いっそう重い冷気が立ち込める。隣を歩く雅に意識を向けているが、気を抜けば環も意識を持っていかれそうになる。やがて、階段を降りきった先、最深部に現れたのは、古い祭壇のようなものだった。

『うあああ……ああっ……』
『い……たい、くる……しい、たすけ……て』
『うああああ、いたい、いた……い、いた……い』

 そして、脳天を震えさせる――数多の‟声″。

「さあ、お探しの‟みなさん″がお待ちよ」

 環はその場で愕然とし、むせ返るような吐き気を催した。
 祭壇が設置されている天井には、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣があった。その中央で腹を丸々と膨れ上がらせている化け物。

 土蜘蛛の腹の中には、人間がいた。一人や二人どころではない――おそらくは、これまでに攫ってきた令嬢が蓄積されているのだと理解をして、背筋が凍りつく。

「る……りこ、瑠璃子‼」

 環が天井を見上げて目を見開いていると、雅が取り乱した様子で祭壇へと駆けだしてしまう。
 土蜘蛛の腹の中で蠢いている人間は、かろうじて姿かたちを保っているものもいれば、取り込まれてから時間が経過し、原型をとどめていない者も存在している。

 雅が探し求めていた瑠璃子は失踪してまもなかったため、土蜘蛛の体液に溶解していないようであった。

「今すぐに……解放……しなさい。玲子さん……あなた、自分が何をしているか、分かって」
『なんだ……此度の餌は、随分と威勢がいいな』

 雅はきつく玲子を睨みつける。しかし、玲子がくすりと微笑むと同時に、岩肌が鈍い音を立てて震えた。

「なっ……‼」
『ああ、とにかく腹が減った。玲子よ、此度もご苦労であったぞ』

 天井を這っていた土蜘蛛の目玉が、ぎょろりと雅を見据える。獰猛な口から糸が吐き出されると、雅に向かって伸びていく。
 環はとっさに一歩踏み出すが――遅い。間に合わない。だが、なんとかしなくては。

(マダラ……‼ お願い‼)

 土蜘蛛が吐き出す糸が瞬きの間に雅の体に巻き付き、拘束する。ぐったりとした様子の雅は、土蜘蛛が吐き出す瘴気にあてられてしまったのだろう。

 環がとっさにマダラを呼びつけると、大きなため息が聞こえてくる。

『ったく、しょうがねえお転婆娘だなっ……』

 瞬きをしたその瞬間、環の足元に隠れていたマダラが飛び出した。ずんぐりむっくりとした猫又の姿――ではなく、鋭い牙、獰猛な瞳、威厳のある爪、普段とは異なり、環よりも何倍も大きな体が、目の前を風のように駆けていく。

『助けてやる義理なんてないが、環の願いだ。感謝しろよ』

 低く喉を鳴らし、土蜘蛛の糸を嚙みちぎる。グルル……と地を震わせるような威嚇をすると、雅を背中に乗せて距離をとった。

『猫又が隠れていたとは、驚いた』
『おまえ、いったい何人食ったんだ。土蜘蛛は本来、人間の言葉は話せやしないはずだが』
『さあ、いちいち数えてはいないさ。それにしても、腹が減って仕方がない。人間がうまくてうまくて……もっと、もっと、ほしいのに……ああ、邪魔を……するな』

 土蜘蛛は目玉を真っ赤に染める。ぼたぼたと零れ落ちる唾液は、じゅわりと岩盤を溶かしていった。

「環さんったら、最初からわたくしたちの邪魔をする気でいらしたのね」
「攫った令嬢たちを、解放……してください」
「ごめんなさい、それはできないの。だって、聞こえないの? 彼女たちの‟絶望″する声が。命の輝きが。ああ、なんて素晴らしいのかしら」

 取り囲む瘴気が環の意識を侵しにかかる。この期に及んでも優雅に微笑んでいる玲子がかすんで見えた。

「それに、解放をしたところでもう助かりはしないわ。土蜘蛛様の腹の中で、絶望をしながら溶けてゆくしかない……」

 どうしてなのだろう。環の中には安値な正義感など存在しない。むしろ、自分と関わりのない人間のために身を呈す必要はないと考える質だ。
 人間は恐ろしい。関わるべきではない。生きていようが死んでいようがかまいはしない。環は環だけの世界が守られていればそれでよかった。それなのに、どうしてこの場に出向いてしまったのか。

