西に位置する長庚国は、四神獣のひとつ白虎を守護神とし、同じく他の四獣神を守護神とする三つの国と隣接しながら栄えていた。
雨が多い分水不足に悩むことはなく、国は緑豊かな森に囲まれている。木材を資源とした加工に長けており、加工技術や建築術などは他国に追随を許さない。
時の皇帝は娄劉帆。ここ数年、人前に出ることが少なくなり、御代替わり囁かれている。
その際には、血生臭い一種の後継者問題が発生するのが世の常ではあるが、それを心配する者は少なかった。なぜなら娄劉帆には息子がひとりしかおらず、彼が次期皇帝になるのが決まっていたからだ。
このまま何事もなくいけば――。
「凜風」
迦陵頻伽とはまさにこのことだ。主である珠倫に名前を呼ばれるだけで、凜風は天にも昇るような気持になる。
「お呼びでしょうか、珠倫さま」
淑女を心がけ平静に答えてから深々と頭を下げる。面を上げるように言われてから、凜風はゆっくりと顔を上げて相手を見た。
女官の衣装である長袖の赤い漢服に、黒の袴を身に纏っている凜風とは対照的に、珠倫が着ているのは青みがかった乳白色の襦裙は高級な代物で、絹のような黒髪がさらりと揺れる。
袖の間から色白の手が自分の方にそっと伸ばされ、その手のひらのは白い糖が乗っていた。
「これね、他の即妃の方々に頂いたお菓子。凜風にあげるわ」
「ありがとうございます!」
迷わず答え、凜風は笑顔になる。嬉しさで胸がいっぱいだ。
自身の鳶色の髪は癖があり、それをうしろでいつもひとつに束ねている。髪と同じ色の瞳が、珠倫を前にするといつも以上に煌煌と輝く。
凜風は、珠倫からもらった糖を口の中に放り込んだ。硬さのある糖が舌の上で転がるたびに溶けながら甘さを口内にもたらす。
「美味しいかしら?」
「はい。とっても美味しいです。ありがとうございます」
「凜風!」
幸せを噛みしめながら答えると、その場の雰囲気に似つかわしくない厳しい声が飛んだ。相手が誰かなどいちいち確認するまでもない。
「なんでしょうか、春蘭さま」
珠倫に対するものとはまったく異なり、無機質な声と表情で凜風は慇懃無礼に答えた。
「女官の立場で、お仕えする珠倫さまへの贈り物をいただくなど言語道断!」
現れたのは、凜風と同じく珠倫に仕える女官、春蘭だった。凜風のふたつ年上になるが、凜風は春蘭がどうも苦手だった。それは相手も同じだろう。
「いいのよ、春蘭。私があげると言ったのだから」
「しかし、珠倫さま」
フォローした珠倫に、凜風はすかさず乗っかる。
「そうです。主の言うことは素直に聞かないとなりませんよ、春蘭さま。あ、もしかして春蘭さまも欲しかったのですか?」
「違います。食い意地の張っているあなたと一緒にしないでください」
珠倫への表情や態度とまるで正反対。中性的な顔立ちで背が高く、女官として珠倫の身の回りの世話はもちろん、警護役も担っている。身長、落ち着いた声、冷静な性格。
凜風にはないものばかりを持っていて、だからこそ珠倫は凜風と春蘭ふたりをそばにおいているのかもしれない。
今でもそうだが後宮にやってきた頃、女官どころか侍女としてもなにも心構えのない凜風を春蘭は叩き上げた。ある意味、彼女は凜風にとっても恩人といったところだ。
ここは娄家が誇る後宮のうちのひとつ、明星宮。後宮は皇帝のためにある太白宮と次期皇帝となる皇子のために用意された明星宮に分かれる。
当然、太白宮の方が待遇も良く住まう建物や環境も一流のものが用意されている。ごくまれに明星宮に足を運んだ皇帝に見初められ、太白宮に移る者もいるが今の皇帝は明星宮には足を運ばない。
さらに言うならば、第一皇子である娄泰然さえもあまり顔を出さないのだ。
おかげで目をつむりたくなるような女同士の熾烈な争いは、今のところ起きてはいない。しかし、ここ数年の皇帝の体調を鑑みれば、泰然が皇帝になる日もそう遠くはない。
本人もおそらく自覚しているはずだ。だから最近になり、彼が明星宮へたびたび足を運ぶようになったとは聞いている。幾分か殺伐した空気が流れだしたのは致し方なく、比較的平和な明星宮も変わっていくのだろう。しかしそれが後宮だ。
年は十六になる凜風は、第一皇子の即妃である曹珠倫に仕える女官だ。珠倫が十三で明星宮に輿入れしたときから仕え続け、もう四年になる。その忠誠心は他の女官にはないもので、凜風が珠倫を慕い従い続けるのは、付き合いの長さだけではなかった。
元々凜風は女官ではなく、孤児として生きていた。そして十二歳になった頃、住み込みで働いていた家の者から体を売るように強要され逃げ出したのだ。
けれど行く宛などあるはずもなく、途方に暮れるしかない。そのとき明星宮に輿入れ途中の珠倫が、馬車を止め道端で呆然としている凜風に声をかけて来たのだ。
『あなた、そんなところでひとりどうしたの?』
珠倫の言葉に、凜風は正直に自分の事情を話した。すると、珠倫は自分の侍女として一緒に明星宮に行かないかと提案してきたのだ。
あまりにも突然の出来事に凜風は話がなかなか飲み込めなかったが、珠倫の提案に頷き彼女の世話係として明星宮に共にやってきた。
そこからは立派な女官になるべく精進してきた。最初は位のない官女から始まり、努力の甲斐あって今では珠倫の女官を務めている。珠倫には返し尽せないほどの恩があり、凜風は自分の命も彼女のためには惜しくないと本気で思っている。
珠倫は明星宮に輿入れした際の選定式で、その教養の高さと外貌の麗しさ、さらに娄家の遠縁にあたる曹家の出ということで最初から側室では上位四番目となる『嬪』の立場にある。
こうやって女官をつけながらも小さな個殿を与えられているのもそのためだ。
(さすがは珠倫さま。見た目も中身も完璧で、人としても素晴らしい女性だもの。絶対にゆくゆくは即妃ではなく正妃になる方だわ!)
