西に位置する長庚国は、四神獣のひとつ白虎を守護神とし、同じく他の四獣神を守護神とする三つの国と隣接しながら栄えていた。
雨が多い分水不足に悩むことはなく、国は緑豊かな森に囲まれている。木材を資源とした加工に長けており、加工技術や建築術などは他国に追随を許さない。
時の皇帝は娄劉帆。ここ数年、人前に出ることが少なくなり、御代替わり囁かれている。
その際には、血生臭い一種の後継者問題が発生するのが世の常ではあるが、それを心配する者は少なかった。なぜなら娄劉帆には息子がひとりしかおらず、彼が次期皇帝になるのが決まっていたからだ。
このまま何事もなくいけば――。
「凜風」
迦陵頻伽とはまさにこのことだ。主である珠倫に名前を呼ばれるだけで、凜風は天にも昇るような気持になる。
「お呼びでしょうか、珠倫さま」
淑女を心がけ平静に答えてから深々と頭を下げる。面を上げるように言われてから、凜風はゆっくりと顔を上げて相手を見た。
女官の衣装である長袖の赤い漢服に、黒の袴を身に纏っている凜風とは対照的に、珠倫が着ているのは青みがかった乳白色の襦裙は高級な代物で、絹のような黒髪がさらりと揺れる。
袖の間から色白の手が自分の方にそっと伸ばされ、その手のひらのは白い糖が乗っていた。
「これね、他の即妃の方々に頂いたお菓子。凜風にあげるわ」
「ありがとうございます!」
迷わず答え、凜風は笑顔になる。嬉しさで胸がいっぱいだ。
自身の鳶色の髪は癖があり、それをうしろでいつもひとつに束ねている。髪と同じ色の瞳が、珠倫を前にするといつも以上に煌煌と輝く。
凜風は、珠倫からもらった糖を口の中に放り込んだ。硬さのある糖が舌の上で転がるたびに溶けながら甘さを口内にもたらす。
「美味しいかしら?」
「はい。とっても美味しいです。ありがとうございます」
「凜風!」
幸せを噛みしめながら答えると、その場の雰囲気に似つかわしくない厳しい声が飛んだ。相手が誰かなどいちいち確認するまでもない。
「なんでしょうか、春蘭さま」
珠倫に対するものとはまったく異なり、無機質な声と表情で凜風は慇懃無礼に答えた。
「女官の立場で、お仕えする珠倫さまへの贈り物をいただくなど言語道断!」
現れたのは、凜風と同じく珠倫に仕える女官、春蘭だった。凜風のふたつ年上になるが、凜風は春蘭がどうも苦手だった。それは相手も同じだろう。
「いいのよ、春蘭。私があげると言ったのだから」
「しかし、珠倫さま」
フォローした珠倫に、凜風はすかさず乗っかる。
「そうです。主の言うことは素直に聞かないとなりませんよ、春蘭さま。あ、もしかして春蘭さまも欲しかったのですか?」
「違います。食い意地の張っているあなたと一緒にしないでください」
珠倫への表情や態度とまるで正反対。中性的な顔立ちで背が高く、女官として珠倫の身の回りの世話はもちろん、警護役も担っている。身長、落ち着いた声、冷静な性格。
凜風にはないものばかりを持っていて、だからこそ珠倫は凜風と春蘭ふたりをそばにおいているのかもしれない。
今でもそうだが後宮にやってきた頃、女官どころか侍女としてもなにも心構えのない凜風を春蘭は叩き上げた。ある意味、彼女は凜風にとっても恩人といったところだ。
ここは娄家が誇る後宮のうちのひとつ、明星宮。後宮は皇帝のためにある太白宮と次期皇帝となる皇子のために用意された明星宮に分かれる。
当然、太白宮の方が待遇も良く住まう建物や環境も一流のものが用意されている。ごくまれに明星宮に足を運んだ皇帝に見初められ、太白宮に移る者もいるが今の皇帝は明星宮には足を運ばない。
さらに言うならば、第一皇子である娄泰然さえもあまり顔を出さないのだ。
おかげで目をつむりたくなるような女同士の熾烈な争いは、今のところ起きてはいない。しかし、ここ数年の皇帝の体調を鑑みれば、泰然が皇帝になる日もそう遠くはない。
本人もおそらく自覚しているはずだ。だから最近になり、彼が明星宮へたびたび足を運ぶようになったとは聞いている。幾分か殺伐した空気が流れだしたのは致し方なく、比較的平和な明星宮も変わっていくのだろう。しかしそれが後宮だ。
