りたいの。材料はある?」
「あ……パンがないですね。あとで買っておきましょう」
「ありがとう。じゃ、よろしく」
 両親が帰ってこないうちに、部屋に戻る。
 私は羽織っていたレースを脱いで、お腹を確認する。
 よかった。どうやら、透明な箇所は増えていないみたい。だけど、こんなことが積み重なったら、きっと……。
 どうしたらいいのだろう。どうしたら、〝現実〟から抜け出すことができるのだろう。
 だけど、どうしたって抜け出すことなんてできない。私はSFに出てくるような人だけど、現実から抜け出す力は持っていない。
 このまま、私は消えてしまうのだろうか。じゃあ私が消えたあとは?準人は、私のことを忘れてしまうの?そしてほかの女性と付き合ってしまうの?
 彼に恋人ができるのが許せない自分がいた。
「ーー葉菜!!」
 すーっと、涙が頬を伝いそうになったとき、お父さんの声が聞こえた。
 けっこう怒っているようだから、きっとシェフから聞いたのだろう。私が明日、サンドイッチを持ってどこかに行くことを。
「……また準人くんとデートか?」
 乱暴にドアを開けて入ってきたお父さんの額には、青筋が浮いている。
「そうだけど、なに?」
「なに?じゃないだろう!あれだけ準人くんとの交際は、反対したというのに!」
 そんなに怒らなくてもいいじゃない。それに、誰と付き合おうと私の自由。どうしてそんなに怒鳴られないといけないの?
 心の中でぶつぶつ文句を言うけど、それを言葉にはできなかった。
 私がこうやって暮らせているのも、お父さんやお母さんのおかげ。だから、文句なんて言う権利はない。
「……ごめん、なさい。でも、明日は行かせてほしい。前々から約束していたし、シェフにも台所を貸してと言ってあるから」
 どうして私が謝らなければならないのか、全く分からなかった。
 悪いのは世間からの目を気にし過ぎの両親だ。
「明日以降のデートは、お父さんかお母さんに言って出かけなさい。本当は、控えてほしいんだがな……」
 怒りをなんとか飲みこんでいるのが分かる。
 お父さんは、はあ……、とため息をついて、出ていった。
 そんなに反対しなくてもいいじゃない。それに、私の命は残り少ないんだから、ちょっとくらい好きにさせてよ。好きな人とくらい付き合わせてよ。
 準人のこと、両親に反対されたこと。
 そのふたつが同時にくるのは、けっこうきつい。
 明日のデートが不安なまま、私はその日を終えた。

 2時間ほどしか眠ることができなかった。
 夜は次の日になっても、色んなことをずっと考え込んでいて、朝の5時くらいに、夜明けとともにうとうとし始めた。
 待ち合わせは9時半だから、7時には起きないと準備が間に合わない。
 だるい体を無理やり起こして、クローゼットを開けた。
 こんなにだるいデートの日は初めてだ。
 熱があっても、前回のデートで準人と喧嘩をしていても、だるい、きついとは思わなかった。
「おはようございます、お嬢様」
 リビングに降りたら、両親はいなく、台所にはシェフがいなかった。
「お嬢様、パンは買っておきました。具材はご自由にお使いください」
「うん……ありがと」
 明るく答えることができなくて、シェフや召し使いたちを困惑させてしまった。
 椅子に座って、湯気が立つご飯を食べた。
 うちのご飯は甘いし、私が好きなメーカーのお米を使ってもらっている。おかずも充実しているーーのに。
 味が分からない。おいしいと感じない。食べたくない。
 二口食べたところで、私は箸を置いた。
「お嬢様?」
「ごめんね……。今日は食欲がないの」
 私は立ち上がって、食器を片付けた。
 そのまま台所に立ち、サンドイッチを作る。
 準人は、卵ハムサンドが好きだから、それを多めに持っていく。
 30分ほどでできあがり、崩れないように丁寧に保冷バックに入れた。
 部屋で必要なものをバックに入れ、洗面所で身なりの最終確認。
 いってきます、と言っても、心から返してるれる人はいない。気まずそうに、「いってらっしゃいませ」と言われるだけ。
 お父さんになにか言われるからなのだろうけど、返事はしてくれないとこっちも嫌な気分になってしまう。