おそらく自分のような人間とは口も利きたくないという者も多いだろう。家柄や地位だけで蔑まれ生きてきた。しかし珠倫はいまだに凜風を実の妹のように接している。
「で、春蘭さまはどうしてこちらへ?」
珠倫への思い出にうっとりしつつ、水を差されたと言わんばかりに凜風は春蘭に尋ねる。
春蘭は、珠倫とは親戚で幼い頃から共に過ごし、珠倫が凜風に声をかけた際も春蘭は最後まで凜風を共に明星宮に連れて行くのを反対した人物だ。
そういう経緯もあって、どうしても彼女に対する苦手意識は拭えない。
しかし答えたのは春蘭ではなく珠倫だった。
「私が呼んだのよ」
「え?」
凜風が珠倫を見ると、先ほどとは打って変わって神妙な面持ちになっている。どうしたのかと春蘭に視線を遣ったが、彼女も黙りこくって、その表情はなんともいえない複雑そうなものだった。
「凜風に話しておきたいことがあるの」
珠倫の言葉に目を見張る。一体どうしたというのか。ひとつだけわかるのは、ふたりの表情から、今から聞かされる内容はあまり喜ばしいものではないということだ。
締め切った部屋の中、上座に座る珠倫を前に凜風と春蘭は並んで座る。ややあって珠倫の口が動いた。
「実は、春蘭があと三月で女官を辞めて明星宮を去る予定なの」
「え!?」
思わず叫んで隣にいる春蘭を見ると、彼女は凜風の方を見ずにただ前だけを見据えている。
「……理由を尋ねてもよろしいですか?」
おずおずと前を向き、春蘭ではなく珠倫に尋ねた。
「体調が優れないみたいで、このままここで女官をするのは難しいという話なの」
「そんな……」
春蘭とは長い付き合いになるが、そんな状況だったとはまったく知らなかった。
「本当は珠倫さまが、正妃になるまでを見届けたかったのですが……」
そう静かに呟く春蘭はどこか悔しそうで、歯がゆそうに感じる。
お世辞にも春蘭との仲がいいとは言えない。けれど同じ珠倫に仕える者同士として何年もやってきた。凜風が女官として今、やれているのも春蘭が様々なしきたりや技術を教えてきてくれたからだ。
なにも言えずにいると、珠倫がわざと明るい声で続ける。
「だからね、もしも春蘭に聞いておきたいことや教えてもらいたいことがあったら遠慮なく言ってほしいの。春蘭も凜風にいろいろ託したいこともあるみたいだから」
「わかり、ました」
小さく頷き、頭を下げる。凜風の胸の中には言い知れぬ不安が広がり、今になって隣にいた春蘭の存在の大きさを思い知っていた。
「春蘭」
珠倫の部屋を後にし、ふたりで外に出たタイミングで凜風は呼びかけた。長かった冬が終わり、生の息吹があちこちに感じられる春はもうすぐ目の前までやってきている。柔らかな風を感じながら凜風は頭を下げた。
「今までごめんなさい。体調が悪かったなどなにも知らず……」
自分の仕事はしているつもりだが、ついいつも反抗的な態度をとってしまっていた。先ほどもそうだ。
「気を使わなくてかまいません。それより、新しい女官を入れるとはいえ、あなたに私の後を託すのはいささか不安です」
「私、今以上に頑張ります! 今更かもしれませんが、春蘭の持っている技術や知識をもっと教えてください」
ため息をついた春蘭に、凜風はすぐさま詰め寄る勢いで返した。真っすぐな凜風の行動に春蘭は目を見張る。そこで凜風は彼女からわずかに離れ、冷静になって視線を落とした。
「もちろん、体調と相談しながらで……」
「わかりました」
低く凛とした声が耳に届き、顔を上げると春蘭と目が合った。
「あなたが素直で努力家なところは知っています。そして珠倫さまをこのうえなく大事にしていることも。どうか私のあとをよろしくお願いします」
「はい!」
勢いよく凜風が答えると。春蘭がかすかに笑みを浮かべた気がした。彼女のそんな表情を見るのは初めてかもしれない。
それから凜風はいつも以上に春蘭について回った。自分の仕える主の身の回りの世話はもちろん、女官は六局のいずれかに所属し、そこでの仕事も担っている。
ふたりは尚食局に所属しており、ここは食料を調達して献立を考え調理や毒味を請け負う。他には医薬品の管理なども担当しており、孤児として働きに出た家で家事を一手に引き受けていた凜風には、特技を活かせる場だった。
春蘭は主に医薬品の管理の方に精を出していた。国内外問わず良いとされる薬が集まり、それらの調合や治療の方法などを研究して手記にしたためる。
「珠倫さまの痣に効く薬の情報がもっと増えればよいのですが」
春蘭がここを希望したのは、珠倫のためであった。一見するとわからないのだが、珠倫には首下から左肩にかけて青紫色の痣があるのだ。
凜風が毎朝、痣に効くとされる薬草を擦って染みこませた布を患部に当てるなどを繰り返しているが、痣は一向に消えなければ薄くもならない。
「へー。ここでいつも薬草を詰んでいらしたんですね」
明星宮の裏の薬草園にやって来て、春蘭からどの植物がどのような症状に効くのかを聞いていく。珠倫に塗布したりするのは凜風がやっていたが、こうして薬草を収集するのは春蘭が主に行っていた。役割分担と言えばそれまでだが、なにかと凜風に上官としての自覚や仕事をさせようとしていた春蘭にしては、今までここに凜風を来させなかったのが不思議だ。
その旨を春蘭にさりげなく尋ねる。
「誤って違う薬草を取って来られても困りますからね」
あっけらかんとした回答に思わず物申したくなったが、ぐっと堪えた。完全には否定できないからだ。
けれど、これからは凜風が珠倫のために薬草をとらなければならない。思考を切り換え、植物の特徴や生息している場所、効果などを改めて春蘭に尋ね頭に叩き込んでいく。
真剣な眼差しで春蘭の手元を見ていると、彼女の手が止まり、不思議に思って視線を上げたらどこか物悲しげな表情が目に映った。
「それに……たまにはひとりになりたいときがあるんです」
「春蘭……」
珠倫に仕える身として、この後宮では心休まるときなどない。常に誰かの目があり、役割が与えられ、けっして自由などはないのだ。
有能で女官としては申し分のない彼女の弱音を、凜風は初めて聞いた。
「いつも誰かに囲まれているのが普通の凜風にはわからないかもしれませんが」
