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 周と別れると、環はとたんに心細くなった。人見知りをこじらせている環が、華族令嬢と渡り合えるわけがないのだ。時子に連れられて、ダンスホールの貴賓室までやってくると膝がかたかたと震えてしまった。

「まあ、時子さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、よし江さん」

 貴賓室の中は令嬢たちで賑わっていた。入口から見える二階部分では、数人の令嬢がテーブルを囲んでいる。優雅にティータイムをしているといったところだろうが、大抵の者たちは一階部分で立ち話をしているようだった。

 環は時子の背中に隠れてびくびくと震える。注目が自分に向けられているこの状況は如何せん耐え難かった。

「あら、そちらの方は……」
「九重環様です。九條周様のご婚約者でいらっしゃるそうで、この度はご挨拶をと」
「九條様の……? まあまあ……」

 上から下まで品定めをされているような気がした。環は令嬢たちの視線から逃れるように身を縮こませる。

「わたくしは、平塚よし江と申しますわ」
「こ、九重、たっ、環……です」

 フリルがふんだんに使われた豪奢なドレスが目に飛び込んでくる。いかにも上流階級であるといわんばかりの風貌に、尻込みをしてしまう。

(やっ……やっぱり、むりだよ)

『つってもよお……少しでも怪しいもんがないか探らねえとなあ』

 環にだけ聞こえるマダラの声にびくりと反応する。周囲を見渡しても妖ものの気配は感じられない。もし、令嬢たちの中に人ならざるものが混ざっていたのであれば、環は早々に見破ることができるだろうが。

「そ、それにしても、ず、随分とたくさん……に、賑わっていらっしゃるんです、ね」

 挨拶もそこそこに、環は怯えながら話題を切り出した。人とのかかわり方などよく分からないのだ。

「え? ええ、そうですね。環様は白薔薇会ははじめてですの?」
「は、はい。今まではあまり、こういう場には出向いたことが、なかったもので……」

 よし江はいぶかしむような視線を環へと向けてくる。

(や、やっぱり怪しまれてる……!)

 あきらかに令嬢らしくない振る舞いであることは重々承知している。機転の利く行動がとれるわけもなく、環はびくびくと肩をすくませるばかりであった。

「そう……ですか」
「環様のお家は水戸の伯爵家でいらっしゃるそうなんです。だから、このような場にいらしたことはないのかと」
「水戸の伯爵家……まあまあ、それは申し訳ございません。失礼いたしましたわ」

 ひとたび沈黙が流れると、時子が仲裁に入った。華族であるとはとんでもない嘘なのであるが、よし江の表情は分かりやすいほどに友好的なものに変わったのだった。

「ここは、白薔薇会といって、華族当主、もしくはそのご子息を応援すべく、その妻、そして婚約者たちで結成されているのです」
「そ……そうなん、ですね」

 となると、ここにいる令嬢たちは全員、華族である誰かと夫婦であったり、婚約関係にあるということになる。ただ華族令嬢であるだけでは、この白薔薇会の一員に加わることはできないのだ。もしかすると、華族に生まれた令嬢たちにとっては、この場への招待は何にも代えがたい名誉なのであるかもしれない。甚だ環には縁遠い世界だ。

「中でもあの二階席にいらっしゃる方々は、わたくしどもにはとてもとても……手の届かぬ存在」
「……と、いうと?」
「あの方々は、公爵家令嬢でいらっしゃるのです。中でも、中央の席に座っていらっしゃるのは、栗花落玲子(つゆりれいこ)様……白薔薇会を先導されているお方ですわ」

 よし江があまりにうっとりと目を細めるものだから、環はつられて二階席を見やった。この貴賓室に入った時に一番はじめに視界に飛び込んできたが、まさに選ばれし者のみが上がれる天井の場所だった。

 二階席の中央には、痛みひとつない黒髪を胸の下あたりまで伸ばしている令嬢が腰を下ろしている。優雅にティーカップを持ち、談笑していた。

(綺麗な人……)

 環はぼけっと口を開いたまま見入ってしまう。周と同様に、儚い中にも艶やかさが香る美しさ。まるで環とは次元が違う。月とすっぽんだ。

『うげえ、オレはああいう気取った女は嫌いだね』

(き、気取ってるようには見えないけど……)