 待ち合わせ場所は、先週と同じ。
 朝食をちゃんととっていないから、さっきからめまいが止まらない。寝不足もあるから、頭がくらくらしてしまう。
「葉菜!」
 だけど、その声を聞いただけで、そんなのどうでもよくなるーー前までは。
「お待たせ」
 彼の顔を直視できず、少しうつむいて答える。
 準人の爽やかな声を聞いたというのに、私の気分は晴れなかった。予想はしていた。想定内だ。なのに、どうして?という言葉が私の頭の中を埋めつくす。
 今日は近くの公園に行って、ランチをすることになっている。崩れていないか心配だったけど、今はそれどころではなかった。
 ーー会話が弾まない。
 私は、自分自身が思っているより、けっこう心が不安定のようだ。なにを話したらいいのか分からない。どういう反応をするべきか、頭の中で考えてしまう。
 今までそんなことはなかったのに、急にこんなふうになるなんて。
「そこに座ろう」
 公園に着いたら、たくさんの家族がいた。子連れも多かったけど、夫婦、またはカップルで来ている人もいる。
 みんながみんな、楽しそうだ。
 子連れの親は、元気に遊ぶ子どもたちを見ながらにこにこしているし、夫婦やカップルも、楽しそうにおしゃべりをしている。
「うわっ、美味そー!」
 保冷バックから、サンドイッチが入っているタッパーを取り出し、ふたを開ける。
 よかった、形は崩れていない。まずはそこで一安心だけど、次は味だ。それが上手くいかないとどうしようもない。
「じゃあ、いただきまーす」
 私は幼いときから料理に興味があり、シェフに様々なことを教えてもらっていたけど、彼に食べられるときはいつも緊張してしまう。
 平静を装いながらも、心では胸の鼓動がうるさい。
「あ、おいしい!」
 疑いのない笑顔を見てから、私はほっと安堵のため息をもらした。
 不安の気持ちが、一気に安心へと変わる。
「葉菜も食いなよ、俺が全部食っちゃうぞ?」
 そう言って、口の中にぽいぽいとサンドイッチを入れていく。そのたびに、「おいしい!」「美味!」と笑顔で言ってくれた。
 私は彼の顔を見ているだけで十分だったけど、「食いなよ」とうるさいから、しかたなく食べた。
 タッパーが空になり、水筒の紅茶を飲んで一息ついた頃には、もう昨日の変な気持ちは消えていた。
「ほんと、おいしかったー!あ、そだ。材料費を……」
 鞄の中から封筒を取り出そうとする準人の手を、私はそっと止めた。
「いらない。それは、準人のために使って?」
「でも母さんが……」
「大丈夫!……ね?」
 封筒を無理やり鞄に直させる。
 そのとき、彼のスマホが震え、ロック画面が光った。そこに写っていた写真は、私たちが初めてデートをしたときに撮った写真。あのときはまだ気恥ずかしくて、とてもぎこちない笑顔だ。
 もう、あれから三年近く経つ。



 私たちが出会ったのは、そこら辺にあるーーでもちょっと高いーーカフェだった。
 当時、私たちは高校生で、まもなく受験生になるという年だった。
「はあ……」
「はあ……」
 という声が重なったからだろう。
 隣の席に座っていて、お互いひとりだった私たちは、つい顔を見合わせてしまった。
 ばっちり目が合ってしまい、唐突に目を逸らそうとした。でも、逸らせなかった。
 彼の瞳は本当にきれいで、今にも吸い込まれてしまうのではないか、というくらい、まっすぐだった。
 なんとも言えない雰囲気になり、私たちは同時に噴き出した。
「なにか、悩みでも?」
 人と話すのがーーとくに初対面の人とはーー本当に苦手だった。
 それを分かってなのか、そうやって和ませてくれた。
「まあ、人並みには……」
 悩みがないのは、それはそれでおかしいと思い、正直に答えた。でも、人並みなんかのレベルじゃない。