そこで、いつものなにかを含んだような言い方に凜風は眉をしかめる。
「それ、褒めているつもりですか?」
「一応」
涼しげに返され、春蘭とはやはりあまり気が合わないと再確認する。そこで凜風の頭になにかが当たった。
「雨です。ここは引き上げましょう」
春蘭の言葉で、雨が降ってきたのだと気づく。次の瞬間、地面を叩きつけるような大粒の雨が空から降ってきた。言葉さえ交わす余裕はない。ふたりは慌てて建物の中に入った。
凜風は春蘭と別れて自室に向かう。凜風は他の女官たち複数人との共同部屋を使用していた。
「あら、凜風。雨にやられたの?」
すぐさま他の女官に声をかけられ、凜風は苦笑した。
「うん。突然降ってくるんだもの。びっくりしちゃった」
「ほら、これで拭きなさい」
仕える相手は違えども女官同士境遇が似ている部分があり、ここでの共同生活を凜風はなかなか気に入っている。真っ新の布を受け取って髪を拭いながら、凜風はふと思い立った。
「これ借りていくね」
向かうは春蘭のところだ。彼女は他の女官たちとは別に、主である珠倫のそばに部屋をかまえている。賓という珠倫の立場もあるが、女官としても特別の待遇だ。
けれど羨む気持ちはない。それほど春蘭は優秀だった。
(いつも珠倫さまのすぐそばにいられるのは、すっごく羨ましいんだけれどね)
実は彼女の自室を訪れるのは初めてだ。今までそれほどの仲でもなかったし、春蘭は凜風にどこか距離を置いているようだったから、凜風も無理に近づく真似はしなかった。
しかし、彼女との付き合いも限りあると聞かされ、さらには体調が悪いのに雨に打たれたとなると、放ってはおけない。
「春蘭!」
声をかけることもせず、凜風は勢いよく春蘭の部屋の扉を開けた。続けて目に飛び込んできた光景に凜風の思考は停止する。
「え……」
そこには赤い長袖の漢服を脱いで上半身を晒して体を拭こうとしている春蘭の姿があった。それ自体はなんらおかしいことではない。すぐさま退散するのがどう考えても礼儀だと思うのだが、凜風はその場に硬直してしまった。
なぜなら春蘭の晒された上半身には、筋肉はしっかりついているが女性特有の丸みは一切ない。浮き出た鎖骨に広い肩幅は、服の上からでは想像できないほどにしっかりしている。
「えーっと」
混乱しながら首を傾げつい声が漏れた。次の瞬間、すごい形相で近づいてきた春蘭に口を塞がれる。
「騒がない、大声を出さないと約束しろ」
気迫あふれる声と表情に凜風はこくりと頷いた。凜風の口を覆っている春蘭の手のひらは思ったよりも大きく骨張っている。
そっと春蘭の手が離れ、凜風は大きく息を吐いた。対する春蘭の顔は深刻そのものだ。さっと再び服を着る春蘭の背中に凜風が思いきって声をかける。
「あの、大丈夫です。私もたいして胸はありませんが、女性の魅力はそれだけじゃありませんから」
「……凜風はやはり馬鹿なのですか?」
春蘭は軽くため息をついて答えた、普段通りの春蘭の口調に、凜風はムッとしつつ平静を装う。
「だって、他にどう受け取ればいいんですか? 春蘭は体が男性で心は乙女だって解釈でいいです?」
春蘭はなにも返さず、肩をすくめた。殺気立っていた雰囲気が消え、そんな春蘭の様子に凜風は口を尖らせる。
軽口を叩きながらも凜風の頭は混乱していた。ずっと女性だと思っていた相手の生別が異なっていたのだ。あらゆる可能性を考えて納得させようとするが、そんなすぐに受け止められない。
「事情を聞かせてもらえます?」
おずおずと尋ねると春蘭は「ああ」と小さく返した。その声はいつもと変わらないはずなのに、やや低く感じる。
「私の家族は昔、何者かに命を狙われ殺されたんです」
「え?」
「幼かった私は母に庇われるようにして抱かれていて、なんとか命は助かったのですが、その事実を公にするわけにはいかなかった」
発見者となった曹家の使いの者が春蘭を保護し、珠倫の父と話し合った結果、襲われたのは物盗りではなく怨恨によるものと判断して、春蘭が生きているのを隠すべく、女児として珠倫と一緒に育てることにしたらしい。
春蘭は曹家に恩を感じ、珠倫や珠倫の両親に仕えた。
「珠倫さまの明星宮への輿入れが決まったとき、珠倫さまに一緒に来てほしいと言われたんです。今まで女のふりをしてきたのもあって抵抗はなかったですし、身を隠す意味でもちょうどいいと承諾したんですが、それもそろそろ潮時かと」
「じゃあ、女官を辞め、明星宮を去るというのは……」
凜風の言葉に春蘭は頷く。
「ええ。珠倫さまとも話したんですが、これ以上女性のふりをしてここにいるのは限界だと感じて」
出会ったときから女性だと思って接していたので、疑ったこともないが、今凜風の前で話す春蘭の体つきはもちろん声も表情も男性そのものだ。
そう意識すると、なにやら言い知れない羞恥心が芽生える。しかしそこで凜風の考えは別の角度へ移った。
「ということは、春蘭は体調が悪いわけではないんですね?」
凜風の問いかけに、春蘭は虚を衝かれた顔になった。
「あ、ああ」
「それはよかったです! これでも心配していたんですよ?」
ここにやって来たのも、雨に打たれて体調を悪化させていないかと思ったからだ。春蘭がここを去る本当の理由がわかり、安堵する。
「ずっと騙していたんですよ?」
「べつに私は気にしていません。珠倫さまが納得されていたのなら……」
そこで凜風は言葉を止めた。不思議に思い凜風をうかがう春蘭に、今度は凜風が鬼の形相で詰め寄る。
「まさかとは思いますが、珠倫さまになにか邪なことをなさってないでしょうね?」
正体を隠すためだろうが、春蘭は個室で珠倫のすぐそばにいつも控えていた。警護役も兼ねているからだと任せていたが、異性なら話は違ってくる。
「断じてありません。あの方は命の恩人の娘さんなんです。今も昔もそんな気持ち抱いたことは一切ありません」
珍しく春蘭の声には必死さが込められている。しかし凜風は瞬きひとつせず目を爛々とさせし春蘭に顔を近づけた。
「本当ですね? 白虎神や帝様に誓って言えますね?」
「ああ」
春蘭の返答に、凜風は渋々離れた。
「わかりました。信じましょう」
「凜風は本当に珠倫さまを慕っているんですね」
凜風の反応に、春蘭はしみじみと呟いた。
