「いたっ……いたたたた」

 硝子の窓からさしこむ朝日とともに、環の意識は覚醒する。どうやら先ほどから髪が引っ張られているようだ。瞼をこすって頭上を確かめると、一つ眼小鬼が枕元でいたずらをしていた。

『しんいりだな! 起きろ! やいやい!』
「うん……もう、すこし……」

 そうだ、先日から九條家に身をおいているのだった、と環はぼんやりと思い至る。

(そういえば、マダラがいない)

 一つ眼小鬼に髪を引っ張られながら、環は一抹の寂しさを抱く。猫又のマダラは環が幼い頃から隣にいた。どんなきっかけがあったのかは覚えていないが、物心ついたころから独りぼっちであった環にとっては、友達でもあり家族のような存在でもあった。

(欲しがってたマタタビも、たくさん買ってあげるんだけどな……)

 上等なベッドは、環の家で使い古されている薄っぺらい布団とは比べ物にならないほどに寝心地がよかった。うとうとと再度眠気が押し寄せ、意識の境界線が曖昧になる。

『だーから! 違うって、オ、オレは、怪しいモノノケじゃ……あたたたた! 環! 環! いるんだったらこいつをなんとかしてくれ!』

 その時だった。聞き覚えのある声により、環の意識は覚醒した。

(この声、マダラ……?)

 慌ててベッドから飛び起き、自室の扉を開け放つ。一つ眼小鬼が肩の上にのってついてきているが、気にせずにパタパタと足を進めた。

 二階の長い廊下を通り過ぎ、声が聞こえてくる一階へと向かう。螺旋階段を降りると、思ったとおりの面影があった。

「ま、マダラ!」
『た、環ぃ~! こいつがいじめるんだよ!』

 見れば、屋敷の玄関でマダラが周によって捕獲されているではないか。環は血相を変えて駆け寄った。

「なんだ、環の連れか」

 月のような瞳が環に向けられて、どきりとする。それも束の間、環の表情はみるみるうちに青ざめていった。
 二つに分かれているしっぽを鷲掴みにしたまま、周は環とマダラを見比べている。

 マダラがなにものかに隙をみせるなど珍しい。餌につられることはあっても、捕獲されるまでの下手をうったことはなかったはずだが。

「そ、そうなんです! マダラとは、ずっといっしょに暮らしていて、だから、その、お、お願いです。どうか、ご、ご容赦を……」

 環が深々を頭を下げると、周は小さくため息をついてマダラを解き放ってくれた。

『ひえええ、おっかねえぜ……なんだあいつは、とんでもねえ気を持っていやがる』

 やっとの思いで脱出が叶ったマダラは、環の背後に隠れると周をあけすけに警戒する。鬼の姿をしていないとはいえ、周がもつ冷気はマダラの警戒を産んだ。敵か味方かも知れない妖を前に、鬼の気配を隠す必要もなかったという判断なのだろう。

「その猫又は妙な気を放っているな」
「え? 妙……?」
「害をなすつもりがないのなら、いい。それよりも――」

 再び周の氷のような瞳が環へと向けられ、硬直する。視線は環が着用している夜着へ。そして、肩にのってくつろいでいる一つ眼小鬼へと移動した。

「着替えもせずに飛び出してくるとは、あまり感心しないな」

 一歩環へと近づくと、解けてしまった胸もとのリボンに細長い指を絡める。

「ひっ……ああ、あの」
「身支度が面倒ならば女中を呼べばいい。あれは他人の世話をやくのが好きだからな」
「そ、そそ、そうさせて、いただきます……」

 わざと距離を詰めているのではないかとすら感じる。そうして、慌てふためく環を面白がっているのだろう、そうに違いない。環は昨夜の出来事を想起しては、大きく頭を振ってかき消した。

「今日だが、銀座の街に出向こうと思う。そこで一通り、必要なものを買いそろえなさい」

 気恥ずかしくなりうつむいていると、胸もとに伸びていた指がそっと離れる。

(街……?)

 街とは、環に縁のない場所だ。暗くじめっとした場所をもっぱら好む環にとって、人混みなどできれば遠慮願いたい。

「そ、それは、わ、私も同伴するという意味でしょう……か」
「当然だ」
「いいいい嫌です……! 街なんて、む、むりです……」

 何故外出しなくてはならないのか。本日の予定としては、丸一日九條家の図書室に引きこもるつもりだったのに。

『なあなあ、それって、うまいもんが食えるってことか?』
「た、食べられると思うけど……でも」
『じゃあ行こうぜ。おい、そこの……おまえ! オレも‟猫″の姿でついていく。いいだろ! 』

 顔面蒼白になりながら正面を見れば、勝手にしろと言わんばかりの顔つきをしている。

(そ、そんな……! 勝手なことを言わないで)

 給金までもらっている手前、口にするのは躊躇われる。

「朝餉を済ませたら、私の部屋までくるように」

 環がおろおろしていると、周はさっと身を翻して二階へ上がってしまった。

「引きこもりたかったのに……」

 がっくりとうなだれていると、一つ眼小鬼がけらけらと笑っている。

『しょげているぞ』
『しょげている。おもしろいな』
『いじめてしまおうか』
『だめだ、周様に怒られる』

 そればかりか屋敷中を駆けずり回っている座敷童子たちの声も聞こえてきた。妖を恐れない人間がよほど珍しいらしい。環は九條家に住み憑く妖たちに大層気に入られていたのだった。


 環はそれから、マダラとともに朝餉を手早くすませて自室に戻った。

 マダラは九條家の食事が気に入ったようで、山盛りの魚を食べあさっていた。まさかそんなに平らげてもなお、帝都の街で食にありつこうというつもりなのか、と環は呆れ返る。

『それにしても、あの男、只者じゃねえようだけど……あいつはなんなんだ?』
「契約上の婚約者の九條周さんだよ」
『えっ!? でも、オレに向けたあいつの気……どうみても妖だったぞ?』
「うん、普段は人間社会に紛れて生活をしてるみたい」

 扉を閉めるなり、マダラは衣装箪笥や洋風鏡の上をぴょこぴょこと走りまわると、最終的にベッドの上に着地をする。ベッドが気に入ったのか、ぽすんと身を沈めた。

『気の使い分けが巧みすぎて恐ろしいくらいだ……。ありゃあ、妖側からも見分けがつかねえと思うぜ……』
「あ、周さんは、鬼族の末裔なんだって」
『鬼ぃ……? そりゃあとんでもねえもんと縁を結んじまったもんだ。それにしても鬼族といえば、たしか……』
 
 コンコンと控えめに扉がノックされる。なにかを言いかけていたマダラをよそに、環は慌てて扉のそばまで駆け寄った。

「環様、御仕度のお手伝いをさせてくださいませ」

 廊下に立っていたのは、妖の女中だった。あれから名前を聞いてみたが、とくにそれらしいものはないらしい。