電車に揺られること、数十分。
 スマホを触らないというルールのおかげで、普段気にも止めていなかった電車内の光景をふたりは新鮮に感じていた。

 各駅停車の普通列車。
 駅に着いてドアが開く度、車内に熱風が運ばれてくる。涼しいクーラーとの攻防を肌で感じながら、端の席に腰掛ける如月は今しがた乗車してきた老齢のご婦人に目をやった。

 腰が少し曲がった白髪混じりの彼女は重たそうな買い物袋を片手に持ち、埋まっている座席を見回して息を吐いた。茹だるような暑さも相俟って、疲労が溜まっているのが見て取れた。

 スマホに夢中になっている女子大生や居眠りしているサラリーマンばかりで、その存在に誰も気づいていない。

 席を譲ろうと如月が立ち上がろうとすると、それよりも早く隣に掛けていた矢沢がパッと立ち上がった。


 「どうぞ」


 たった一言だけを発して席を譲った幼馴染が自分よりも大人びて見えて、かっこよく思えた。少し悔しくて、如月は唇を噛み締める。


 「せっかくお友だちと一緒に座っていたのにごめんなさいね」


 申し訳なさそうに謝られると、ただの善意でしたことなのにと矢沢もなんだか複雑な心境になってしまう。


 「いいんです、立ってる方がこいつの顔がよく見えるんで」


 座っている如月を見つめてそう笑ってみせれば、老齢の彼女は「まあまあ」と上品に口元に手を当てて微笑んだ。

 車内は涼しいはずなのに、一気に如月の身体が火照る。首の後ろが熱いのは、決して窓から差し込む日差しのせいではなかった。


 「仲良しなのね。どこか遊びに行くの?」
 「はい、ちょっと青春を探しに」
 「あら素敵。きっといい思い出になるわ」
 「そうなるといいんですけどね」


 幼い頃から誰とでも仲良くなってしまうのが矢沢だったなと如月は懐かしく思う。いつもそんな彼の後ろに隠れて、なかなか輪に入れなかった。寂しい疎外感と戦っていると、必ず矢沢はそんな自分に気がついてさりげなく輪の中に入れてくれるのだ。


 「こいつがいきなり昨日言い出したんですよ」
 「そうなの?」
 「……でも、俺よりノリノリだったじゃん」


 今日だってそうだと思っていれば、隣に座る彼女の優しい瞳が如月に向く。言葉に詰まりながら、言い訳するみたいに小さな声で答えると、矢沢が「はあ!?」と声を上げた。すぐに電車の中だということを思い出して口を抑えたけれど。


 「お前なあ……」
 「ふふ、いいコンビね」


 呆れたように声を漏らす矢沢だったが、楽しそうに微笑んでいるご婦人を見れば毒気が抜かれた。

 話に夢中になっていれば、いくつか駅を通り過ぎていた。車内アナウンスで次に停車する駅名を聞いたご婦人が立ち上がる。


 「ありがとう、貴方たちのおかげで楽しかったわ」
 「こちらこそありがとうございました」
 「またどこかで」


 きっと、この出会いは一期一会。
 二人の住む街から遠く離れたこの場所で、彼女に会うことは難しい。それでもまた会えたらいいなと願わずにはいられなかった。


 「なんか来てよかったかも」


 その言葉には理由も何も無い。
 ただなんとなくそう思ったから口に出ただけ。

 そんな矢沢に如月は同調するように頷いた。無言の返事がなんだか心地よかった。

 それから電車を何度か乗り継いで、何度もフィルムカメラのシャッターを切った。

 部活帰りの中学生。お腹の大きな妊婦さん。機嫌が悪いのか、泣いている赤ちゃんをお母さんと一緒にあやしたのはちょっぴり楽しかった。最後に降りていくときにはにっこり笑って手を振ってくれて、矢沢も如月もハートを撃ち抜かれた。

 ただ電車に乗っているだけなのに、たくさんの出会いがあった。だから最寄り駅に着いただけで二人には謎の達成感があったし、出発時に抱えていた後悔なんてすっかり夏の空に消えていた。