環は物心がついた時より、人ならざるものを見ることができた。それらは環にいたずらをすることもあったし、寂しい時の話し相手になってくれることもあった。

 環は、幼少時代を座敷牢で過ごした。土蔵が厳重に仕切られ、施錠され、今が昼なのか夜なのかすら分からないような場所で、いったいどのくらいの時間を過ごしていたのだろう。暗くて、怖くて、寂しかった。

 冬は凍えるほどに寒く、夏は蒸し風呂のように暑い。そんな場所でただじっと耐え忍んでいると、ついに、座敷牢の施錠が解かれる時がくる。
 大人たちは環を外に連れ出すと、人目を避けるように薄暗い道を進んでゆく。木々の背後に隠れている妖怪たちが環をじっと見ていた。環が声をかけると妖怪たちは消えてしまったが、大人たちを見れば、まるで恐れおののくように震えあがっていた。

 うねるように生い茂る林道の先、ぼんやりと灯されている提灯が見えた。座敷牢の中は狭くて暗かったが、外の世界をはじめて知れて、環は嬉しかった。

 環が「どこに行くのか」と尋ねると、大人たちは優しそうな笑みを浮かべて「うまいものがたらふく食べられるところだよ」と答えた。環はなおのこと嬉しく思った。親切な大人たちが環を外に出してくれたのだ。

 どのくらい歩いたことか。やがて、環は見知らぬ男たちのもとへ引き渡された。じろじろとした目で環を選別すると、環を四方から取り囲む。
 闇夜に浮かぶ目玉が恐ろしかった。伸びてくる腕が生き物のようにうねって見える。逃げ出そうとする環を、大人たちは走って捕獲した。優し気な笑みを浮かべながら「じっとしていなさい、いい子だから」と告げる。

 環には、誰が人間で、誰が妖ものなのかが判別できなかった。いやだ、離して、と訴える環に、大人たちは優しく笑いかけるのだ。不気味だった。恐ろしかった。大人たちは環を座敷牢から連れ出してくれたのではなかったのか。

 伸びてくる手にぶるぶると震える。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ。

 ――誰か、‟みんな″!

 刹那、視界が真っ赤になる。ぶちぶちと何かが引き裂かれる音、大人たちの悲鳴が聞こえる。気づけば、あたりに火の手があがっていて、環がたった一人だけその場に立っていた。


  *


 雅を送り届け、九條邸に到着してからもやはり、周はどことなく不機嫌な様子だった。環はそわそわと落ち着かず、広間で茶を飲んでいるぬらりひょんに相談を持ち掛けた。

「周殿はおぬしを大事に思っているからこそ、怒っておられるのだろう」

 だが、ぬらりひょんは面白い話を聞いたとばかりに笑っているではないか。環にとっては深刻な相談をしたつもりだったというのに、真面目に答えてほしいものだ。

「だ、大事、だと……な、なんで、お、怒るのでしょうか……」
「それは、おぬしに自分自身をもっと大切にしてほしいからだろうな」
「よ、よく分かりません……」
「ふむ、おぼこいの、おぼこいの、そうかそうか周殿もようやく……」

 ぬらりひょんは屋敷に上がり込んでは茶を飲んでいるだけで、的確な助言はしてくれなかった。そもそも、この一連の令嬢失踪事件の解決は何よりも先決ではないものか。妖ものを可視できる環が囮になることで、令嬢たちも効率的に救出できる。それの何が良くなかったのだろう。

「そ、それに、マダラも乗り気じゃないみたいで。いつもはもっと調子がいいのに」
「その蜘蛛とやらはおそらく、土蜘蛛で間違いないだろう。あやつは、腹の中に何をため込んでいるのか、予測もできんからな……おぬし一人で向かわせるのは危険じゃろて」
「で、でも」
「しかし、不思議だのう。おぬしは少し前まで、外界との接触を頑なに拒んでいるように見受けられたのだが」

 ぬらりひょんが茶を喉に流し込むと、環はぐっと押し黙った。

「そ、それは、もちろん、できることなら……引きこもって、いたい、です」
「ふむ」
「で、でも……自分でも、わ、分からないの……ですが、わ、私にも、できることがある、ならって、思ってしまう時がある、というか」

 不思議な感覚だった。そうすることで、己自身が何を求めているのか。妖は好きだ。人間は嫌いだ。でも、人間に雅のような裏表のない者もいれば、妖にも土蜘蛛のように悪さをしてしまう者もいる。周ほどの大義名分は背負えないものの、環はこの目で、世界の在り方を確認したいと思ってしまっているのかもしれない。

「ご、ごめんなさい……す、少し、夜風に当たって、きます」

 結局考えはまとまらず、環はその場をあとにした。


 二階のバルコニーに出ると、周の姿があった。環ははっとして引き返そうとしたのだが、何もない場所にけつまずいてその場に尻もちをつく。

 しまった、と冷や汗をかいたのも束の間、振り返った周と目があってしまった。

(きっとまだ怒ってる……)

 気まずい気持ちになり、とっさに俯くと、周がこちらに歩み寄ってくる気配がする。

「ひいい、ごごごご、ごめん、なさい!」
「……ただ手を差し伸べているだけだろう」

 怒られるのだと身構えていたが、頭上からため息が落とされる。恐る恐る見上げると尻もちをついた環に手を差し出している。
 おずおずと手をとって立ち上がると、さらに居たたまれなくなった。

「あ……ありがとう、ございます」
「……」

 再び訪れる沈黙。夜空に浮かんでいる月は、周の美しい横顔を幻想的に照らしている。

「わ、私、その」

 環が口を開きかけると、周の視線がそろりと向けられた。綺麗な指先が伸びてくると、環の長い髪を一束掬い上げる。
 あまりに唐突な行動に、環は呼吸を忘れてしまった。周はそのまま指先を口元に寄せると、環の髪に口づけをした。

「あ、あのっ!」

 はくはくと唇を開け閉めし、動揺が隠せない。だが、周はいたって冷静沈着だった。

「どうして――こうまで腹が立つのか」
「え……?」
「この髪の一本でさえも、何者にも奪われたくはないなどと」

 いったい何を言っているのか。環は頭の中が真っ白になる。

「他の者に食われる前に、いっそ私が、一思いに食ってしまえばいいものか」

 やはり――怒っているのだ。鋭く伸びてゆく爪が、環の首筋につきつけられる。犬歯は鋭く尖り、額からは一対の角が現れた。鬼の姿に変貌を遂げた周は、環を冷たく見据えた。

「奪われなければ、よいの、ですか」
「……」
「きっと、うまく……やります。そうしたら、褒めては、くれないの、ですか」

 周ならば上出来だと言ってくれるものだと思っていた。環を認めてくれると思っていた。あれほど他者を拒絶していたはずであったのに、ここ最近はなぜか、自身を承認されるようで嬉しかったのだ。

 だから、このように冷たい目を向けられると胸が痛んだ。悲しい。なぜ? 分からない。

「私は、足手まとい……ですか」
「……」
「もう、用済み、ですか」

 婚約者のふりをして令嬢界隈に潜り込むなど御免だと思っていた。厄介な仕事を引き受けてしまったものだと後悔をしていたはずだ。早々に手がかりを見つけて、暇をもらおうと考えていたのに、環の気持ちは揺らいでいる。

 周はしばらく沈黙を貫くと、そっと環を抱き寄せる。

「違う。そうではないから、腹が立っているんだ」
「え……?」
「私には、あなたが必要だ」