『明らかにすましてんじゃねえか。あんな二階の席なんかに座ってよお』

 どうやらマダラは気にいらないようだ。かといって、環自身も仲がよくなれるのかと問われれば、とてもじゃないがそんな気は微塵もしないだろうと思った。

「と、ところで……、ひとつ、気になることがあるのですが、よろしいで、しょうか」

 ぼんやりしている場合ではない。まったくもって腰が重いのだが、環には調べねばならないことがある。
 時子とよし江の視線がこちらに向けられると、環はびくっと肩を震わせる。

「わ、私……う、噂をみっ、耳にしたのですが……」
「噂?」
「あっ……あのっ、近頃、れ、令嬢が失踪している……と。だから、す、少し……怖くて」

 きょろきょろと視線を泳がせ、やっとの思いで問いを口にできた。

「ああ……そうですわよね」
「ここ最近、令嬢が失踪されているのは、事実ですわ。とくに、行方不明者は白薔薇会に所属している令嬢がほとんどですの」
「そ、それじゃあ……み、みなさんは、こ、怖くはないの、でしょうか」

 白薔薇会に属する令嬢が狙われているといってもいいような状況だ。それなのに、ここにいる者たちは優雅に談笑をするばかりで、我が身を案じているそぶりはない。

「もちろん、みな警戒しておりますわ。護衛をつけて、一人になる機会はつくらないようにしております」
「で……でも、ここには護衛の方々はお見えにならないような……気がするのですが」

 警護されているというのであれば、過剰な心配はいらないのかもしれないが、犯人は妖である可能性が高い。そうなれば、お手洗いに行くために席を立った瞬間を狙われることだってある。そもそも、男子禁制ともいえる白薔薇会には、腕っぷしのたちそうな護衛の姿はなかった。

「まさか……ここは白薔薇会ですもの。みな慎ましい女性……そのような物騒な出来事が起こるはずもありませんわ」
「で、ですが」
「とはいえ、行方不明になった令嬢は誰一人として見つかってはおりませんの。帝都警察は何をされているのかしら。早く犯人が捕まってほしいものですわね……」

 時子とよし江はお互いに顔を合わせてため息をついている。

『……となるとやっぱり、この白薔薇会がいっそう怪しいんじゃねえのか?』

 二人の間に挟まれて身をすくませていると、環の意識の中にマダラが声をかけてきた。

(マダラもそう思う……?)

『だってよ、被害者はこの白薔薇会に出入りしている令嬢がほとんどなんだろ? 接点を利用して、こっそり攫って食っちまってるんじゃねえかって話だよ』

(で、でも……だとしたら誰が? ここには妖の気配はしないよ)

『そうなんだよなあ、こうなってくるともう少し聞き込みが必要になるかもしれねえな』

 これだけでも精一杯だというのに、またさらに人脈を築かなくてはならないのか。環は顔を真っ青にして首を振った。

「どうされましたの?」
「い……いえ、なんでも、ありません」

 いっそ白薔薇会の中に分かりやすく妖しい人物がいてくれたらよかった。そうすれば、対象者を周に告げたら万事解決。もう二度とこのような社交場に連れられる機会もなくなるだろうに。

「なんなんですの……! いったいどうして、わたくしがおかしな言いがかりをしているというの!?」

 再びうつむいた時、貴賓室一帯で突然金切り声が炸裂した。びくっと肩を震わせると、二階席から大股で階段を下りてくる令嬢がいる。名前は知らないが、二階席にいたということは、華族の中でも最も位の高い公爵家令嬢だろう。

「もういいわ、あなた方ではお話になりませんもの」

 何があったのか。穏やかな令嬢たちの会合は、彼女が声を荒げたことにより、しん……と静まり返ってしまう。かなり苛立っているように見えた。それだけでなく、もともとの性質なのか気の強そうな令嬢だ、と環は思った。