『いたいよ……くるしいよ……たすけてよ』
『ごめんなさい……ゆるして、お願いだから』
『ああ……あああ……』

 土蜘蛛の腹の中から聞こえてくる嘆きが、かつての自分と重なった。
 かなしくて、苦しくて、痛くて、目の前が真っ赤に染まった時、本当は何かにすがりたかったのだ。助けてほしいと願ったはずなのだ。

「生まれて落ちたその瞬間から、行き先が定められたレールが敷かれていたわ。凪のような日々は……とても、退屈だった」
「……」
「良家に嫁ぎ、健やかな子を産む……。誰もが憧れる薔薇のような暮らしを、定められるがままに謳歌する。わたくしは、そのような生活は‟死んでいる″も同然だと思っているの」
「だ……けど」
「嘆かわしい。わたくしたちは、生まれながらにしてこの罪深い鳥かごの中に囚われている。だから、わたくしが、外に出してさしあげるのよ。これは、救済なの。‟絶望″を得ることで、彼女たちはようやく真の人間になれる」

 玲子はうっとりと土蜘蛛を見上げる。

『そうだ……そうして、わらわはここで、こっそりと人間を食えている。ああ、嬉しい。嬉しい。ここまで力もついたことだ。これで、蜘蛛だからと上位の妖どもに馬鹿にされることもないだろう』

 土蜘蛛は息を荒げると、マダラに向けて鋭い糸を吐いた。土蜘蛛からの奇襲を軽々とよけるマダラであったが、雅を庇い立てながらでは、糸をよけるので精いっぱいのようだった。

『くっそ……瘴気が、重すぎる』
『ひえひえひえっ! わらわは猫又をも凌駕する‼ 人間を、人間を寄こせええ‼』

 人間を食らいすぎた土蜘蛛は、底知れない妖力でマダラに襲い掛かる。

(このままじゃ、マダラと雅様が……‼)

 環はとっさに祭壇の前に飛び出し、近くに転がっていた小石で自らの腕を切りつける。すると、土蜘蛛の獰猛な瞳がぎょろりと環へと向けられた。

(たしか妖たちは、私からはいい匂いがするって言ってた……)

 周によって妖術が施されているようであったが、手首からしたたり落ちる環の血液からは極上な香りが漂っている。

『はあああっ……なんだ、このうまそうな匂いは……はあ、はあ』
『環‼ 馬鹿な事をするんじゃねえ‼ くそ、今そっちに』

 マダラはぐったりと倒れこんでいる雅を置いて、環のもとへと駆け寄ろうとしている。しかし、それでは、ただでさえ瘴気に当てられている雅を誰が守るのだ。
 おそらくは、環の命よりも、雅の命の方が重みがある。陰気な引きこもりである環などより、公明正大な公爵家令嬢である雅が優先されるべきだろう。
 それに、成獣と化したマダラであれば、土蜘蛛が環に気をとられている隙をみて、丸々と膨れた腹を切り裂いてくれるはずだ。

『ウマソウ……クイタイ……ああああ』
『環‼』

 土蜘蛛の獰猛な口が環へと迫った。環はそっと目を閉じる。
 ――この土蜘蛛も、底なしの飢えに苦しんでいる。
 これほど人間を食らってしまっていては、もう正気には戻れない。化け物になり果ててしまった土蜘蛛をいっそ哀れに思った。

 常世は虚無の世界だ。土蜘蛛のみでは、きっと寂しいだろう。
 土蜘蛛が吐き出す瘴気をほんの目の前で感じたその時だった。

「――住ね」

 すぱんっ……と何かが切り落とされる音が聞こえた。
 辺り一帯が凍り付くほどの冷気。地面をそこ震えさせるほどの低い声。

『うぎゃあああああああ‼』

 環の視界で艶やかな黒髪が流れている。月のような瞳に、陶器のごとき白い肌。鋭く伸びた爪と牙――そして、威厳を示す一対の角。
 のたうち回る土蜘蛛を冷ややかに見下ろす男は――紛れもなく鬼の姿をした周だった。
 ぼとり、と切断された土蜘蛛の手足が落ちる。