年は十六になる凜風は、第一皇子の即妃である曹珠倫に仕える女官だ。珠倫が十三で明星宮に輿入れしたときから仕え続け、もう四年になる。その忠誠心は他の女官にはないもので、凜風が珠倫を慕い従い続けるのは、付き合いの長さだけではなかった。
元々凜風は女官ではなく、孤児として生きていた。そして十二歳になった頃、住み込みで働いていた家の者から体を売るように強要され逃げ出したのだ。
けれど行く宛などあるはずもなく、途方に暮れるしかない。そのとき明星宮に輿入れ途中の珠倫が、馬車を止め道端で呆然としている凜風に声をかけて来たのだ。
『あなた、そんなところでひとりどうしたの?』
珠倫の言葉に、凜風は正直に自分の事情を話した。すると、珠倫は自分の侍女として一緒に明星宮に行かないかと提案してきたのだ。
あまりにも突然の出来事に凜風は話がなかなか飲み込めなかったが、珠倫の提案に頷き彼女の世話係として明星宮に共にやってきた。
そこからは立派な女官になるべく精進してきた。最初は位のない官女から始まり、努力の甲斐あって今では珠倫の女官を務めている。珠倫には返し尽せないほどの恩があり、凜風は自分の命も彼女のためには惜しくないと本気で思っている。
珠倫は明星宮に輿入れした際の選定式で、その教養の高さと外貌の麗しさ、さらに娄家の遠縁にあたる曹家の出ということで最初から側室では上位四番目となる『嬪』の立場にある。
こうやって女官をつけながらも小さな個殿を与えられているのもそのためだ。
(さすがは珠倫さま。見た目も中身も完璧で、人としても素晴らしい女性だもの。絶対にゆくゆくは即妃ではなく正妃になる方だわ!)
おそらく自分のような人間とは口も利きたくないという者も多いだろう。家柄や地位だけで蔑まれ生きてきた。しかし珠倫はいまだに凜風を実の妹のように接している。
「で、春蘭さまはどうしてこちらへ?」
珠倫への思い出にうっとりしつつ、水を差されたと言わんばかりに凜風は春蘭に尋ねる。
春蘭は、珠倫とは親戚で幼い頃から共に過ごし、珠倫が凜風に声をかけた際も春蘭は最後まで凜風を共に明星宮に連れて行くのを反対した人物だ。
そういう経緯もあって、どうしても彼女に対する苦手意識は拭えない。
しかし答えたのは春蘭ではなく珠倫だった。
「私が呼んだのよ」
「え?」
凜風が珠倫を見ると、先ほどとは打って変わって神妙な面持ちになっている。どうしたのかと春蘭に視線を遣ったが、彼女も黙りこくって、その表情はなんともいえない複雑そうなものだった。
「凜風に話しておきたいことがあるの」
珠倫の言葉に目を見張る。一体どうしたというのか。ひとつだけわかるのは、ふたりの表情から、今から聞かされる内容はあまり喜ばしいものではないということだ。
締め切った部屋の中、上座に座る珠倫を前に凜風と春蘭は並んで座る。ややあって珠倫の口が動いた。
「実は、春蘭があと三月で女官を辞めて明星宮を去る予定なの」
「え!?」
思わず叫んで隣にいる春蘭を見ると、彼女は凜風の方を見ずにただ前だけを見据えている。
「……理由を尋ねてもよろしいですか?」
おずおずと前を向き、春蘭ではなく珠倫に尋ねた。
「体調が優れないみたいで、このままここで女官をするのは難しいという話なの」
「そんな……」
春蘭とは長い付き合いになるが、そんな状況だったとはまったく知らなかった。
「本当は珠倫さまが、正妃になるまでを見届けたかったのですが……」
そう静かに呟く春蘭はどこか悔しそうで、歯がゆそうに感じる。
お世辞にも春蘭との仲がいいとは言えない。けれど同じ珠倫に仕える者同士として何年もやってきた。凜風が女官として今、やれているのも春蘭が様々なしきたりや技術を教えてきてくれたからだ。
なにも言えずにいると、珠倫がわざと明るい声で続ける。
「だからね、もしも春蘭に聞いておきたいことや教えてもらいたいことがあったら遠慮なく言ってほしいの。春蘭も凜風にいろいろ託したいこともあるみたいだから」
「わかり、ました」