「あ、あの方は……」
綾小路雅(あやのこうじみやび)様ですわ。あの玲子様と同じく公爵家令嬢であらせられるお方」

 あたりに緊張感が走ったため、時子はこっそりと耳打ちをして教えてくれた。

「そんなすごい方が、どうして」
「実は先日、雅様の旧来のご友人が失踪されたのです。もちろん、白薔薇会のご令嬢で、お名前を冨永瑠璃子(とみながるりこ)さんと申します。それで……」
「え?」
「ええ、それで……大変申しにくいのですが……雅様は、この白薔薇会の中に犯人がいると、玲子様に直談判をされているんです」

 環ははっと喉を鳴らした。雅は、行方不明となった友人のため、自力で事件を解決しようとしているのだ。環や周の考えがあっているのであれば、今頃は妖ものの巣に囚われているか、もしくは、もうすでに――。

「雅さん、お静かに。みなさまが驚かれているでしょう」

 すると、雅を追いかけるようにして、玲子が螺旋階段を下りてくる。ただそれだけの光景であったのに、ため息が出るほど美しかった。

「では、わたくしの意見に耳を傾けていただけるのでしょうか」
「……雅さんのお気持ちは十分にお察しいたします。けれど、このような場所で騒ぎ立ててしまっては、余計にみなさまの心配を煽るだけでしょう」
「だから、わたくしは、その白薔薇会自体が怪しいのではないかと申しているのですわ!」

 環たちの目の前で立ち止まった雅は、ものすごい剣幕で捲し立てている。思わず二、三歩後退してしまうほどだった。

「善良なみなさまを疑うなどとは……心苦しいことをどうかおっしゃらないで」
「どうして玲子さんはそう呑気でいらっしゃるの? もう良いです。わたくし一人で調べてみせます」

 そう言い捨てて、いよいよ雅はこの場から去ってしまった。
 この華族界隈で一番偉い人物相手にそこまで言えてしまうとは、と環は腰を抜かしそうになった。

『すっげえ……』

(うん、でも、あの人だったら、なにか知ってるのかな)

『あそこまで強気な態度をみるかぎり、そうかもしれねえな。近づいてみる価値あり、だな』

 マダラの声に環はどきりとした。まさか、雅のような勝気な令嬢にどうやって接触しろというのだ。環の技量では甚だ難しいように思えるのだが。ぶるぶる震えていると、ひと際美々しい雰囲気を醸し出している玲子と目があった。

(――え)

 玲子は環に気が付くと、目尻を細めて笑いかけてきた。

「あら、はじめてお目にするお嬢様だこと」
「あ……えっと」

 そうだ、環は今日はじめて白薔薇会の扉を叩いた新入りなのだ。となれば、それを先導する者に挨拶をしないなど、失礼極まりない。

「こちらは九重環様でいらっしゃいます。九條周様の婚約者であるそうで、本日より白薔薇会にお見えになっておりますわ」
「そう……九條殿の……」

 すうと目が細められ、環の顔をよく見るように一歩近づいた。口元のひとつをとっても麗しく、気を抜けば飲み込まれてしまうような雰囲気をもつ令嬢だ、と環は思った。

「ふふ、かわいらしいお嬢様ね」
「ひっ……」

 ふわり、薔薇の香りがした。魅惑的な笑みを向けられ、環はおどおどと身を強張らせる。

「わたくしは栗花落玲子。今日ははじめてだというのに、怖がらせてしまってごめんなさいね」
「い、いえ……」
「ここはとても素敵な場所よ。どうかそう緊張せずに、楽しまれて」
「……は、はい」

 そんなわけがないだろう。環は一刻もはやくこのドレスすら脱いでしまいたいと思っているのだ。人と関わるのは苦痛でしかなく、暗くじめっとした部屋で本を読んでいたい。ましてや、育ってきた環境が異なる令嬢たちとまともに打ち解けられるわけがない。表では綺麗な顔を浮かべておきながらも、どうせ、玲子も一般庶民を見下しているに違いないのだ。

 びくびくと肩を揺らす環をみて、玲子は再び目を細める。

「本当に……かわいらしいお嬢様だこと」
「あ、あの」

 桃色に艶めく唇がゆるやかな弧を描いた。

「白薔薇会へようこそ。――……環さん」