「つ……土蜘蛛様……‼ それに、あなた……は……」

 玲子は顔を青々とさせてその場に崩れ落ちた。変わり果てた姿ではあるが、人間の姿の面影が残る周を見て、愕然としている。

「あなたの絶望を、他人に押し付けるな」
「うっ……」
「退屈な人生は、あなたの手でいくらでも変えられる。喜びや痛み、命の輝きは決して他人からは得られない。これからは、そういう時代がやってくる」

 周は冷徹に見据えると、玲子に向けて冷たい炎を放った。

「眠れ。――悪い夢は、目覚めたら醒める」

 周の妖力による影響なのか、玲子はその場に倒れこみ、意識を手放した。

『おのれ……鬼族か……くそう……』

 周と比べても何倍もの体格を有している土蜘蛛であったが、放たれている冷気の威力は周がはるかに凌駕している。

「あ、周……さん」

 呼びつけると、周はちらと環を一瞥をする。したたり落ちる血液を視界に入れて、眉を顰めた。

「ふざけるな」
「えっ……あの、えっと」
「――髪の一本も、血の一滴でさえ、私のものだ」

 辺りが轟轟と鳴り響くのは、鬼が怒っている証拠か。周は右手を振り上げると、視界に映らぬ速さで土蜘蛛の腹を真っ二つに切り裂いた。

「現世と常世の均衡を揺るがすものよ。鬼族の名のもとに送り返す――」
『やめて……やめてくれ』
「炎の中で、眠るといい」
『うっ……うぎゃあああああっ……‼』

 どろりと流れ出す体液。中に蓄えられていた人間たちが地面に放り出される。土蜘蛛の巨体は、鬼火によって焼かれていた。
 青い炎は残酷なようで、ひどく美しい。あたりに立ち込めていた瘴気や、張り巡らされている糸ごと飲み込み、やがて静寂が訪れた。

『環‼ 無事か‼』

 しばらくその場で呆然としていると、雅を背負ったマダラが駆け寄ってくる。普段はずんぐりむっくりしているマダラであるが、成獣になった姿は毛並みすら勇ましいかぎりだ。

「う……うん」
『ったく‼ おまえふざけるなよ‼ 自分がなにをしようとしたか分かってるんだろうな‼ 自分から食われようとする馬鹿がどこにいるんだよ‼』
「ご、ごめん……」
『ごめんじゃねえんだよ‼ このドアホ‼』

 がるる……と低く喉を鳴らすマダラを前に、環はひいっと後ずさりをする。これで一件落着……とは至らないようだ。

『それにしても、まさか周が出張ってくるとはな。けっ……いいところばかり持っていきやがって。気に入らねえ』
「あ、周さんも……ご、ご迷惑を、おかけして……ご、ごめんなさい」

 おずおずと謝罪を述べるが、周の視線はいまだ冷たい。まだ怒っているのだ。

「あ……ああ、あの」

 なんといえばいいのだろう。周がそこまで憤怒する理由が分からずにあたふたしていると、周はちらと祭壇の前を見やった。

「あの人間たちには、まだ息がある」
「え?」
「数日もすれば目覚めるだろう。ぬらりひょんのツテに手回しは済んでいるから、綾小路と栗花落の令嬢もともに運ばせる」
「じゃ……じゃあ、る、瑠璃子様は無事で……? そ、それに、玲子様は、周さんの姿を見てしまっていますが……その、ごにょごにょ」
「栗花落の令嬢の記憶には少し干渉させてもらった。目覚めた時には、一連の事件の記憶を、すべて忘れているだろう」

 鬼の力は人知を超えている。 環は末恐ろしくなり、二度度怒らせないようにしようと心に決めたのだった。

「玲子様も、土蜘蛛も……苦しんでいた……みたいでした」
「……」
「私には、まだ……よく、分かり、ません。でも……これで、よかったんです、よね」

 本来抱くはずもない欲望に狂わされた土蜘蛛。華族社会に嘆いた玲子。彼らの絶望は、かつて環が感じた孤独や不安、恐怖を想起させたが、それでもなお、すべてを理解するには足りなかった。

『いいわけ……ねえだろ! オレはまだ、環を許す気になれねえ!』
「ひいっ……ごごご、ごめん!」
『ああ、くそ、今日はさっさと寝る! こんな薄気味悪い場所、さっさと退くぞ!』

 マダラの唸り声が辺りに響き渡る。
 帝都を揺るがした華族令嬢失踪事件は、こうして幕を下ろしたのだった。