小さく頷き、頭を下げる。凜風の胸の中には言い知れぬ不安が広がり、今になって隣にいた春蘭の存在の大きさを思い知っていた。
雨が多い分水不足に悩むことはなく、国は緑豊かな森に囲まれている。木材を資源とした加工に長けており、加工技術や建築術などは他国に追随を許さない。
時の皇帝は娄劉帆。ここ数年、人前に出ることが少なくなり、御代替わり囁かれている。
その際には、血生臭い一種の後継者問題が発生するのが世の常ではあるが、それを心配する者は少なかった。なぜなら娄劉帆には息子がひとりしかおらず、彼が次期皇帝になるのが決まっていたからだ。
このまま何事もなくいけば――。
「凜風」
迦陵頻伽とはまさにこのことだ。主である珠倫に名前を呼ばれるだけで、凜風は天にも昇るような気持になる。
「お呼びでしょうか、珠倫さま」
淑女を心がけ平静に答えてから深々と頭を下げる。面を上げるように言われてから、凜風はゆっくりと顔を上げて相手を見た。
女官の衣装である長袖の赤い漢服に、黒の袴を身に纏っている凜風とは対照的に、珠倫が着ているのは青みがかった乳白色の襦裙は高級な代物で、絹のような黒髪がさらりと揺れる。
袖の間から色白の手が自分の方にそっと伸ばされ、その手のひらのは白い糖が乗っていた。
「これね、他の即妃の方々に頂いたお菓子。凜風にあげるわ」
「ありがとうございます!」
迷わず答え、凜風は笑顔になる。嬉しさで胸がいっぱいだ。
自身の鳶色の髪は癖があり、それをうしろでいつもひとつに束ねている。髪と同じ色の瞳が、珠倫を前にするといつも以上に煌煌と輝く。
凜風は、珠倫からもらった糖を口の中に放り込んだ。硬さのある糖が舌の上で転がるたびに溶けながら甘さを口内にもたらす。
「美味しいかしら?」
「はい。とっても美味しいです。ありがとうございます」
「凜風!」
幸せを噛みしめながら答えると、その場の雰囲気に似つかわしくない厳しい声が飛んだ。相手が誰かなどいちいち確認するまでもない。
「なんでしょうか、春蘭さま」
珠倫に対するものとはまったく異なり、無機質な声と表情で凜風は慇懃無礼に答えた。
「女官の立場で、お仕えする珠倫さまへの贈り物をいただくなど言語道断!」
現れたのは、凜風と同じく珠倫に仕える女官、春蘭だった。凜風のふたつ年上になるが、凜風は春蘭がどうも苦手だった。それは相手も同じだろう。
「いいのよ、春蘭。私があげると言ったのだから」
「しかし、珠倫さま」
フォローした珠倫に、凜風はすかさず乗っかる。
「そうです。主の言うことは素直に聞かないとなりませんよ、春蘭さま。あ、もしかして春蘭さまも欲しかったのですか?」
「違います。食い意地の張っているあなたと一緒にしないでください」
珠倫への表情や態度とまるで正反対。中性的な顔立ちで背が高く、女官として珠倫の身の回りの世話はもちろん、警護役も担っている。身長、落ち着いた声、冷静な性格。
凜風にはないものばかりを持っていて、だからこそ珠倫は凜風と春蘭ふたりをそばにおいているのかもしれない。
今でもそうだが後宮にやってきた頃、女官どころか侍女としてもなにも心構えのない凜風を春蘭は叩き上げた。ある意味、彼女は凜風にとっても恩人といったところだ。
ここは娄家が誇る後宮のうちのひとつ、明星宮。後宮は皇帝のためにある太白宮と次期皇帝となる皇子のために用意された明星宮に分かれる。
当然、太白宮の方が待遇も良く住まう建物や環境も一流のものが用意されている。ごくまれに明星宮に足を運んだ皇帝に見初められ、太白宮に移る者もいるが今の皇帝は明星宮には足を運ばない。
さらに言うならば、第一皇子である娄泰然さえもあまり顔を出さないのだ。
おかげで目をつむりたくなるような女同士の熾烈な争いは、今のところ起きてはいない。しかし、ここ数年の皇帝の体調を鑑みれば、泰然が皇帝になる日もそう遠くはない。
本人もおそらく自覚しているはずだ。だから最近になり、彼が明星宮へたびたび足を運ぶようになったとは聞いている。幾分か殺伐した空気が流れだしたのは致し方なく、比較的平和な明星宮も変わっていくのだろう。しかしそれが後宮だ。