「当然です。私にとってもあの方は命の恩人ですから。だから心配せずともあなたの事情を他言したりはしません」
もしも春蘭が男性だと知られたら、本人はもちろん事情を知っていて後宮に連れてきた珠倫だってただでは済まない。それだけは絶対に防がねば。
「今まで悪かった。男だと知られるわけにはいかないから、凜風ともずっと距離を置くようにしていたんです」
申し訳なさそうに告げる春蘭を責める気にはなれない。元々馬が合わないと思っていたし、凜風はそこまで彼の態度を気にしていなかった。
一方で正体を知られてはいけないと彼の緊張はどれほどのものだったのか。それもあと少しで終わるのだ。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんですか?」
凜風は改めて春蘭と目を合わせる。
「あなたの本当の名前はなんて言うんですか?」
これは聞いてもいいものか。踏み込みすぎではないだろうか。そんな思いを抱きながらもつい尋ねてしまった。凜風の心配をよそに、春蘭は目を瞬かせたが躊躇う素振りは見せない。
「春嵐だ。もうずっと名乗っても呼ばれてもいないが」
「春嵐……。いい名前ですね」
わずかに異なる音に、自然と感想が漏れる。珠倫と同じく、出会ってもう四年になるが初めて春蘭と向き合えた気がした。
春嵐はふっと微笑んで凜風に手を差し出した。迷いつつ、その手に凜風はそっと自分の手を重ねる。
思ったよりもしっかり握られ、その手の感触に凜風の心臓は柄にもなく早鐘を打っていた。
「え、別物なんですか?」
「はい。全然違います。」
春蘭の深いため息を目の前に、凜風はすっと目線を逸らす。
穏やかな天気が続く昼下がり、春蘭と凜風は春蘭の部屋で顔を突き合わせていた。青々とした葉っぱが大量に入った器から春蘭は一つひとつ手に取り確認していく。
「ほら。葉脈の形状がまったく異なるでしょう」
「そんな細かいところまで見ていられませんよ」
二枚の葉を突きつけられ、凜風は苦々しく答えた。
腫れ物に効くとされる薬草を指定され集めてきたのだが、どうやら違うものも混ざっていたらしい。
「似ていても処方する薬草を少しでも間違えたら、大惨事が怒りますよ」
「……気をつけます」
言い訳せずに非を認め、凜風は頭を下げた、春蘭の言い分はもっともだ。ましてや主である珠倫のためなのだから、些細なミスも許されない。
春蘭の去ったあと、自分ひとりで珠倫を支えていけるのかと今更ながら不安になる。そのとき不意に頭に温もりを感じた。
「凜風のそういう素直なところはとてもいいと思います。伸びる人間に一番必要なのは謙虚と素直さですから」
思ったよりも優しい表情に、凜風は反射的に手を払いのける。
「な、なんで急に触ったりするんですか!?」
驚きで早口で捲し立ててしまい、すぐに後悔する。
「それは失礼しました」
しかし春蘭は手を引っ込め平然と返してきた。言い知れない空気に妙な沈黙が下りる。
嫌な気持ちがあったわけではない。けれど、あっさり受け入れることもできなかった。
なにか切り出そうとした瞬間、集めていた葉の束がかすかに動いた。そちらに注目していたら、隙間からなにかが覗く。
「きゃあ!」
気づけば凜風は叫び声を上げ、目の前の春蘭にしがみついていた。葉の入っていた器がひっくり返り中身が散る。
「凜風?」
怪訝そうに尋ねられ、凜風は白状する。
「わ、私、蜘蛛が苦手なんです!」
葉の間から出てきたのは、小さな黒い蜘蛛だった。毒もなければそこまで奇抜な姿でもない。
なにがきっかけだったのかは思い出せないが、物心がついた頃から凜風は苦手だった。嫌いというよりは恐怖の方に近い。克服しようにも、どうにもならなかった。
頭上からため息が聞こえ、凜風は肩を震わせる。これくらいで、と言われるのを覚悟していると、春蘭はさっと凜風から離れ、蜘蛛のついた葉を取り窓の方へ歩いていった。
さっと窓の外へ払うと、凜風の方へ戻ってくる。
「大丈夫ですよ。もういません」
散らばった葉を片づけながら告げられ、凜風も慌てて手伝う。
「……怒らないんですか?」
「苦手なものは誰にでもある」
おそるおそる尋ねたら、端的な返事があった。それが意外で、凜風はなんとなく聞いてみる。
「春蘭の苦手なものってなんですか?」
「さぁ?」
しかしあっけらかんとした返事があり、緊張していた気持ちが緩む。
一通り器に葉を戻し、凜風は春蘭を仰ぎ見た。
「あと少しですけど……私の前では春嵐でかまいませんよ。取り繕わなくてかまいません」
春蘭の口調が気づけば春嵐のものになっていた。苦手なものがあるのを受け入れてもらったお礼をとまではいかなくても、少しでもなにか返したいと自然と思えたのだ。
真剣な面持ちの凜風に春蘭は微笑む。
「気遣い感謝するよ」
別れるのが決まってから、春蘭との距離がこんなふうに縮まるとは思わなかった。
『蜘蛛くらいたいしたことないだろ』
蜘蛛を異様に怖がる凜風を見て、雇い主は鬱陶しそうに吐き捨てる。それどころか、怖がる凜風を面白がってわざと凜風に蜘蛛を近づけてきた。
『克服できるように協力してやろう』
『やめて!』
そこで目が覚め、凜風は上半身を起こす。肩を上下させ息を吐き、自身をぎゅっと抱きしめた。激しく打ちつける心臓を落ち着かせようとしばらく目を瞑る。
昔の夢、久しぶりに見たな。
ここは明星宮の女官部屋だ。周りを見ると薄明かりの中、他の女官たちは静かに寝息を立てている。凜風は額にかいた汗を拭い、すっと立ち上がった。
少し気持ちを落ち着かせよう。
音を立てないよう部屋の外に出ると、夜空にまん丸い月が煌々と輝いていた。低い位置にあるせいかいつもより大きく見え、存在を主張している。目を奪われる美しさは、逆に妙な胸騒を起こさせた。
「凜風」
(え?)
ぼんやりと月を眺めていると、不意に名前を呼ばれた、気がした。けれど空耳をすぐに疑う。こんな時間だ。辺りを見渡すが、人はおろか動物の気配だってない。
しかし、声はやけにはっきりと聞こえた。
「凜風」
「珠倫さま!?」
再度名前を呼ばれ、確信する。声の主は間違いなく珠倫だ。しかし彼女の姿はどこにもない。
どういうことなの?