年は十六になる凜風は、第一皇子の即妃である曹珠倫に仕える女官だ。珠倫が十三で明星宮に輿入れしたときから仕え続け、もう四年になる。その忠誠心は他の女官にはないもので、凜風が珠倫を慕い従い続けるのは、付き合いの長さだけではなかった。
元々凜風は女官ではなく、孤児として生きていた。そして十二歳になった頃、住み込みで働いていた家の者から体を売るように強要され逃げ出したのだ。
けれど行く宛などあるはずもなく、途方に暮れるしかない。そのとき明星宮に輿入れ途中の珠倫が、馬車を止め道端で呆然としている凜風に声をかけて来たのだ。
『あなた、そんなところでひとりどうしたの?』
珠倫の言葉に、凜風は正直に自分の事情を話した。すると、珠倫は自分の侍女として一緒に明星宮に行かないかと提案してきたのだ。
あまりにも突然の出来事に凜風は話がなかなか飲み込めなかったが、珠倫の提案に頷き彼女の世話係として明星宮に共にやってきた。
そこからは立派な女官になるべく精進してきた。最初は位のない官女から始まり、努力の甲斐あって今では珠倫の女官を務めている。珠倫には返し尽せないほどの恩があり、凜風は自分の命も彼女のためには惜しくないと本気で思っている。
珠倫は明星宮に輿入れした際の選定式で、その教養の高さと外貌の麗しさ、さらに娄家の遠縁にあたる曹家の出ということで最初から側室では上位四番目となる『嬪』の立場にある。
こうやって女官をつけながらも小さな個殿を与えられているのもそのためだ。
(さすがは珠倫さま。見た目も中身も完璧で、人としても素晴らしい女性だもの。絶対にゆくゆくは即妃ではなく正妃になる方だわ!)
おそらく自分のような人間とは口も利きたくないという者も多いだろう。家柄や地位だけで蔑まれ生きてきた。しかし珠倫はいまだに凜風を実の妹のように接している。
「で、春蘭さまはどうしてこちらへ?」
珠倫への思い出にうっとりしつつ、水を差されたと言わんばかりに凜風は春蘭に尋ねる。
春蘭は、珠倫とは親戚で幼い頃から共に過ごし、珠倫が凜風に声をかけた際も春蘭は最後まで凜風を共に明星宮に連れて行くのを反対した人物だ。
そういう経緯もあって、どうしても彼女に対する苦手意識は拭えない。
しかし答えたのは春蘭ではなく珠倫だった。
「私が呼んだのよ」
「え?」
凜風が珠倫を見ると、先ほどとは打って変わって神妙な面持ちになっている。どうしたのかと春蘭に視線を遣ったが、彼女も黙りこくって、その表情はなんともいえない複雑そうなものだった。
「凜風に話しておきたいことがあるの」
珠倫の言葉に目を見張る。一体どうしたというのか。ひとつだけわかるのは、ふたりの表情から、今から聞かされる内容はあまり喜ばしいものではないということだ。
締め切った部屋の中、上座に座る珠倫を前に凜風と春蘭は並んで座る。ややあって珠倫の口が動いた。
「実は、春蘭があと三月で女官を辞めて明星宮を去る予定なの」
「え!?」
思わず叫んで隣にいる春蘭を見ると、彼女は凜風の方を見ずにただ前だけを見据えている。
「……理由を尋ねてもよろしいですか?」
おずおずと前を向き、春蘭ではなく珠倫に尋ねた。
「体調が優れないみたいで、このままここで女官をするのは難しいという話なの」
「そんな……」
春蘭とは長い付き合いになるが、そんな状況だったとはまったく知らなかった。
「本当は珠倫さまが、正妃になるまでを見届けたかったのですが……」
そう静かに呟く春蘭はどこか悔しそうで、歯がゆそうに感じる。
お世辞にも春蘭との仲がいいとは言えない。けれど同じ珠倫に仕える者同士として何年もやってきた。凜風が女官として今、やれているのも春蘭が様々なしきたりや技術を教えてきてくれたからだ。
なにも言えずにいると、珠倫がわざと明るい声で続ける。
「だからね、もしも春蘭に聞いておきたいことや教えてもらいたいことがあったら遠慮なく言ってほしいの。春蘭も凜風にいろいろ託したいこともあるみたいだから」
「わかり、ました」
小さく頷き、頭を下げる。凜風の胸の中には言い知れぬ不安が広がり、今になって隣にいた春蘭の存在の大きさを思い知っていた。