珠倫のそばには、春蘭がいるはずだ。万が一など起こるはずない。言い聞かせながら凜風は寝間着姿のまま珠倫の元に向かう。
彼女の自室であり寝所は、凜風の女官部屋からそう距離はない。月明かりに照らされ、進む先に不安はなかった。
そのとき凜風の目には信じられない光景が飛び込んできた。
明星宮の中にある水路にかかる啓明橋。その真ん中に珠倫が立っていたのだ。月を背に佇む彼女は、凜風と違い襦裙をきっちりと着ているがなんとなくいつもと様子が異なっていた。
「珠倫さま!」
時間も場所も慮らず凜風は叫んだ。すると珠倫の視線がゆっくりと凜風に向いた。
「凜風」
鈴の音が鳴るようなか細い声。なにか思いつめたような珠倫の表情に、凜風は彼女の元へ駆け出す。
『目が覚めたから、ちょっと散歩に出かけたの』
笑顔でそんなふうに答えてくれるとどこかで期待していた。しかし珠倫が凜風を見たのは一瞬で、すぐに彼女の意識は水面へ向く。
一刻も早く、彼女の元へ行かないと。本能がそう告げていた。橋までたどり着き、走るたびに木でできた床版が音を立て軋む。
あともう少しで珠倫に届きそうだ。すると珠倫が妖しく笑い、身を乗り出して水面に手を伸ばした。腰を曲げ覗き込むような体勢はあまりにも危うい。彼女の長い髪が重力に従いはらりと落ちる。
「見て。月を捕まえられそうよ」
「珠倫さま!」
そのまま吸い込まれるようにして珠倫が下に重心を傾けた。珠倫の肩を掴みとっさに引き上げようとしたが、凜風の体格では支えられず彼女もバランスを崩す。
水面にたたきつけられた痛みに顔をしかめたのは一瞬で、水の冷たさと重たさに引きずられ体が思うように動かせない。それでも必死に凜風は珠倫をかばうように抱きしめた。
誰か、春嵐――。
重い瞼をゆっくり開けたとき、眩しさでとっさに目をつむった。しかし、すぐに我に返って力強く目を見開く。
「目が、目を開けられました!」
「報告を!」
ばたばたとすぐ近くに人の気配があり、続けて凜風の視界には見知った人物が映った。
「春蘭!」
心配そうに顔を覗かせた相手の名を反射的に呼び、凜風は上半身を起こした。そして次の瞬間、どういうわけか春蘭に力強く抱きしめられる。
「よく……よくご無事で。丸二日目を覚まさないでいたので、どうなることかと……。私がついていながら申し訳ありません。本当によかった」
安堵した声が耳元で聞こえ、突然の抱擁に頭が回らない。しかし今はそれどころではないと、凜風は春蘭を突き飛ばすようにして距離を取った。
「私なんてどうでもいいの! 珠倫さまは!? 珠倫さまは無事なの?」
切羽詰まった凜風の問いかけに、春蘭は虚を衝かれた顔になる。けれど春蘭はすぐに優しく微笑んだ。
「ああ。ご心配には及びません。凜風も無事です。一足先に目が覚めてあなたの心配をしていましたよ」
目覚めたばかりだからなのか、春蘭の発言内容が凜風には理解できない。
(誰が、誰の心配をしているの?)
「えっと、無事なのは珠倫さま?」
改めて問いかけると、春蘭は心配そうな表情で凜風に視線を合わせてきた。
「なにか混乱されていますね。もちろんあなたは無事ですよ。これからどんな後遺症が出るかわかりませんから、慎重に過ごしてまいりましょう」
「待って。春蘭がなにを言っているのかわからない」
やはり話の内容がどうしても噛みあわず、凜風は正直に告げた。頭も体も重く思考力も落ちているが、珠倫が無事なのはひとまずわかった。とはいえこれはどういう状況なのか。
「ひとまずお部屋に戻りましょうか、珠倫さま」
混乱する凜風をよそに春蘭が穏やかに告げた。そこで凜風は自分の手を見て驚く。傷ひとつない滑らかな手、掴んだ一房の自分の髪は馴染みのある鳶色、ではなく艶のある黒髪だ。
(もしかするとこの体……私じゃなくて珠倫さま!?)
「違う、違うの。春蘭。私は凜風なの!」
状況が飲み込めないまま凜風は叫んだ。ところが春蘭は真に受けず、労いの眼差しを向けてくる。
「落ち着いてください。彼女は大丈夫です。凜風も頭を打ったみたいで少し様子がおかしかったんですが……とにかく今は休みましょう」
そっと背中を支えられながら告げられ凜風は目眩を起こしそうになる。
(どうすればいいの?)
「春蘭」
そこで別の人物の声が聞こえ、凜風と春蘭の意識がそちらに向いた。
「凜風、大丈夫なのですか?」
(わ、私!?)
現れたのは、凜風だった。自分が自分を見ている。なんとも奇妙な感覚だ。
「顔を見たくて……」
おずおずと答えた凜風の声は、凜風が自分で認識しているよりもやや高く感じる。春蘭の視線がこちらに向いた。
「ああ。ご覧の通り、珠倫さまは無事ですよ? すみません、凜風。私はこの後のことを報告してきますので、少し珠倫さまをお任せしてかまいませんか?」
「ええ」
そっと立ち上がり春蘭は部屋を出ようとする。
「あなたも本調子ではないんですから、無理はなさらないように。では珠倫さま、失礼します」
春蘭が出て行き、凜風はおそるおそる自分に尋ねる。
「珠倫さま、ですか?」
「凜風?」
そう呼ばれたことで凜風は確信し、珠倫の、正確には自分の体の元へ近づき膝を折った。
「やっぱり珠倫さまなんですね? ご無事でよかったです! って、どうしてこんなことに……」
珠倫の無事を喜ぶ一方で、問題はまだ山積みだ。つまり凜風と珠倫の体が入れ替わってしまったという結論は間違いなさそうだが、原因もどうすれば元に戻るのかもがまったくわからない。
「ごめんなさい」
「珠倫さま?」
神妙な面持ちで謝る珠倫に、凜風は尋ねた。
「あのとき、春蘭にこっそり睡眠薬を盛ってひとりで部屋を抜け出したの。……身投げするつもりで」
「身、身投げ!?」
橋の上で見かけた珠倫の雰囲気から、尋常ではない状態だと直感したが本人から『身投げ』と聞かされると、やはり衝撃は大きい。
「な、なぜそのような真似を?」
詰め寄る凜風に珠倫はそっと目線を落とした。
「実は……泰然さまから夜伽に召されて」
「え?」
凜風は初めて聞いたが、おそらく春蘭経由でその話が伝えられたのだろう。女官としては主が第一皇子の相手に選ばれたなど嬉しくて誇らしい事態だ。入念に閨の準備を進めるのが通常だろう。
しかし自分の顔なのに、珠倫の表情はどこまでも痛々しかった。
「馬鹿よね、ここでは名誉以外のなにものでもないのに……」
身投げするほど思いつめていたとは、思いもしなかった。とはいえ身投げまでしなくても明星宮を出ることは可能なはずだ。しかしその考えをすぐに改める。珠倫の父が、曹家が許すはずがないだろう。
「嬪なんて地位いらないわ。生まれ変わりたい、別人になりたいと思って欄干に手をかけたら、凜風が現れて……。原因はわからないけれど私のせいよね。本当にごめんなさい」
「謝らないでください! 私の方こそおそばにいたのに、珠倫さまのお気持ちをまったく理解していなくて……女官失格です」
珠倫ならきっと泰然に見初められ、嬪どころかもっと上の地位へ、それこそ正妃にだってなれるだろうと信じて疑わなかった。一方で、珠倫の口からそんな希望を聞いたことなど一度もない。
凜風は気を取り直し、明るく告げる。
「とにかく泰然さまからの夜伽は、今回の件でしばらくないでしょう。その間に元に戻れる方法と珠倫さまがどうすればよいのかを一緒に考えます!」
凜風の提案に、珠倫は泣きそうになりながら微笑む。
「凜風、ありがとう」
その言葉だけで凜風の胸は満たされる。続けて凜風は春蘭について触れた。
「ひとまず、春蘭にはこの件をお伝えしましょうか。事情を理解していてもらった方が」
「それはだめよ」
「え?」
春蘭には入れ替わりの事実をきちんと伝え、理解者になってもらおうという凜風の考えは力強く否定される。驚きで珠倫を見ると、彼女は気まずそうな面持ちになった。
「あっ……。春蘭はもうすぐ明星宮を去るのに、この問題に巻き込んでしまったら」
告げてきた珠倫の言い分に納得する。たしかに性別を偽るだけでも彼の苦労は計り知れない。ここで珠倫との入れ替わりを伝えたら、さらに頭を悩ませ下手すれば明星宮を去るのを延ばすと言い出しかねない。それは彼の負担と性別が露見する危険性が増すだけだ。
「そうですよね。珠倫さまがかまわないなら黙っておきましょうか。それに私が珠倫さまではなく凜風だと伝えても全然、信じてくれませんでしたし」
〝珠倫〟が目覚めたことで、その事実を前に春蘭もまともに取り合ってくれなかった。でも真面目な顔で告げたとしても、今の状況なら彼はすべて聞き流す可能性もある。
こうなっては仕方がない。覚悟を決めるだけだ。
「いいですか、珠倫さま。どうか無理なさらないでください。女官の仕事も体調が悪いと言って休んでくださいね。私からも春蘭に伝えますので」
珠倫の体調はもちろんだが、主である彼女に女官仕事などさせられない。凜風の体になっている珠倫はこれでしばらくはなんとかなるだろう、問題は……。
「私が珠倫さまの代わりなんてできるでしょうか」
そばでいて彼女の仕草や日課などは理解しているが、それと自分がするのとは話が別だ。
「凜風ならきっと大丈夫よ」
自分に励まされるのはなんとも不思議な気分だ。とにかく戻る方法を探りながら、このままやっていくしかない。すべては珠倫さまのため、と凜風は自分に言い聞かせた。
「珠倫さま、私はすぐそばに控えておりますのでなにかありましたらいつでもおっしゃってくださいね」
「あ、ありがとう」
いつも珠倫が過ごしている自室に春蘭に連れられてやってきたが、どうも落ち着かない。自分が使用するのも、春蘭の過保護な態度にもだ。
凜風の体になっている珠倫は、凜風の助言もあり、いつもの女官部屋ではなく個室を与えて養生させている。しかし珠倫となっている凜風はひとりで過ごさせてもらえるわけがなかった。
「それにしても、もうあんな無茶はなさらないでください。腕輪を取ろうとしたなんて。そんなものいくらでも代わりを用意しますから」
寝所で横になろうとした凜風に春蘭は腰を落としてしっかり目線を合わせ訴えかけてくる。珠倫と話し、寝付けずに散歩に出かけ啓明橋の上で月見をしていたら、お気に入りの腕輪を落とし、それが水路へと転がっていたのを追いかけ、バランスを崩したと説明することにした。
「凜風がいなかったら、どうなっていたか……。寿命が縮まりました」
本当に心配したという面持ちに珠倫本人ではなくても罪悪感を覚える。
「ごめんなさい」
「謝らないでください。あなたは無事だった。それがすべてです」
謝罪する凜風に春蘭は言い切る。あまりにも迷いのない口調に凜風は顔を綻ばせた。
「春蘭は優しいんですね」
「そんなことありませんよ。あなたは特別です。あなたのためならこの命も惜しくない。全力でお守りしますから」
真剣な表情で告げられ、凜風の心臓が跳ね上がる。脈拍が上昇し、つい春蘭から目を背けてしまった。
珠倫になってから、彼の意外な一面ばかりを見ている。同じ珠倫に仕える身ではあったが、彼がこれほどまでに珠倫を大事にしているとは思いもしなかった。
あきらかに凜風に対する態度とは異なる。これは珠倫だからだ。自身に言い聞かせながら、今度はどういうわけか胸がずきりと痛む。
(なんで、なんでこんな気持ちになるの?)
「それもあと少しですが……。そういえば泰然さまからの夜伽の件は、事情をお伝えしたらお見舞いの品を贈ってくださるそうです」
そこで泰然の名前が出て、凜風はふと我に返る。春蘭は優しく微笑んだ。
「あなたならきっと泰然さまのお眼鏡に適います。なにも心配する必要はありません」
「……はい」
安心させるように告げられ、凜風は頷く。早く元に戻る方法を見つけなければと思いながら。
翌朝、凜風は緑の液体が入った小皿とさっきからずっとにらめっこをしていた。けれどいつまでもこうしてはいられない。
「ほら、飲んでください」
春蘭が今か今かと見張るようにこちらをじっと見てくる。その眼差しの威圧感はなかなかのものだ。
「どうしても、飲まないとだめよね?」
「もちろんです。ただでさえ目が覚めない間は飲みそびれていましたから」
間髪を入れない返答に凜風は肩を落とした。これは珠倫の体調を整えるため、毎日飲んでいる薬だ。薬草を煎じて葛湯と混ぜたものだが、どう見ても食指が動かない。
とはいえ珠倫の体のためだ。凜風は意を決し、器の端に口をつけ、中身を飲み干した。
(にっがーーーーーーーーい)
反射的に戻しそうになるのを必死に抑えた。珠倫は普段、涼しげな顔をして飲んでいたが、こんなものを毎日飲まないとならないなんて凜風には耐えられない。
「珠倫さま? どこか気分が?」
背中を丸める凜風に春蘭が近づく。
「も、もう少し……甘くならないかしら?」
涙目で訴えてみたが、逆に春蘭には不思議そうな顔をされた。
「珠倫さまはあまり甘いものがお好きではないでしょう。それにしても頭を打った影響が味覚にも出ているなんて」
「春蘭、少しいいかしら?」
そこで顔を覗かせたのは、凜風として女官の格好をした珠倫だった。
「凜風、体は大丈夫ですか?」
同じ質問をしようとしたが先に春蘭が尋ねる。珠倫は困惑気味に微笑んだ。
「少しずつ女官の仕事に慣れていきたいの。ごめんなさい、記憶があやふやだから迷惑を書けるかもしれないけれど……教えてくれる?」
珠倫はそっと春蘭の袖を掴み、上目遣いで彼を見る。やけに上品で弱々しい声色に、それを見ていた凜風の背中に寒気が走った。
(わ、私、そんな言い方や振る舞いはしないんだけれど……中身は珠倫さまとはいえ、なんなのこれは)
気恥ずかしくて直視できない。春蘭はそっと珠倫の肩を叩いて彼女を落ち着かせた。
「わかりました。でも無理はしないでくださいね」
「うん」
目を泳がせながらふたりのやりとりを見て、凜風は内心でため息をつく。なんとも複雑だが、しばらくはしょうがない。
「では、その前に珠倫さまへ薬の塗布をお願いします」
「……ええ」
そこで我に返る。珠倫の痣に薬を塗るのは凜風の役目だった。そのときいつもさりげなく春蘭は席を外していたが、彼の性別を考えると当然だろう。湯浴みの付き添いなどもすべて自分が行っていたと思い返す。
春蘭が部屋を出たので、凜風は首元まで覆っている長袖の漢服の釦をはずしていく。
「珠倫さま、大丈夫ですか? なにか不便は?」
「大丈夫よ。凜風こそ平気?」
話しているのも、声もすべて凜風なのに、その中に珠倫を見る。
「私は大丈夫です。それにしても日課の薬湯、こんなに苦かったんですね」
つい舌を出す凜風に珠倫は笑った。
「私も慣れるまではつらかったわ。でもそのうち大丈夫になるはずよ」
「それまでには元に戻りたいですね」
なにげなく凜風が呟いたが、それに返事はなかった。珠倫は慣れた手つきで痣に塗る薬の準備をしている。
「あ、薬を塗るのは自分でしますよ!」
「いいわ。自分の体だもの、やらせて」
なんとも言えない気まずさを感じつつ凜風は肩を剥き出しにして肌を晒す。色白の肌とは対照的に青紫色にくすんだ肌は見ていて痛々しい。しかし珠倫の体になってわかったのだが、違和感もなければ痛みもない。
「醜いわね」
珠倫は顔をしかめながら薬を塗っていく。薬草の香りが漂う布が肩に押し当てられ、わずかな冷たさに凜風は眉をひそめた。
「毎日薬を塗ってくれている凜風にこんなことを言うのもなんだけれど、本当はね、無駄だってわかっているの。痣は薄くなるどころか年々濃くなっているし」
「珠倫さま……」
おそらく自分で鏡を見て痣を確認するのと、第三者の視点で痣を見るのとではまた印象も違うのだろう。珠倫の言葉には苛立ちや悲しみ、嫌悪が混じっている。
「きっと泰然さまもこの痣を見たら、私をここから追い出すかもしれないわ」
自嘲的に呟いた珠倫に凜風が口を開く。
「そんなことありません! この痣はすぐに完治は難しいかもしれませんが、いつかきっと良くなりますよ。それに、この痣の有無関係なく珠倫さまは誰よりも素敵な女性です。泰然さまがそんな方なら、見る目のない男性だった、それまでです。こっちから願い下げですよ!」
「まぁ、凜風たら……」
珠倫は辺りを見渡した。誰かの耳に入ったら不敬罪で訴えられるのも厭わない内容だ。けれど、その心配はどうやらなさそうだ。
「すみません、私……」
我に返った凜風が身を縮める。つい熱くなってしまったが、想いは本気だ。
「ありがとう。凜風。じゃぁ、私、春蘭について女官の仕事を学んでくるわ」
「無理だけはならないでくださいね」
体を拭いた布や薬器を持って立ち上がり、珠倫はその場を後にした。凜風は衣服を着て首元までしっかり覆う。
(このあとは、どうしよう……)
まだ本調子ではないのだから、と言われたもののずっと横になっているのも性に合わない。いつもは女官として忙しく仕事に追われ、ここ最近はさらに春蘭についていろいろと積極的に学んでいた。
手持ち無沙汰になってしまい、凜風は行儀悪いのも承知で仰向けに倒れ込んだ。
(珠倫さまが動けない分、私がなんとか元にも戻る方法を探らないと)
そうは思っても、手がかりはおろか、どうすればいいのか皆目見当つかない。
(書庫へ行ってみようかしら?)
「珠倫さま」
「な、なに?」
そこで名前を呼ばれ、凜風は勢いよく体を起こした。扉の向こうから声をかけてきたのは春蘭だ。
「麗花《リーファ》さまより茶会への誘いがきています。どうされますか?」
麗花は珠倫と同じく嬪の地位にある即室だ。茶会を開くのが好きで、珠倫はよく声をかけてもらって参加していた。凜風は付き添ったことはないが、気分転換にはうってつけだろう。
「行くわ! そうお返事して」
明るい声で即答した凜風に、扉の向こうで春蘭が息を呑んだのが伝わってくる。
「よろしいのですか? まだご気分が優れないと言ってお断りすることもできますが……」
「だ、大丈夫よ。せっかくのお誘いですもの。同じ嬪同士、交流を深めておくのも大事でしょう?」
それとなくフォローを入れる。春蘭は了承の意を唱えそのまま下がろうとした。その前に凜風は思い出したように彼の名を呼ぶ。
「春蘭!」
「どうされました?」
足を止めたのが気配でわかる。凜風は扉の方へ向けて早口で捲し立てた。
「り、凜風のことなんだけれど……。私より彼女の方が重症なのに無理していると思うの。どうかしっかり休ませてあげて」
凜風の中身は自分たちの主である珠倫だ。体調云々の前に彼女に女官仕事をさせるわけにはいかない。
「承知しました。大丈夫です、凜風のことは気をつけて見ておきますから」
「うん。お願いね」
春蘭の返答にホッと胸を撫で下ろす。そして部屋で再びひとりになり凜風はため息をついた。
(しょうがないけれど……春蘭との距離が遠く感じる)
そこで頭を振った。今まで春蘭とはそこまで親しくなかった。彼が明星宮を去ることになり、その流れで彼の秘密を知ってわずかに距離が縮んで……。ここ最近の話だ。
不必要に寂しさを感じる必要はない。
麗花の使者である女官が迎えに来て、凜風は胸を弾ませついていく。正直、春の陽気が心地よく、お茶会日和だ。空を見て微笑む凜風を女官は訝しげな目で見つめた。
「麗花さま。珠倫さまをお連れしました」
「ご苦労さま。珠倫さま、お加減いかがかしら? みんな心配していたのよ」
席《シー》麗花。煌びやかな冠帽に豊潤な黒髪は緩く波打ち、化粧もしっかりと施されている。着ている漢服は立派な刺繍が目を引く上等なものだ。
どっしりとかまえている彼女のほかに、あとにふたり同席している。
候《シ》夏雲《アユン》と井《ジン》林杏《リンシン》。彼女たちも賓の位の即妃だ。嬪の位を授かれるのは六人までとされているが、珠倫を含めた四人が、泰然の賓として明星宮で過ごしていた。
「麗花さま、お誘いありがとうございます。ご心配をおかけしましたが大丈夫ですよ」
凜風はにこりと微笑み席に着いた。目の前は粉糖がまぶされている餅と茶器があり、そこへお茶が注がれる。
「それにしても驚いたわ。いくら足元が暗くても啓明橋から落ちるなんて」
麗花が切り出し、なんとか取り繕うと視線を彼女に移すと、麗花の口角がニヤリと上がった。
「泰然さまから夜伽に召される前に、てっきりその体にある醜い痣を見られまいと身投げを考えたのかと」
目はまったく笑っておらず、声も冷たい。予想外の麗花の反応に凜風は硬直してしまう。麗花の言葉に彼女の横に座っていた夏雲が袖で口元を抑えながら笑った。
「本当。私なら泰然さまに醜い姿を晒すなんて耐えられませんわ。どんなに暑くても漢服で首元まで覆わないとならないなんて可哀想ですよね」
麗花と夏雲が顔を見合わせ小馬鹿にした笑みを浮かべ合っている。林杏はなにも言わず、その表情から考えも感情も読めない。しかし、今はどうでもいい。
初めて参加する凜風でもわかる。彼女たちから珠倫に向けられる感情に好意などない。
押し黙る凜風に夏雲が声をかけてくる。
「どうしました? 本当のことでしょう?」
「そうそう。事実ですもの。ほら、お茶とお菓子を召し上がって。珠倫さまのためにとびっきり甘い菓子を用意したんですよ」
麗花は挑発的な目で凜風を見てきた。珠倫はあまり甘いものが好きではない。それもわかってのことなのだ。
「それとも孤児だったという哀れな女官に持ち帰りますか? 珠倫さまはお優しいから。欲しいのならもっと用意させますよ」
彼女の発言に夏雲が声をあげてあざけ笑う。そばに控えていた女官たちも同調し、凜風は心の中がすっと冷めていくのを感じた。
「麗花さま」
極力柔らかく麗花の名前を呼び、彼女に笑顔を向けた。
「お気遣い感謝します。そうですね、麗花さまは少し甘いものを控えないと。お気に入りの漢服が入らずに仕立て直す羽目になりますものね」
「なっ!」
凜風の指摘に麗花の顔が真っ赤になり、驚きで声に詰まる。そばにいた女官たちも目配せし、夏雲も麗花を見た。そんな彼女に凜風は穏やか声色で続ける。
「女官に手伝わせて腹部を必死に引っ込めて身支度するのは大変でしょう。今も座っている体勢、おつらいんじゃないですか? もっと体形に合ったものを着てもいいと思いますよ」
「なにを言っているの! 適当なこと言わないで!」
「夏雲さま」
激昂する麗花をよそに、今度は夏雲に呼びかけた。心なしか彼女の顔に緊張が走る。
「麗しい文字をしたためた書簡、見事だと聞いております。ですが、代筆もほどほどにしないと。いずれ泰然さまの前で筆写をお見せする機会があるかもしれませんから」
「はっ? なんで……」
夏雲から上品さの欠片もない切り返しがある。先ほどまでの余裕はどこへやら、夏雲は自身の女官を睨みつけ、彼女たちは首を横に振った。
「ちょっと、失礼じゃありません?」
目が据わった麗花に対し、珠倫は微笑を返した。
「あら、本当のことなら口にしてもいいんでしょう? それとも事実とは異なるのですか? だとしたら失礼いたしました。ここにいる女官含め誤解を解くために、どうぞ存分におふたりの体形や文字をこの場で披露なさってください」
麗花と夏雲の顔が怒りで歪む。目がつり上がり、唇を噛みしめひどい形相だ。その顔は十分に醜い。凜風は静かにため息をついた。
「維摩一黙《ゆいまいちもく》、雷の如し。あえて触れないことがいいこともあると思いませんか?」
そう言って目の前の餅に手を伸ばす。極力上品さを意識して、ぺろりとたいらげた。
「美味しいです。ぜひまたお裾分けいただけると幸いですわ。では、失礼します」
呆気にとられる麗花たちを無視し、凜風は立ち上がると、その場を颯爽と後にする。その際、黙ったままでいた林杏と目が合ったが、凜風はさっさと歩を進めた。
背後では誰が喋ったのかと女官を責め立てる麗花と夏雲の声が聞こえる。彼女たちの女官からは、凜風が元々は孤児であり珠倫の女官だからか冷たく見下されることが多かった。
主とは別だと思ったが、そうではないらしい。濡れ衣を着せたのは申し訳ないが、彼女たちが陰で聞こえるように主の悪口を言っているのも原因のひとつだ。
「珠倫さま、お戻りになられたんですね」
部屋に戻ると春蘭がいたので、凜風は動揺が隠せなかった。
「ええ」
「凜風は、やはり疲れているようで部屋で休ませています」
どうやらその報告を伝えにきたらしい。珠倫の体調も気になるが、今はそこまでの余裕がなかった。あきらかに元気のない主に、春蘭は腰を屈め覗き込むようにして窺ってくる。
「どうされました? また他の即妃たちになにか?」
彼の問いかけに凜風は目を見張った。
(春蘭は知っていたんだ……)
珠倫にとって他の妃のお茶会は毎回、あのように好き勝手言われる場だったのだろう。あまり好きではない甘い菓子をあんなふうに強要され、持って帰ろうとすれば馬鹿にされる。
あえて自分も春蘭も連れて行かなかったのは珠倫なりの気遣いなのか。
(私、馬鹿だ)
『これね、他の即妃の方々に頂いたお菓子。凜風にあげるわ』
『ありがとうございます!』
知らなかった。珠倫がどんな思いをしていたのか。能天気に菓子をもらって喜んでいた自分が情けない。
「春蘭がいなくなって……私、やっていけるかしら」
凜風としての本音が漏れる。春蘭が去ったあと、他の女官もつくとはいえ、珠倫を守っていけるのか。
「大丈夫です、凜風がいますよ」
慰めでも苦し紛れでもない、すぐさま真っすぐな彼の言葉が耳に届き、凜風は顔を上げた。それに伴い、春蘭もゆっくり立ち上がる。
「凜風がいます。彼女は誰よりも珠倫さまを大切にし、大事に思っている。女官としても十分な働きを見せています」
いつも春蘭からは足りないところばかりを指摘されるのに、まさか彼の口からこんなふうに評価されるとは思いもしなかった。
「珠倫さまが明星宮に輿入れする際に孤児だった凜風に声をかけたとき、私は反対しました。けれどその判断が今なら間違っていたと言えます。凜風は勤勉なうえ素直で嘘がない。有能で信頼できる人間ですよ」
(やめて、やめてよ……)
目の奥が熱くなり、凜風は再びうつむく。泣きそうになるのを必死に堪え、声が出せない。
おそらく目の前にいるのが、凜風自身だったら春蘭の態度も言葉も違っていただろう。
春蘭が戸惑っているのがわかるが、顔を上げられない。そのとき不意に頭の上に温もりを感じた。手のひらの感触に驚き、顔を上げると春蘭も慌てて手を離した。
「申し訳ありません、つい……」
「い、いいえ」
気恥ずかしさで早口に答える。たったこれだけの接触になにを動揺しているのか。用件を終えた春蘭が仕事に戻るというので彼を見送り、心臓がうるさいまま部屋にひとりになった。
(なにこれ、わけがわからない)
以前、春蘭に触れられたときは勢い余って跳ね除けてしまったが、今回はそんな気になれなかった。
(でもこれ、珠倫さまの体なのよね)
もしかすると春蘭にとって珠倫とのこれくらいの接触は当たり前のものなのかもしれない。だから自分にも触れてきたのか。
その結論に達すると、今度は違う傷みが胸に走る。春蘭といると落ち着かない。凜風はひとまず元に戻る方法を探ろうと、書庫へ向かう決意をした。